エヴァンジェリカ・セロンには、生まれついての気高さと強い芯があった。それは血筋だけによってもたらされるものではなく、彼女自身が不断の努力を積み重ねてきた結果として培われたものだ。セロン公爵家の令嬢として、幼い頃から社交界の礼儀作法、宮廷での言動、学問や芸術、魔法の素養に至るまで、あらゆる課題を完璧にこなすよう厳しく教え込まれてきた。けれど、彼女にとって「努力すること」はもはや呼吸のように自然な行為であり、その苦しさを表に出すことはなかった。
長く続く大国メルガーデン王国において、セロン公爵家は王家を支える重臣の一つだった。公爵家の令嬢であるエヴァンジェリカが、王太子であるレオナード殿下の婚約者として内定したのは、彼女が十歳を迎えた年。まだ幼いながらも非凡な才覚を見せ始めていたエヴァンジェリカに、王家側も大きな期待を寄せたのだ。当時はまだ、王太子レオナードも彼女の働きぶりを素直に称え、周囲も「将来は理想的な王妃になるだろう」と囁いていた。
あれから数年、エヴァンジェリカは十七歳になり、正式に王太子妃としての立場を社交界でも認められていた。彼女は王宮での儀式や各種行事、外交の場での接遇まで、人並み外れた優秀さを披露し続け、王妃候補としての評価はうなぎ登りだった。彼女の名前は王都でも広く知られ、若い貴婦人たちの憧れの的となるほどだ。
そんなエヴァンジェリカのもとに、一つの“噂”が流れ始めたのは、ここ半年のこと。――平民出身の聖女が、王宮に招かれたという。名はフローラといって、教会の高位神官が「この娘こそが神託を受け継ぎ、国に祝福をもたらす聖女である」と発表したのだ。その聖女フローラは、まるで童話に出てくるかのような可憐な少女で、王宮に上がってからというもの、瞬く間に王宮中の話題をさらった。
王太子レオナードが、フローラに興味を持ったのは、ある意味自然な流れだったのかもしれない。王城での祈祷式や慈善活動のたびに、彼はフローラをエスコートし、ときには親しげな会話を重ねていた。それだけならまだしも、いつの間にかフローラを「大切な存在」と呼ぶようになり、側近たちを慌てさせていたのだ。
それでもエヴァンジェリカは、王太子の寵愛を独り占めしようなどという狭量な考えを持ったことはない。むしろ、真に国を想う聖女であれば、一国の王妃となる自分にとっては頼もしい協力者となるはず。そう信じて、フローラに対しても積極的に話し掛けたり、彼女の身分が低いことに配慮して衣裳の用意を進言したりと、気を配っていた。
ところが、フローラの目はどこか遠慮がちな色を帯びながらも、深い敵意を宿しているように見えた。エヴァンジェリカは初め、その様子を「緊張しているだけだろう」と解釈していた。けれど、周囲からちらほらと聞こえてきたのは、「エヴァンジェリカさまは聖女フローラを冷遇しているらしい」「強欲な公爵令嬢は、自分が王妃になるために聖女を疎んでいる」といった根も葉もない噂ばかり。どうにも胸騒ぎがしてならなかった。
そして――悪夢のような事件が起きたのは、秋の夜会の前日である。
王宮の舞踏会場では、明日の夜会の準備が着々と進められていた。エヴァンジェリカは、本来なら夜会の前日には舞台裏をチェックし、招待客の座席や食事メニュー、余興の進行などを最終確認する立場にある。ところが、その日は午前中から居合わせた宮廷楽師たちの打ち合わせが長引き、休憩を挟むこともできずに夕方を迎えてしまった。
ようやく一段落して、少し遅めの昼食を済ませようと、エヴァンジェリカは王宮の廊下を急いでいた。その時、背後から控えめな足音が近づいてくる。振り返ると、そこには聖女フローラの姿があった。
