メルガーデン王国を出て、隣国ルシタニア王国の国境へと近づくにつれ、エヴァンジェリカ・セロンの胸には、不安と焦燥が入り混じった複雑な思いが広がっていた。
かつては公爵令嬢として、王宮でも堂々と胸を張って生きていたはずだ。それがいまや、周囲の蔑視や警戒を受けながらひっそりと国境を越えようとしている。荷物も最小限、資金も乏しく、どこかの街で落ち着いて生活するあてもない。そもそも、自分を王太子妃から引き摺り下ろした張本人であるフローラやレオナードが、何かしらの追っ手を差し向けてくる可能性すら捨てきれなかった。
初夏の陽ざしが照りつける中、エヴァンジェリカは荒れた街道を歩いている。風のざわめきとともに、遠くでは鳶の鳴き声が聞こえてきた。たまに馬車が通り過ぎるが、誰も彼女のような旅人に目を留めることはない。元貴族令嬢といえど、いまは身分証明がないに等しい。結局、正式な「国外追放令」が出されてしまった以上、メルガーデン王国の国境管理官にも嫌な顔をされながらやっと出国を許可された身の上なのだ。
「……もう少しでルシタニア王国領に入るはず。確か、国境の街があったはずだけれど」
独り言をつぶやきながら、エヴァンジェリカは歩みを進める。数日間ろくにまともな食事を取れなかったせいで、足はすでに棒のように重く、頭も霞んでくるようだった。
それでも、彼女はふと立ち止まって辺りを見回した。広がる風景は、やせた土地と低い丘陵が連なる荒涼としたもの。ルシタニア王国の一部地域は肥沃な土地が多いと聞いていたが、国境付近はどうやら例外のようだ。天気が良いのにどこか寂しげな雰囲気が漂っている。
「……魔物が出没すると聞いていたけれど、本当に大丈夫かしら」
メルガーデン王国では滅多にお目にかからないような凶悪な魔物が、国境近くの荒野に巣食っているという噂は知っていた。情報が確かなら、ルシタニア王国は近年、王の苛烈な政策によって内政は安定傾向にあるものの、辺境の治安はまだまだ完全に掌握しきれていないらしい。
だからこそ、メルガーデン王国からの密輸や逃亡犯がここを通りやすい、という話すらあった。エヴァンジェリカは追放とはいえ、一応“元”公爵令嬢であり、万が一にも危険に巻き込まれたくはない。そう思い、魔法の発動をほんの少しだけ準備して歩く。
魔術学院で基礎を修めた程度の力しか持たないが、それでも無防備よりはマシだ。敵対者をひるませる小さな閃光魔法くらいなら使えるはず……そう自分を安心させながら、一歩ずつ前へ進んだ。
国境の町・グレイフリート
日が傾き始めた頃、ようやく小さな町並みが見えてきた。大きな柵と見張り台が設置された、荒れ地にぽつんと存在する町。それこそが、ルシタニア王国領への入り口となる国境の町「グレイフリート」だった。
町の外れには、軽装の兵士が二人ほど立っていて、旅人や商人らしき人々を検問のような形でチェックしている。エヴァンジェリカも列に並び、順番を待たなければならなかった。
後方には数台の荷馬車が続き、前方には疲れ果てた姿の旅人が一人。どうやら彼らはメルガーデン王国側から来た商人のようで、積み荷の確認をされているところだ。兵士たちは警戒心をあらわにしながら、厳しい目つきで荷物や通行手形を確認している。
(あの様子だと、私も根掘り葉掘り聞かれるかもしれないわね……)
エヴァンジェリカは肩にかかった髪を少し整え、一応の身だしなみを正す。すでに泥や埃でドレスは汚れていたが、それでも彼女が貴族社会で培った“端正な立ち居振る舞い”は決して失われてはいなかった。
ようやく順番が回ってきたとき、見張りの兵士はエヴァンジェリカを頭からつま先まで値踏みするように眺める。そして、ぶっきらぼうに口を開いた。
「通行手形はあるか? ルシタニアへの正式な入国許可証がなければ、ここを通すわけにはいかん」
「手形は……ありません」
兵士は露骨に嫌そうな顔をした。その表情は「やっぱりか」と言いたげだ。
ルシタニア王国の国境を超えるためには、基本的に“正式な目的”が必要となる。商売、外交、あるいは親族訪問など。そういった理由を証明する書類があれば良いが、エヴァンジェリカのように追放された形で逃げてきた人間には何のあてもない。
「理由もなく越境しようというのか? 怪しいな。身分は?」
「……メ、メルガーデン王国の……元・公爵令嬢です」
「はあ? 冗談だろう。そんな身なりで貴族を名乗るとは……大方、身分詐称の類か。もう少しマシな嘘を考えなかったのか」
