「う…あれ…?」
瞼を開くと、そこは真っ白な天井だった。私は自分の部屋のベッドに横たわっている。頭はぼうっとしており、身体も鉛の様に重くまるで動かない。
私は何故此処にいるのだろう?確かあの激しい戦闘が終わった後、壱月達が迎えに来てくれて車に乗った。しかし、その後の記憶が全くない。あの出来事が全て夢だったかの様に。
「ほう、もう目を覚ましましたか。」
部屋の窓辺から声が聞こえたのでそちらに目を向けると、一冊の古びた本を手にしていた一葉さんが足を組みながら椅子に座っていた。
「一葉さん…。此処は…?」
「此処は月光邸の医務室です。萱から、君の容態を見る様に言われましてね。夜空に任せたいところだが、彼は少し安静にしていなければならない様ですし、僕も一応は婚約者候補として君の様子を見ておこうと思いまして。」
「そう、ですか…。」
悪夢を見ていたと思ったが、どうやら現実だったらしい。体を起こそうと試みたが全身に力が入らず、仰向けのまま動けなかった。
「…それで、具合はどうですか?」
「えっと、全く身体が動きません…。」
「そうでしょうね。ろくに鍛えられていない体で覚醒したばかり、しかも力を酷使したとなれば当然数日はその状態の筈です。ですが…てっきり五日は眠ったままかと思っていましたが、僅か二日で目を覚ますとは何とも驚異的だ。流石、月姫に選ばれただけあるといえるでしょう。」
一葉さんの言葉には、微かな驚きとそれ以上の冷たさが込められていた。私はその言葉に反論する気力さえなく、重い息を吐き出す事しか出来なかった。するとガタッと乾いた音を立てて、一葉さんが椅子から立ち上がった。彼は手にしていた本を閉じ、ゆっくりと此方へ近づいてくる。その足音は、静まり返った部屋に不気味な程大きく響いた。一葉さんは私の枕元に立つと無表情のまま、その白い指先を私の頬へと伸ばす。冷たい指が触れると、微かにゾクッとした。そして、何かを確かめるかの様にゆっくりと頬を撫でる。
「月光羽闇…多少君に興味が湧いてきました。」
一葉さんは意味深な言葉を口にした瞬間―私に覆い被さり、顔を近づけてきた。彼の唇が私に迫る。
「ちょ、ちょっと待って下さい…!何するんですか…!?」
私の声は、僅かに震えていた。目の前の一葉さんは普段と変わらぬ冷静な表情を崩さず、その瞳の奥に獲物を射抜く様な鋭い光が宿っている。逃げ場のない状況に、背中に冷たい汗が伝う。
「…分からないんですか?無抵抗な貴方を、どうするか決めているところです。」
彼の声は氷の様に冷たく、感情の起伏を感じさせない。その言葉は精密機械が淡々と作業をこなす様に、私の耳に届く。
「はぁ…!?何で…!」
「理由は言った筈ですよ、君に興味が湧いたと。そして僕は婚約者候補として、君を愛する権利もある。…つまり、僕だけのものにするという事です。理解出来ましたか?」
まずい…このままだと本当に一葉さんにされるがままになってしまう。しかし無理矢理に体を動かそうにも体は重く、指一本動かせない。
月の姫の力を使い果たした体はもはや抵抗する術を持たず、私は只々固く目を瞑る事しか出来なかった。
…あれ?何も起きない…?
時間が経っても唇に感触が感じられず、恐る恐る瞼を開くと、あと少しで唇が重なるという寸前で止まったまま一葉さんがじっと私を見つめていた。
「一葉さん…?」
「フッ…期待させてしまいましたね。冗談ですよ、本気にしないで下さい。さてと、僕はそろそろ次の用事があるので失礼します。萱には君が目を覚ましたと伝えておきましょう…では、お大事に。」
薄く笑みを浮かべた一葉さんは私から体を離し、先程読んでいた本を手に持って部屋を出ていった。
「(もしかして私、からかわれたの…!?っていうか、びっくりしただけで別に期待なんてしてないし!)」
真面目な印象があった一葉さんはとても冗談なんて言う性格じゃないと思っていた。その彼にまんまとからかわれてしまい、私は恥ずかしさで顔が茹でダコみたいに真っ赤になった。
その数分後―私が目を覚ましたと一葉さんから連絡を受けた壱月が、慌てた様子で部屋に入ってきた。
壱月によると、私はあの戦闘から二日間も昏睡状態だったらしい。あの日…車に乗った後の記憶がなかった理由は、私と夜空君は車に乗ってすぐに気を失い、それぞれ医務室へと運ばれたそうだ。
夜空君は昨日目を覚ましたそうだが、歌の力で傷は癒えたものの体力が回復しておらず、暫く安静が必要との事だ。私の場合は一葉さんの言っていた通り、体が動かないのは覚醒直後の身体で力を酷使した事が原因で、あと三日程はこの状態が続くらしい。学校に行けるのは来週辺りになりそうだと、壱月は言っていた。今まで一度もこんなに学校を休んだことが無いから、向日葵と陽葉はきっと心配しているだろう。
水族館は爆発により建物に深刻な被害が出た為、休館を余儀なくされている。再開時期は未定との事だ。爆発の犯人は依然として特定出来ておらず、確保にも至っていない。倒れていた麗夢と男二人は恐らく、私達が去った後すぐに他の仲間に回収されたのだろう。
私は壱月の話を聞いて少し安心したのか…あれだけ眠っていたというのに、またゆっくりと意識が遠のいていった。