「フローラ。こんなところでどうしたの?」
彼女は細い腕をきゅっと胸の前で組み、怯えるようにか細い声で答える。
「エヴァンジェリカさま。あの……少し、お話ししたいことがあるのです」
小動物のように身を縮めたフローラに、エヴァンジェリカは優しい微笑みを向けた。これまで積極的に話しかけても、あまり応じてくれなかったフローラが自分から声をかけてきたのだ。何か打ち明けたいことがあるに違いない。ようやく心を開いてくれたのだろうか。そう思うと、どこか安堵の念さえ湧いてくる。
「わかった。ちょうど近くに応接室があるわ。そこで話しましょう」
エヴァンジェリカはフローラを促し、人目の少ない応接室の扉を開ける。こぢんまりとした部屋だが、ソファとテーブルが置かれており、個人的な会話を交わすには十分な空間だった。フローラをソファに座らせ、エヴァンジェリカも向かい合わせに腰を下ろす。
「それで、どうしたの?」
「……はい。あの、実は――」
フローラは消え入りそうな声で、少しだけうつむく。大きな瞳が震え、涙を湛えているようにも見えた。それにつられて、エヴァンジェリカは心配そうに身を乗り出す。
「つらいことでもあったの?」
しかし、次の瞬間、フローラの目がすっと鋭さを帯びた。それは今までの弱々しい態度とはまるで違う、冷酷な光だった。
「……いいえ。確かにつらいことはありましたけど、それは私がずっと我慢してきたことで……」
「我慢、とは?」
「……エヴァンジェリカさまからの、いじめ、です」
心臓がどくん、と強く打つ。エヴァンジェリカは自分の耳を疑った。いじめ? まさか、そんなことがあるはずがない。言い掛かりにもほどがある。これまでエヴァンジェリカは、フローラを虐げるどころか、彼女の身分差ゆえの負担を軽減するために心を砕いてきたのだ。
「……そんなこと、私は一度も――」
思わず声を荒らげそうになるのを必死に抑え、エヴァンジェリカは静かに言葉を継ぐ。
「フローラ、誤解があるようだけれど。私はあなたをいじめたりした覚えなどないわ。少なくとも、身の回りの世話や衣装の準備など、むしろ助力してきたつもりよ」
それが真実だった。エヴァンジェリカは自分の立場を利用して、フローラを傷つけるような行為など一度たりともしたことがない。だからこそ彼女は今、困惑しているのだ。どうしてこんなことを言われなければならないのか。
しかし、フローラは涙を浮かべたまま、ぽろぽろと頬を濡らしながら震える声を出した。
「そう……そういうのが、つらかったんです。エヴァンジェリカさまは何もかも完璧で……平民上がりの私なんて、足元にも及ばない。そんな私に、上から目線で『助けてあげましょう』なんて……そういう態度が、いつも苦しかったんです」
「…………」
「私のことを笑い者にして楽しんでいるんだ、って……思ってしまうくらい、怖かったんです」
エヴァンジェリカは言葉を失った。そんなつもりは毛頭なかったし、助けが必要なときには手を差し伸べる。それは公爵令嬢として当然の務めだと思っていた。だが、フローラはそれを高慢な押し付けと感じていたのだろうか。けれど、だからといって「いじめ」と決めつけられるのはあまりに理不尽だ。
「フローラ……私も、あなたが不安にならないように配慮しているつもりだったわ。でも、それが裏目に出てしまったのなら、謝るしかない。あなたの気持ちをもっと知ろうとしなかったのは、私の落ち度ね」