嘲笑まじりの兵士の言葉に、エヴァンジェリカは苦々しく唇を噛む。確かにボロボロの姿では、誰も公爵令嬢など信じまい。しかし、偽りではないからこそつらい。
兵士はしばらく考え込んでいる様子だったが、やがて横に立っていたもう一人の兵士と顔を見合わせると、何か思い当たったように言った。
「……そういや最近、メルガーデン王国の公爵令嬢が追放されたって噂があったな。それが“お前”なのか?」
「そうです。私が、エヴァンジェリカ・セロン……」
「へえ。まさか本当に来るとはな。お前、追っ手が来てないか? 変な問題を持ち込まれるのはごめんなんだが」
警戒の色をあらわにする兵士に、エヴァンジェリカは首を横に振る。
「追っ手がかかっているかどうかはわかりません。ですが……この国に迷惑をかけるつもりはありません。できれば静かに暮らしたいだけなんです」
「ふん。ならとりあえず、隊長に訊いてみるから、その辺で待ってろ」
そう言って兵士は彼女を門の脇へ連れていき、腰かけられる木箱を指さした。まるで“捕虜”でも扱うかのような態度だったが、立場がないエヴァンジェリカは従うしかなかった。
隊長が来るまでは少し時間がかかりそうだ。彼女はため息まじりに腰を下ろし、ぼんやりと門の外を眺める。ここまで来るのに費やした辛い道のりが頭をよぎるが、まだ“始まり”にすら辿り着いていないのだと思うと、気が遠くなるようだった。
十数分ほど待った頃だろうか。ようやく、鎧姿の男が兵士の先導で現れた。がっしりした体格と眼光の鋭さからして、これがグレイフリートの駐留部隊を束ねる隊長なのだろう。隊長はエヴァンジェリカの前に立ち、厳つい声で問いかけた。
「お前が、追放されたメルガーデンの公爵令嬢とやらか?」
「はい。エヴァンジェリカ・セロンと申します」
エヴァンジェリカは無意識のうちに貴族式の礼をしかけて、その手を慌てて下ろした。もはや自分は貴族の身分ではないのだから、そんな礼式は無意味だろう。
隊長はそんな彼女を冷めた目で見下ろすと、鼻を鳴らすように言う。
「本当に公爵令嬢かどうかは俺には判断がつかんが、いずれにせよ入国目的がはっきりしない以上、ここを通すわけにはいかんな」
「……やはり、そうでしょうか」
「ここは国境だ。メルガーデンと違って、甘い対応はしない。ルシタニアに入りたいなら、何らかの保証人を連れてくるか、王宮からの正式な許可証を取り寄せるしかない」
しかし、そんなものを用意できるはずがない。今の彼女には頼れる人脈もなければ、国境を越えた先に宛名を送ってくれる知人すらいないのだ。
とはいえ、ここで諦めてメルガーデンに戻れば、待っているのは投獄か再び追放されるだけ。フローラやレオナードに屈するようで、エヴァンジェリカにはそれが絶対に許せなかった。どうにかして、ここを突破する手段はないものか……。
「どうしてもダメでしょうか。私、ルシタニア国内で働き先を見つけたいのです。そうでなければ生きていけない……」
「……だったら領主の面談を受けろ。グレイフリートの領主が“お前を雇う”なり何なりの承諾をすれば、一時的な滞在は可能かもしれん」
隊長が渋々ながらに言葉を継ぐ。どうやら、まったく可能性がないわけではないらしい。だが、領主の面談が簡単に通るとも思えない。ましてや素性不明の追放者を雇うなど、普通ならあり得ない話だ。
それでも何も行動しないよりはマシだと思い、エヴァンジェリカは一縷の望みをかけて隊長に頼んだ。
「お願いします。その領主さまに会わせていただけないでしょうか」
「いいだろう。だが、無駄足になる可能性の方が高い。領主の屋敷に取り次ぐには、まずは俺たちが‘身柄を預かる’形になる。怪しい動きをすれば、その時点で捕縛だぞ」
そう言われ、彼女は小さく息をのむ。事実上、捕虜のような状態になるということだ。しかし、ここで引き下がれば先に進めない。エヴァンジェリカは覚悟を決めて頷いた。
「わかりました。お手間を取らせますが、よろしくお願いいたします」
こうしてエヴァンジェリカは、グレイフリートの領主――すなわちこの辺境地域を治める地方貴族の下へ連行される形となった。
町中を歩くと、そこには確かに人々の生活があった。小さな露店や雑多な食堂、酒場、宿屋などが立ち並んでいる。だが、どこか荒廃した空気が漂っており、メルガーデンの王都とは比べ物にならないほど治安が悪そうだった。町の外れでは、薄汚れた格好の子どもがじっとエヴァンジェリカのほうを見ている。
(住民が少ないせいか、どこか淋しげだわ……)