もし、それが本心であるならば、今からでも改善したい――エヴァンジェリカはそう考え、静かに頭を下げた。相手は聖女だ。平民出身とはいえ、王国にとって重要な存在であることに変わりはない。何より、これまでの態度が結果として彼女を苦しめたのなら、それは令嬢として責任を負わなければならないと感じたのだ。
ところが。
「……ふふ、やっぱりそうやって頭を下げるんですね」
フローラの言葉に、エヴァンジェリカは顔を上げる。先ほどの涙声とは一転、どこか勝ち誇ったような色を帯びていた。
「あなたはずっと、そうやって表面的に取り繕って、優秀な令嬢を演じてきた。けれど私は、あなたが王太子殿下と結婚することが不満でたまらなかった。だって殿下は王族。私のような平民出身の人間には手が届かない存在でした……。でも、エヴァンジェリカさまが現れるたびに、殿下がいつも褒めるのはあなたばかり」
「それは……私はあくまでも婚約者として――」
「それが我慢できなくて、たまたま私が聖女に選ばれたとき、やっとあなたを越えられるかもしれないと思ったんです。でも、あなたは私の前でも卑屈な素振りひとつ見せずに高みから私を見下ろしていた。そんなふうにしか見えませんでした」
静かな応接室に、フローラの息だけがはっきりと聞こえる。怒りか恨みか、あるいは嫉妬なのか。何らかの負の感情が入り混じったその目には、もはや懺悔や後悔といった涙の色は微塵も残っていなかった。
「だから私は、あなたの“本当の姿”を暴いてやりたかったんです。王太子殿下は優しいお方。私が『いじめられています』と涙を流せば、すぐに信じてくれました」
「……まさか、そんな」
エヴァンジェリカは冷たい汗が背中を伝うのを感じた。王太子レオナードが、聖女フローラの嘘を簡単に信じてしまうとは考えたくなかった。だが、最近のレオナードはフローラにばかり肩入れしているのも事実だ。何かと言えばフローラの味方をし、エヴァンジェリカの言葉に耳を貸さないことが増えた。
「これ以上あなたの立場が大きくなる前に、私が殿下の前で泣き落としをして……。殿下は優しく抱きしめてくれましたよ。『フローラがこんなにつらい思いをしていたなんて、許せない』と。ふふ、殿下はもう、私の味方です」
「嘘よ……嘘だわ」
フローラの告白は衝撃的で、エヴァンジェリカは頭が混乱する。なぜこんな理不尽なことがまかり通るのか。いや、通ってはならない。自分が王太子を愛していたかどうかという問題以上に、こんな卑劣な嘘に王家が踊らされるなど、あってはならないことだ。
「確かにあなたは聖女かもしれない。でも、それは国に仕えるための力でしょう? どうしてそんな形で私を陥れる必要があるの?」
「答えは簡単ですよ。あなたには力がありすぎる。美貌も教養もある。貴族社会では完璧な立ち位置にいる。そんなあなたが王太子妃になったら、私は永遠に二番手以下。それが耐えられないんです」
フローラは冷たく言い放ち、ソファからすっと立ち上がった。その視線はエヴァンジェリカの頭上を見下ろしているかのように高慢だ。先ほどまでの儚げな態度は跡形もない。
「あなたを失脚させる方法は、考えればいくらでもあるもの。明日、夜会の席であなたが“わたしを虐めていた”証拠を、殿下や公爵閣下の前で提示します。もうすでに事前の仕込みは済ませましたから」
「……証拠?」
「ええ。あなたが私を侮辱する場面を、侍女たちが『目撃』してくれるの。人の口は恐ろしいものよね。一度噂が流れれば、真偽など関係なく、どんどん広がる。きっと殿下も公爵閣下も、あなたを庇い切れないわ」
フローラは微笑む。その笑みは聖女とは思えないほど邪悪で、エヴァンジェリカの胸は嫌悪感に満ちた。そんな策略、今すぐ王太子や父に訴え出れば防げるはず――彼女はそう考えたが、すぐに思い至る。最近、レオナードはすっかりフローラに心奪われ、エヴァンジェリカを冷たくあしらうことが増えていた。それに父である公爵も、「王太子殿下を怒らせるような行動は慎め」と、常々彼女に釘を刺していた。そんな状況下で、自分が訴えても「事実無根の言いがかりだ」と一蹴されるかもしれない。
「……それでも私は、誤解を解くために動くわ」
負けじとエヴァンジェリカは立ち上がり、フローラを真っ直ぐに見据える。公爵令嬢の矜持にかけて、こんな嘘に屈してなるものか。どれだけ不利でも、王宮で培ってきた信用があればきっと正しさが証明できるはずだ。フローラの策略などに屈してなるものか――そう心に誓った。
「どうぞご自由に。明日が楽しみですね」
その言葉を残して、フローラはくるりと踵を返し、応接室を出ていった。残されたエヴァンジェリカは、激しい怒りと不安がないまぜになった感情に苛まれる。こんな形で証拠をでっち上げられては、いくら彼女の立場が高くても真相の証明は難しいかもしれない。まるで身体の芯が冷えていくような絶望感が、かすかに足先から這い上がってくるのを感じた。
そして運命の夜会の当日――
王宮の大広間は、美しいシャンデリアの明かりと大勢の貴族たちの談笑で華やかに彩られていた。秋の収穫を祝うための盛大な舞踏会だ。エヴァンジェリカも、公爵令嬢として華やかなドレスを身に纏い、司会進行の立場としてテキパキと動き回っていた。だが、その内心は昨日のフローラの言葉がずっと胸に突き刺さり、沈んだままだ。
(なんとかしなくては……)
彼女はレオナードに直接話そうと探したが、今夜はやたらとフローラの周囲に人だかりができている。彼女に直接近づこうにも、フローラが侍女や騎士、そして王太子の側近にがっちりと守られているため、気軽に言葉を交わすことができない。さらに、先に王太子がバイオリン奏者と共にフローラの元へ行ってしまい、二人きりで話す機会がないのだ。
エヴァンジェリカが焦燥を感じているうちに、夜会は佳境を迎える。楽師たちの奏でる優雅な曲に合わせて、貴婦人や紳士たちが次々とダンスを楽しむ時刻となった。そんな中、王太子レオナードが壇上に現れ、乾杯の音頭を取る。そして彼の隣には、まるで当然のようにフローラが寄り添っていた。
「皆様、今宵は秋の収穫を祝う大切な宴にお集まりいただき、誠にありがとうございます。この豊かな国に神の恵みをもたらすのは、聖女フローラの存在あってのこと。皆で彼女のために感謝の拍手を送りましょう」
レオナードの言葉に従い、人々は一斉にフローラに拍手を送る。フローラは一見すると恐縮した様子で頭を下げるが、その視線がちらりとエヴァンジェリカを捉えたとき、薄く唇を歪めるのが見えた気がした。と同時に、王太子が言葉を続ける。
「そして――私にとって、彼女は特別な存在です。今夜、皆様に発表があります。私は、聖女フローラを正式に“妃候補”として迎えることを考えております」
ざわめきが広間を揺るがす。エヴァンジェリカも息を呑んだ。何を言っているのか、理解できない。王太子妃の座は、これまでエヴァンジェリカに内定していたはず。それが、突然フローラを妃候補に……? そんなことが許されるのか。否、王太子の決定が許されてしまえば、それが国の方針になり得る。驚きや混乱、そして興味本位の視線が、広間じゅうからエヴァンジェリカへと注がれた。
(ちょっと待って。私の立場はどうなるの?)