そう思いながら連行されていくと、やがて石造りの塀に囲まれた立派な屋敷が見えてきた。グレイフリートを治める領主の邸宅だろう。門番が隊長と何事か言葉を交わすと、エヴァンジェリカはそのまま中庭へと導かれた。
邸の内部は重々しい雰囲気に包まれている。赤い絨毯が敷かれた廊下を歩き、案内された部屋に入ると、そこには粗野な印象の中年男性が待っていた。目つきが鋭く、頬には傷跡のようなものがある。彼がグレイフリートの領主、――バラル伯と名乗る人物らしい。
「こいつが、メルガーデンから追放されたとかいう元公爵令嬢です」
隊長がエヴァンジェリカを前に押し出すように言う。バラル伯は椅子にどっしり腰を下ろし、胡乱げな目を向けた。
「本当か? お前がセロン公爵の娘? 随分と落ちぶれたもんだな」
「……お恥ずかしい限りです。ですが、私は追放された身で、すでに公爵家とは何の関係もありません」
「ふん。で、何の用だ? 隊長から話は聞いている。働き先を探しているんだとか?」
エヴァンジェリカは深く頭を下げると、覚悟を決めて口を開く。
「はい。なんでも構いません。住み込みで働きたいのです。必要とあらば、雑務でも清掃でも――私は必死に働きます。どうかお力添えを」
これまで王宮で培ってきた教養やマナーがあるのだ。貴族相手のメイドや女官のような仕事があれば、きっと役に立てると思う。そう考えたが、バラル伯は鼻で笑うように言い放った。
「貴族育ちの女が、まともに使えるとは思えんのだがな。大体、“公爵令嬢”だったお前を雇えば、面倒事に巻き込まれる可能性だってあるだろう。メルガーデンの王族や公爵家から抗議が来たらどうする?」
「その……私は完全に勘当されましたし、王家にも見放されました。今さら私を求めるような人はいません」
「信用できるかどうかは別の話だ」
バラル伯の言葉に、エヴァンジェリカは苦しい想いを噛み締める。確かに領主からすれば、何の得にもならない相手を受け入れる必要はない。その上、下手をすれば外交問題に発展しかねないリスクもあるのだから、断るのが当然だろう。
窮地に立たされた彼女は、何か強く訴えかける手段を探すように唇を噛んだ。――自分には、ただの使用人として働く以外にも、なにか“強み”があったのではないか。
そうだ。王宮で様々な勉強を積み、実務の場にも度々関わっていたこと。中でも、国家運営に関する文献を貪るように読み漁り、“戦略論”や“行政手腕”に興味を抱いていた。独自に研究した結果、こっそり匿名で論文や提案書をまとめたこともある。
(私の書いた論文が評価されたことはなかったけれど……でも、何かの役に立つかもしれない)
ほんのわずかな期待を込めて、エヴァンジェリカは切実な口調で提案する。
「バラル伯さま。私は、単なる王宮仕えの令嬢ではありません。王城で行政や外交の仕事を手伝い、また軍事関連の資料を読み込み、時に意見を述べる立場にもありました。もしお役に立つ分野があれば、ぜひ力を発揮したいのです。些細なことでも構いませんので、私をお試しくださいませんか」
「……へえ。公爵令嬢らしい物言いだな。なるほど、女でありながら軍略や行政に通じているとな?」
バラル伯は面白そうに目を細める。が、その目には貴族としての高慢さも滲んでいた。
「だが、グレイフリートは辺境の小さな領地に過ぎん。そんな大層な知識を活かす場はないし、そもそも女の意見など……」
そこまで言いかけたところで、突然ドアが乱暴にノックされた。隊長が不機嫌そうに眉をひそめながらドアを開けると、外から小柄な男が慌てて飛び込んでくる。伝令か何かの兵士だろうか。
男は息を切らしながらバラル伯に報告する。
「し、失礼いたします! 先ほど、北側の街道近くで、“あの集団”が出没したとの報告が……!」
「なんだと? 馬鹿な! この近辺にはもう現れないと……くそ、奴らめ」
バラル伯は荒々しく立ち上がり、部屋を出ようとする。どうやら重大なトラブルが発生したらしい。その様子にエヴァンジェリカも動揺を隠せない。
そんな彼女に、バラル伯は乱雑に告げる。
「お前との話は後だ! 今それどころじゃない。隊長、こいつをどこかに拘束しておけ!」
「ですが、領主さま――」
「いちいち煩い! 早くしろ!」
もはやエヴァンジェリカに構っている余裕はないらしい。バラル伯は隊長とともに執務室から飛び出していき、廊下を駆け抜けていった。取り残されたエヴァンジェリカは、気まずい沈黙の中で困惑する隊長と向き合うことになる。
隊長は面倒くさそうに溜め息をつき、彼女にきつい視線を向けた。
「これ以上、余計なことをされちゃ困る。しばらくは地下の保管室で待機だ。領主さまが落ち着いたら、改めて話をしてやる」
まるで罪人扱いだと思いつつも、エヴァンジェリカには反論する術がない。ここで無理に逃げ出せば、自分に不利になるだけだろう。
結局彼女は、隊長に連行されるがまま、狭い地下の一室に閉じ込められるはめになった。錠がかかった扉越しに、衛兵が一人監視につく。埃っぽい部屋に粗末なベッドが置かれているだけの空間だが、とりあえず雨風はしのげそうだ。
――こうして、グレイフリートの領主邸での面談は中断され、エヴァンジェリカは宙ぶらりんな状態のまま監禁されることになったのだった。
混乱と闇の声
地下室に閉じ込められてから、どれほど時間が経っただろうか。壁には小さな明かり取りの窓が一つあるだけで、外の様子はほとんどわからない。すでに夜になったのか、薄暗い空が見える。
空腹と疲労で、エヴァンジェリカの思考は重く鈍っていた。今夜のうちに宿屋で体を休めるつもりだったのに、それも叶わず、冷たい床に座り込んでいる。
自分の境遇を嘆いても仕方がないと思いつつ、どうしてこうなってしまったのかと考えずにはいられない。――フローラの策略に陥り、王太子の婚約者の座を奪われ、ついには国外追放。ようやく辿り着いた国境の町では、不審者として拘束されている。
どれだけ心を強く持とうとしても、さすがに気が滅入ってくる。頬に手をあてると、あまりの冷たさに驚いた。少しずつ体温が奪われていくような感覚に襲われる。
(……眠ってしまえば楽かもしれないけど、警戒すべきよね。いつ状況が変わるかわからないし)
そう自分を奮い立たせるが、じっとしていると不安な思いがどんどん膨れ上がっていく。父公爵に見捨てられた夜会の光景、フローラの嘲笑、王太子の冷たい眼差し。浮かんでくる記憶はどれも辛いものばかりだった。
そのとき――階段を下りてくる靴音が聞こえた。何か動きがあったのかと思い、エヴァンジェリカは立ち上がる。扉の向こうから、小声で囁き合う気配があったが、やがて鍵が回され、重い扉が軋む音とともに開かれた。
「……誰?」
警戒心を含んだ声で尋ねると、現れたのは意外にも先ほどの隊長でもバラル伯でもなかった。
灯りを持ってやってきたのは、まだ若い兵士のようだ。浅黒い肌をしており、少々頼りなさげだが、その表情にはどこか優しげな色がある。兵士は周囲を見回し、扉の外に誰もいないことを確認すると、そっと小さな紙包みを彼女に差し出した。
「これ、今夜の食事……というか、乾パンと水くらいですけど、持ってきました」
「……ありがとう」
乾パンと水の入った皮袋。それだけでも今のエヴァンジェリカにはありがたい。彼女は素直に受け取り、兵士に向かって礼を言った。
兵士は少しだけはにかむように笑い、声を潜めて続ける。
「実は、俺……領主さまや隊長たちのやり方には、ちょっと納得してないんです。お嬢さんを罪人扱いするなんて、どうにも腑に落ちなくて。あの、名前を聞いてもいいですか?」
「……エヴァンジェリカです。あなたは?」
「レイヴァンといいます。若輩者だけど、どうぞよろしく」
レイヴァンは礼儀正しく頭を下げた後、少し緊張を帯びた面持ちで口を開いた。
「実は、今グレイフリートに大きな問題が起きていて、領主さまたちも余裕がないんです。北の街道付近で、盗賊団が出没しているとかで……。さっきの緊急報告もその件じゃないかと思います」
「盗賊団?」
「はい。ここ数年、この辺りを根城にして荒稼ぎしていた連中がいまして、領主さまも手を焼いていたんです。最近は追跡をきびしくしていたから姿を消したと思っていたけど、また戻ってきたみたいで」
なるほど。それならバラル伯があれほど慌ただしく出ていったのも頷ける話だ。こうした辺境では盗賊の被害は大きく、住民の暮らしにとっても死活問題になりかねない。
レイヴァンが見せる苦悩の表情からも、この地の状況がいかに厳しいかが伝わってくる。エヴァンジェリカはパンをかじりながら考えた。――もし、何らかの形でこの盗賊団の件を解決に導くことができれば、自分の有能さを証明できるのではないか? 少なくとも、今の状況よりはマシな展開が得られるかもしれない。
「ねえ、レイヴァン。私が何か役に立てることは、ないかしら」
「え……?」
兵士が目を丸くするのも無理はない。監禁されている身でありながら、領地の危機に協力しようというのだから。だが、エヴァンジェリカはここでじっとしていても埒が明かないことを知っていた。