動揺を抑えきれずにいるところへ、さらに追い打ちをかける事態が訪れる。フローラが細い手を胸に当て、涙をこぼすような仕草をして、王太子の前で震えだしたのだ。
「殿下……わ、私は……確かに殿下のためなら、何でも頑張れます。でも……私は、いじめられていました……怖かった……」
再び会場は大きくざわついた。 “いじめられていた”という言葉と同時に、フローラの侍女たちが一斉に声を上げる。
「そうなのです。フローラさまは、これまでずっと耐えてこられました」 「見てください。こんなあざまで……」
そう言って、侍女の一人がフローラの腕を捲ると、そこには紫色の痣のようなものがあった。フローラは俯いてすすり泣き、王太子はそれを見て激昂する。
「なんということだ……。フローラのような愛らしい存在を、誰がこんな酷い仕打ちを……!」
エヴァンジェリカは思わず駆け寄ろうとしたが、周囲の視線がどんどん険しくなっていくのがわかる。彼女が近づけば、まるでフローラをさらに追い詰める悪役だと言わんばかりに、人々が一歩引いて道をあけた。その空気はあまりに冷たく、エヴァンジェリカの足が震えそうになる。
「フローラ、あなた、その痣は……!」
「ひっ、来ないでください……!」
フローラが悲鳴を上げると、王太子はエヴァンジェリカに厳しい視線を向ける。
「エヴァンジェリカ、これはどういうことだ? まさかとは思うが、フローラが言っている“いじめ”とは、お前がやったことではあるまいな」
周囲の貴族たちも、王太子の言葉に合わせるように噂を囁き合う。
「まさか、公爵令嬢がそんな下劣な真似を?」 「でも、フローラさまのあの傷はどう見ても本物だ」 「可哀想に……あんなに儚い聖女を虐げるなんて」
ざわざわとした声が広がるたび、エヴァンジェリカは息が詰まる。声を上げたい。否定したい。こんなの全部嘘だ。だが、どこから説明していいかわからないほど状況が悪化している。フローラの侍女たちが「エヴァンジェリカさまから無理やり働かされているのを見た」「陰で嫌味を浴びせかけられているフローラさまを目撃した」と証言し始め、さらに場は混乱していく。
そして――
「父上、どうかご説明を……」
エヴァンジェリカが救いを求めるように視線を送った先には、彼女の父であるセロン公爵が立っていた。だが、公爵は青い顔で身を強張らせ、王太子の言葉に合わせるように口を開く。
「エヴァンジェリカ、お前という子は……」
「お父様……?」
エヴァンジェリカは思わず、その場で父の言葉を待つ。だが、公爵は深く溜め息をつき、まるで何もかも悟ったように首を横に振った。
「お前のせいで、我が家の立場が危うくなるのは御免被りたい……。公爵家の名誉を汚すような真似をしていたというなら、もはや勘当するしかあるまい。今まで育ててやった恩を、これほど踏みにじるとは……」
まさかの言葉に、エヴァンジェリカは驚愕する。まるで初めから結論が決まっていたかのような、その父の態度。王家との繋がりを失うことを恐れて、娘を切り捨てるというのか。
「お父様! 待ってください、これは何かの誤解です。フローラの言っていることは嘘で――」
「黙れ。これ以上、セロン家の顔に泥を塗るつもりか?」
厳しい声音に、エヴァンジェリカは震えが止まらない。父がこんなにも簡単に自分を見放すとは想像していなかった。確かに父は厳格な人物であり、名誉を重んじる性格だ。しかし、それでも自分の娘の言葉を信じてほしいと、ほんの少しでも思っていたのに。だが現実は無情だった。
「公爵閣下の仰る通りだ」
王太子レオナードが、まるでそれを後押しするように続ける。彼は深刻そうな表情を浮かべながらも、声には怒りと冷徹さが混じっていた。
「エヴァンジェリカ。お前とは長い付き合いだったが……お前の醜い本性を見抜けなかった私も悪かった。しかし、フローラをいじめるなど、絶対に許されることではない。したがって、今日ここにて、お前との婚約は破棄する。二度と私の前に姿を現すな」
「……待ってください、殿下。どうして、私の話を聞いてくださらないの?」
エヴァンジェリカは必死で訴えるが、レオナードは聞く耳を持たない。
「それよりも、フローラ。お前はずっと耐えてきたんだな。もう安心しろ。私が守ってやる」
優しくフローラを抱き寄せる王太子。その姿は、もはやエヴァンジェリカの存在など眼中にないかのようだった。フローラがエヴァンジェリカを睨みつけるようにちらりと視線を送るが、その瞳には勝ち誇った光が宿っている。
広間には、エヴァンジェリカへの非難めいた沈黙が降りる。誰も彼女を擁護しようとしない。否、最初こそ戸惑いを見せた周囲も、まるで波長を合わせるように「聖女を傷つけた悪人」としてエヴァンジェリカを認識し始める。彼女は絶望の中で、自分が王太子にも父にも見捨てられたことを痛感していた。
「――王太子殿下のご命令だ。エヴァンジェリカ・セロンを、王城から退去させろ」
王太子の従者がそう宣言し、騎士たちがエヴァンジェリカを取り囲む。エヴァンジェリカは耐えきれずにその場にへたり込んでしまいそうになるが、何とか踏みとどまった。顔を上げると、目の前にはフローラとレオナードが並んでいる。ふいに、フローラがほほ笑みながら小さく呟いたのが見えた。
「ざまあみろ」
――やはり仕組まれていた。分かっていても、どうすることもできない。目の前で嘘と策略が堂々とまかり通るなんて、あまりにも悔しい。けれど、ここで感情を爆発させても何も解決しない。王太子はおろか、父親までもが彼女を切り捨てた今、もはやエヴァンジェリカには味方は残っていないのだ。
エヴァンジェリカは、ぐっと唇を噛みしめながら、膝の震えを堪えた。泣きたいほどの無念と怒りがこみ上げてくるが、最後の矜持だけは守り通したかった。公爵令嬢として、その場で取り乱すわけにはいかない。
「……わかりました。殿下、私との婚約を破棄されるのであれば、どうかご自由に。私がいくら弁明しても耳を貸されないなら、もはやこの場ではどうしようもありませんわ」
冷たい視線がエヴァンジェリカに降り注ぐ中、彼女はドレスの裾を軽く持ち上げ、一礼してみせる。誇り高い令嬢としての最後の振る舞いだった。レオナードはそれを無表情に見下ろしている。
「お前のような冷酷な女を、これ以上王宮に置いておくわけにはいかん。直ちに退去しろ。……いや、それだけでは足りない。フローラに与えた苦痛を思えば、お前は国外追放に値する。父上――国王陛下にもそう進言するつもりだ」
「国外追放、ですって……?」
そこまでされるとは思っていなかった。王太子の怒りが頂点に達しているということだろう。何よりフローラへの“忠誠”を示したいのだ。残酷だが、その現実を突きつけられたエヴァンジェリカは、もはや笑うしかない。まさか自分がここまで簡単に全てを奪われるとは、嘘のような話だ。
その時、セロン公爵が震える声で言い放った。
「エヴァンジェリカ、出て行け。私にもお前を庇う余地はない。お前という娘は、もうセロン家の恥さらしだ」
「――っ」
胸が張り裂けそうだった。家族であるはずの父までもが、自分を信じてくれない。自分が必死に築いてきたものが、すべて儚く消えていく。広間の視線は冷たく、誰一人として味方をしようとしない。まるで悪人を裁く公開処刑のように、エヴァンジェリカの失墜を見ている。
騎士たちに腕を掴まれながら、エヴァンジェリカは小さく呟く。
「これで満足なのでしょうか、フローラ。……王太子殿下にも、お父様にも、私は必要とされなかったようですから、これ以上は申しませんわ」
ほんの少しでも希望を託して振り返ってみたが、王太子はフローラを守るように抱き寄せ、公爵も顔を背けるばかり。彼女は虚空に手を伸ばしてみたが、そこには何も掴めるものはなかった。