メルガーデン王宮で得た知識――たとえば、盗賊団の対処法や治安維持に関する戦略論は、多くの文献を通じて勉強してきた。実際に軍を動かす権限はないにしても、提案することなら可能だろう。
「私は、こんな状況だけれど、昔から戦略や行政に関する文献を読み漁ってきたの。もし指揮する立場の人が考えるヒントになるなら、何か案を出すこともできると思うわ」
「そ、そんな……領主さまや隊長は、女の意見なんて聞く気がないだろうし……」
「でも、一度話をしてもらうだけでいいの。このまま黙っていても、私は何もできずに追い出されるか、あるいはどこかで野垂れ死にしてしまうだけ」
エヴァンジェリカの声には、不退転の決意が滲んでいる。彼女にとって、ここはもう後がない場所だ。
レイヴァンはしばらく逡巡していたが、やがて小さく頷いた。
「わかりました。直接領主さまに伝えるのは難しいかもしれませんが、俺から隊長にそれとなく話してみます。すぐにどうこうは無理でも、“お嬢さんが有益な案を持っているかもしれない”ってくらいは……」
「ありがとう、レイヴァン。無茶を言ってごめんなさい」
「いえ、俺も正直、この町をどうにかしたいと思ってたんです。領主さまは威張るだけで、具体的な対処は隊長任せというのが現状で……」
レイヴァンがそう呟く声には、諦観と苛立ちが混ざっていた。荒廃した国境地帯を管理するには、強圧的な統治だけでは限界があるのだろう。それどころか、不満を抱えた住民も増え、秩序が揺らぐ危険性もあるに違いない。
エヴァンジェリカは胸の奥にわずかな希望を抱きながら、レイヴァンに再度礼を言う。彼が去った後、彼女は乾パンを少しずつかじり、水を飲みながら夜を迎えた。――どうか、少しでも前進してくれればと祈りつつ。
運命の来訪者
翌朝、まだ外が薄暗い時間帯に、再び地下室に人の足音が近づいた。衛兵がどこか落ち着かない様子でドアを開くと、そこに立っていたのは、昨夜レイヴァンが「話をしてみる」と言っていた隊長その人だった。
隊長は険しい顔をしており、エヴァンジェリカを見るなり短く言った。
「お前、バラル伯のところへ来い。話があるそうだ」
どうやら、昨夜のうちにバラル伯は盗賊団の件を処理したのだろうか。あるいは未解決のまま次の対策を練っているのかもしれない。いずれにしても、彼女にとってはようやく“話をする機会”が与えられたことになる。
エヴァンジェリカは胸を高鳴らせながら立ち上がり、薄暗い地下室を出た。隊長に連れられて廊下を進むと、バラル伯の執務室では何やら緊迫した空気が漂っていた。
バラル伯は窓辺に立ち、部下の報告を聞いているようだった。振り返った彼の顔には疲労が滲んでいる。
「……お前か。すまんが、すぐにでもここを出て行ってもらうぞ」
開口一番、そんな言葉を浴びせられ、エヴァンジェリカはぎくりとする。まさか何も聞いてもらえずに追放されてしまうのか……そんな最悪の予感が頭をよぎる。
だが、バラル伯は続けて言った。
「盗賊団が北の街道沿いを荒らし回っているせいで、もう余裕がないんだ。昨夜も交戦があったが、大した戦果は得られなかった。うちの兵が何名かやられてしまってな。こっちも無理に追撃すると被害が増えるばかり。かといって、放置すれば商人どもからクレームが来る。いずれ王都にも事態が知れるだろう。そうなりゃ責任問題だ」
苛立たしげに机を叩くバラル伯。彼にとっては、自領を荒らす盗賊団と、それに伴う自らの立場の危うさが頭痛の種になっているのだろう。
エヴァンジェリカは、ここでひるんではいけないと決意し、勇気を出して口を開いた。
「あの、もしよろしければ、私が何か策を考えます。盗賊団を一網打尽にするための方策を――」
「お前が? 笑わせるな。女が口出しして、何が変わる」
吐き捨てるようなバラル伯の言葉。だが隊長がすかさず一歩前に出て、少しばかり擁護するような口調で続けた。
「……領主さま。こいつはメルガーデン王国で公爵令嬢として、軍事や行政の実務を多少なりとも経験しているそうです。すでに追放された身だとか。もしかしたら、有用な意見が得られるかもしれません」
「お前までそんなことを……。まあいい、言うだけなら自由だ。どうせすぐに叩き出すつもりだが、面白い話が聞けるなら聞いてやろうか」
明らかに信用はしていない態度だが、まったく取り合わないわけでもないらしい。エヴァンジェリカは一息つき、昨夜から頭の中で練っていた案を端的に説明した。
「盗賊団は、グレイフリートの北側から侵入し、略奪を行ったあと、東方の峠を抜けるルートで逃げていると思われます。もしその峠を封鎖し、同時に追手を挟み撃ちにする形にすれば、逃げ場を断てるはず」