こうしてエヴァンジェリカ・セロンは、王太子婚約者の地位も、公爵令嬢としての立場も、すべてを剥奪され、国外追放の刑を宣告された。その決定は、まるでフローラが望んだ通りの展開をなぞるかのように、速やかに進んでいく。
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夜会の翌日、エヴァンジェリカはわずかな身の回りの物だけを持って、王都の外れへと追い立てられた。たった数日前までは公爵家の馬車を使えば、警備の騎士たちが先導してくれたというのに、今やそんな援助は一切ない。馬車どころか道中の宿屋を利用するための資金すら、まともに与えられていないのだ。
しかも、その追放の日程は酷く急で、執事や使用人たちに別れを告げる暇すらなかった。実家である公爵家にも戻ることを禁じられ、“庶民同然の身分”として王都を後にしろと言われる。まるで一夜にして地獄に落とされた心地だった。
それでもエヴァンジェリカは、最後まで取り乱さなかった。――いや、取り乱すことなどできなかったのだろう。それほどまでに衝撃が大きく、彼女は己の身に起きた悲劇をまだ現実として受け止めきれずにいた。
(私は……本当に追放されるのね)
王都を一歩出れば、そこはまるで別世界だ。慣れない田舎道や街道を徒歩で進まねばならず、しかも人々の目には「公爵令嬢だった女」という好奇の視線が向けられる。もともと美しい容姿で知られていた彼女は、ドレスこそ地味なものに着替えていても、その品の良さは隠し切れない。だが、それがかえって厄介な注目を集めてしまうのだ。
街道の途中、粗野な男たちが彼女を値踏みするような視線を送ってきたり、馬車に同乗しないかと下卑た笑いをかけてくる場面にも遭遇した。しかし、エヴァンジェリカにはもう、貴族としての威厳を盾に相手を威嚇する術もない。魔法の素養はあるが、それを使えば国の法律に触れかねないし(何しろ追放という形で王族から制裁を受けた身なので、下手に魔法行使などすればすぐに逮捕されかねない)、彼女ができるのは逃げることだけだった。
(強くあらねば……今は耐えるしかない。私は何も悪いことをしていない。このまま負けてなるものですか)
必死にそう自分を鼓舞しながらも、人生の大半を王宮と公爵家で過ごしてきた彼女にとって、初めて尽くしの不慣れな旅路は苛酷だった。夕暮れが近づくにつれ、道端に腰を下ろして休憩をとらざるを得ない。食事は簡素な携行食しかなく、それもあと数日分しかない。
それでも、心の奥底には、決して折れていない炎が燃えていた。あのフローラの狂気じみた笑みを思い出すたびに、エヴァンジェリカは“絶対にこのままでは終わらない”と固く決意する。自分を追放した王太子と父公爵は、深く後悔することになる――そう誓って、彼女は一歩一歩、王都から離れる道を進み続けた。
(いつかきっと、真実を証明してみせる。その時には……必ずや見返してやるわ!)
何より許せないのは、愛情をかけてもらえなかったことではなく、明らかな嘘と謀略が堂々とまかり通るという、この国の体質だ。かつてのエヴァンジェリカなら、自分の努力によって国を支えるのが当たり前だと思っていた。だが今は違う。彼女の内に湧き上がるのは、この国への怒りと絶望感、そして底知れぬ復讐心だ。
――それでも、腐ってなるものか。これまで積み重ねてきた自分の知識や教養は嘘じゃない。いつか必ず、生き抜いた先で自分の価値を証明する。彼女は泣きたい気持ちを押さえ込み、傷だらけになった足を引きずりながら街道を進んだ。
この国の境界線を越えたとき、まだ彼女は知らなかった。自分が辿り着く先で、隣国の“冷酷王”ルシウス・ヴォルフガングと出会うことになろうなどと――。だが、この追放はエヴァンジェリカにとって新たな運命の幕開けとなる。その先に待ち受ける激動の日々を、彼女はまだ知るよしもない。