「ふん、それをやりたくても、うちは兵が少なく、地の利もない。あの連中、山岳地帯に潜んでいるらしいが、そこまで踏み込むにはリスクが高い」
「確かに。しかし、盗賊団が現れるルートはおそらく限られています。地形図を見れば、彼らが通るであろう道筋が推測できるのでは」
「地形図なんてものは、この領地には存在しない。そもそも、そんな詳しい地図を作る暇などないし、仮にあったとしても俺は知らん」
バラル伯は苛立ちを露わにする。だがエヴァンジェリカは、王宮での知識を思い出しながらさらに提案する。
「もし地形図がなければ、今わかる範囲で兵士たちに聞き取りを行い、盗賊団の出没場所や目撃情報を整理しましょう。そこから地図を“推定”で描けば、ある程度の行動パターンを割り出せるはずです」
「……絵空事を言うんじゃない。そんな手間をかけるほど、うちには時間も人手もない」
「手伝いなら、私がします。私が中心になって情報をまとめれば、領主さまや隊長の負担も減るのではありませんか?」
エヴァンジェリカの必死の訴えに、バラル伯は呆れ顔で眉をひそめた。
「お前、そこまでして何がしたい? こんな辺境の領地の問題に首を突っ込んで、得することなんて何もないだろう」
「私は……私が生きていくために“居場所”を作りたいんです。必要とされるなら、どんな形でも構いません。私の知識が少しでも役に立つなら、それでいい」
その声には熱がこもっていた。父にも捨てられ、王太子にも見限られ、すべてを失った彼女が最後に望むのは、“自分を必要としてくれる場所”。本来なら王宮で成し遂げたかった“国を良くする”という夢を、こんな辺境の領地であっても形にできるのなら、やってみたい。
バラル伯はその真剣さに多少動かされたのか、黙り込む。彼の横で隊長が様子を伺いながら進言する。
「領主さま、ここは一つ、彼女に情報整理を任せてみてはどうでしょう? 我々は夜通しの警戒で疲れ切っていますし、盗賊団との交戦に備えて兵たちを休ませなければなりません。情報を集めるくらいなら、彼女ひとりでもできるかもしれません」
「ちっ……まあいい。使えないとわかったら、即座に追い出すぞ。わかったな?」
「ありがとうございます!」
エヴァンジェリカはほっと胸を撫で下ろす。かくして、彼女は“盗賊団対策の情報整理役”として、一時的にグレイフリートに滞在を許されたのだった。
――今はまだ、これが後に繋がる大きな一歩になるとは、バラル伯も隊長も夢にも思わなかったに違いない。
一時的な滞在――そして紙上の戦略
それから数日、エヴァンジェリカはグレイフリート領内を奔走する羽目になった。とはいえ、実際に町を自由に歩き回れるわけではなく、隊長の許可を得た場所と時間帯だけ、数名の兵士と同行して聞き取りを行うという形である。
兵士や住民から聞かれた情報――盗賊団を見かけた場所、被害に遭った日時、逃走方向など――を片端からメモにまとめ、簡単な地図を描き起こしてみる。そこに線を引き、箇条書きで整理していくと、漠然としていた盗賊団の動きが少しずつ浮き彫りになる。
「ふむ……確かに、このあたりが怪しいわね」
エヴァンジェリカは自室としてあてがわれた屋敷の一室で、大きな紙の上にペンを走らせている。夜遅くまで作業を続け、こまめな休憩と食事を挟みながら、なんとか完成させた仮説の地図。
北方の山岳地帯には谷間がいくつもあり、そのどれかを根城にしているのではないかという推測は、ここ数日の事件報告や被害状況からしても筋が通っていた。さらに、東の峠を経由して逃亡ルートを確保している可能性が高い。
もし兵士を配置するとしたら、どこに集中すべきか。どの道が主要な“要衝”となっているのか。そういった分析を、彼女は文字通り紙上で行い、いくつものパターンを試行錯誤してみた。
「……隊長や兵士の数が足りない以上、一度に複数のルートを封鎖するのは難しい。ならば、陽動役と奇襲役を分けて配置するのが最善かしら」
エヴァンジェリカは自ら呟き、ペン先で紙を指し示す。自分が王宮で書き貯めていた戦略論のノートを思い出しつつ、実際の現状に合わせて調整を重ねていく。
やがて夜明け前になり、ようやく一つの形がまとまった。彼女は目をこすりながら書き上げた書類を見つめ、少しだけ笑みを浮かべる。
「徹夜で書いたものが、どこまで受け入れられるかはわからない。けれど、私にできる限りの最善は尽くしたわ……」
これをバラル伯や隊長に提出し、もし彼らが実行に移してくれれば、盗賊団を挟み撃ちにするチャンスが生まれるかもしれない。
エヴァンジェリカは疲労困憊の体を引きずりながら、机に突っ伏すようにして少し仮眠を取ることにした。――ほんの数時間でもいいから休まないと、頭が回らなくなる。
翌朝、というより昼近くになって目を覚ましたエヴァンジェリカは、待ちきれない思いで書類を手に執務室へ向かった。バラル伯はまだ寝ているらしく、不機嫌そうな従者に取り次ぎを頼むと、しばらく待たされた後、ようやく面会を許可される。
執務室に入ると、バラル伯は昨夜の疲れを引きずった様子でソファに腰掛けていた。近くには隊長もいる。
「……何の用だ? 今度はちゃんとした案があるってか?」
バラル伯が横柄な口調で問いかける。エヴァンジェリカは怯まずに胸を張り、用意した書類を差し出した。
「はい。これまでの情報をもとに、盗賊団を捕捉するための作戦をまとめました。隊長や兵士の方々にもご協力いただきましたが、さらに細かい配置や手順を記載しています。一読いただければ幸いです」
「ふん……」
バラル伯はそれを受け取り、隣の隊長と一緒にページを捲っていく。最初は面倒くさそうに眺めていたが、次第に表情が変わっていくのがわかった。隣で書類を覗き込む隊長も、時折「なるほど」「これは面白い」といった相槌を打つ。
やがて書類をひと通り読み終えたバラル伯は、驚嘆とも呆れともつかぬ声で漏らした。
「こりゃあ、ただの思いつきレベルじゃないな……。状況分析から具体的な兵の配置、連絡手段まで、かなり細かい」
「ええ。隊長や兵の方々の動きやすさも考慮しました。グレイフリートの兵が少ないのを逆手にとって、小規模で機動力を活かせる配置を提案しています」
エヴァンジェリカが自信を持って説明すると、隊長も頷く。
「領主さま。これは試してみる価値があると思います。確かに、うちは兵が少ないですが、この作戦なら一度に広範囲をカバーする必要もありません。うまく陽動と奇襲を組み合わせれば、盗賊団を分断できるかもしれません」
「……ふん。だが、一度や二度失敗したくらいで、奴らがこの地を諦めるとも限らんぞ」
「もちろん、その可能性はあります。ですが、一度でも大きく打撃を与えられれば、被害は格段に減るでしょう。商人たちの信頼を取り戻すためにも、現時点での最善策ではないかと」
エヴァンジェリカの言葉に、バラル伯はしばし沈黙した。彼の表情からは、まだ納得しきれていない部分もあるが、同時に“賭けてみてもよい”という揺れる思いが垣間見える。
やがてバラル伯はバサリと書類を机に置き、エヴァンジェリカを見据えて問うた。
「お前、どうしてこんなことまでしている? ただの“生きる手段”とは思えんほど、手が込んでいるようだが」
「私は……王宮で学んだ知識を、ここで少しでも活かしたいんです。もともと国を守るために勉強していたはずが、誰からも相手にされなくなりました。けれど、知識自体が嘘になるわけではありませんから」
それは、エヴァンジェリカの真実の声だった。自分が積み上げてきた努力が、フローラの策略によって踏みにじられたとしても、失われたわけではない。生かせる場さえあれば、きっと何かを成し遂げられるはずだという信念が、彼女の根底にある。
バラル伯はそれを聞き、ふいに嘆息のような声を漏らした。
「……仕方ない。やるだけやってみるしかないな、隊長。お前もいいな?」
「はっ!」
「よし。エヴァンジェリカとやら、お前も作戦に同行して現場を見ろ。口先だけ偉そうなことを言って失敗されたら困るからな」
不躾な言い方だが、その言葉は彼女にとって“正式な同行許可”に等しかった。エヴァンジェリカは内心でガッツポーズしたい気分を抑え、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。私も全力を尽くします」
「期待はしていないがな。……しかし、お前の言う通りの配置を行うには、人手も補給も十分じゃない。武器や物資はほとんど足りていないんだ。そこをどうするかも含めて、お前が考えろ」
「はい、精一杯工夫してみます」
こうして、盗賊団を捕縛するための一大作戦が動き始めた。エヴァンジェリカは町中で必要な補給品や連絡手段を確認し、兵たちに作戦の概要を説明する役割を担うことになる。隊長やレイヴァンなど一部の兵士は“女の策”に半信半疑ながらも、彼女が王宮仕えだったという事実(本人談)や、書類で示した緻密さに興味を持ち始めていた。
“冷酷王”ルシウスの影
エヴァンジェリカがグレイフリートで盗賊団対策の準備を進めていたころ、ルシタニア王国の王都・アルトラヴィスでは、王宮の広大な庭園に厳粛な空気が流れていた。
噴水のある中庭を見下ろすように建てられたバルコニーには、一人の男が静かに佇んでいる。漆黒の髪を持ち、深い青色の瞳を持つその男こそ、ルシタニア王国の若き国王――ルシウス・ヴォルフガング。
“冷酷王”の異名を持つ彼は、幼少期に国の混乱に巻き込まれ、家族を失った過去がある。数年前、国内の派閥争いを強引かつ迅速に制圧し、わずかな犠牲で王位に就いた。その豪胆さと非情な決断力が、彼を恐れられる存在に押し上げた要因だ。
だが、冷静に国を統べる手腕もまた確かであり、彼はルシタニアを内戦の危機から救い、勢力を拡大し続けている。周辺諸国が彼を“冷酷王”と揶揄しようとも、もはや誰も彼に刃向かおうとはしない。その圧倒的な政治力と軍事力が、王としての地位を揺るぎないものにしているからだ。
そんなルシウスのもとに、ひそやかな足音を立てて近づく人物がいた。彼の側近である宰相のマグナスだ。
マグナスは軽く一礼し、低い声で告げる。
「陛下、先ほどメルガーデン王国で婚約破棄されたという公爵令嬢が、ルシタニア国境へ逃げ込んだとの情報が届きました。どうやらグレイフリートに滞在しているようです」
「ほう、あのメルガーデンの公爵令嬢か。確か……セロン家の娘だったか?」
「はい。元々、王太子妃として名高かった才女との噂ですが、今では“いじめ”の嫌疑で追放されたとか」
マグナスは眉をひそめる。王太子を欺くような悪女なのか、あるいは冤罪なのか、そこまではわからない。
しかし、ルシウスはその情報に心当たりがあるかのように、ほんの僅かに目を細めた。
「セロン……エヴァンジェリカ、と言ったか? ふむ、記憶があるな。名前を伏せて出された戦略論の原稿に、似た署名を見たことがある。宰相、覚えているか? 数年前、我が国に送られてきた匿名の戦略書があっただろう。メルガーデン王国の若い貴族が書いたのではないかと噂されたが……」
「……存じております。非常に理路整然とした軍事学の考察が印象的でした。しかし、正式に出所はわからず、結局は“王太子妃候補が書いたかもしれない”という噂に留まりましたね」
ルシウスは静かに頷く。あの論文は、当時こそ公には認められなかったが、ルシウス自身はその内容に興味を覚えた一人だった。もし本当にエヴァンジェリカがその筆者であるのなら、ただの“いじめを働く悪女”とは思えない。
「グレイフリートの領主はバラル伯か……あまり有能ではないと聞いている。彼女がそこにいるのなら、やがて面白い動きがあるかもしれんな」
「陛下は、何か手を打たれますか?」
「しばらくは放っておけ。必要ならば、あちらからこちらに助けを求めてくるだろう。あるいは……彼女が想像以上に面白い女なら、私のほうから手を差し伸べる価値もある」
ルシウスの瞳に、ほんの僅かな興味が宿る。彼は“必要な駒”を見極める目に長けている。もしエヴァンジェリカがその素質を持つのなら、いつか必ず自らのもとへ引き寄せてみせる。その時こそが、“冷酷王”ルシウスにとっての新たな策謀の始まりになるのだろう。
王都の静かな朝の空気の中、ルシウスは一瞬微笑んだようにも見えた。しかしそれは、まるで氷の刃を連想させる冷たい光を孕んだ微笑みにほかならない。
結び――謎めいた求婚者への布石
まだその頃、エヴァンジェリカは冷酷王ルシウスの存在も、その興味の対象になっているとも知らず、ひたすら盗賊団対策の準備に没頭していた。彼女の知略を活かした作戦が成功すれば、グレイフリートでの立場は多少なりとも安定するかもしれない。
一方、ルシウスは遠く王都から状況を見守り、彼女の動きを密かに注視し始める。いずれ直接の“接触”が訪れることを予感しつつ、冷酷な王は好機をうかがうように微笑みを浮かべていた。
すべては、ささやかな歯車の噛み合いから始まる運命の連鎖――。追放された公爵令嬢と冷酷王との出会いは、まだ幕を上げたばかり。
いずれエヴァンジェリカは王都アルトラヴィスへ向かい、ルシウスと相まみえるときが来るだろう。その先で待ち受けるのは、政略か、愛か、あるいはさらなる波乱か。
自分の中で燻っていた怒りと無念を胸に、エヴァンジェリカは紙上で描いた戦略を“現実”という舞台に落とし込むため、今日も兵士たちと協力して動き回る。まだ足元はおぼつかないが、それでも前を向いて歩を進めるのだ。いつか必ず、自分が失ったすべてを取り戻し、そして“本当の幸せ”を掴むために――。