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二人

 なるべく人目につかないように早足で階段を駆け上がり、二人は屋上へとやって来た。屋上は、生徒が自由に出入りできるようになっている代わりに、危険がないようにと空を突き破るほどに高いフェンスに囲まれている。

 冬真は屋上を吹き抜ける春風に茶色の髪を靡かせ、フェンスに背を預けてへたりこんだ。


「さっきは助かったよ、戸田さん」


 芽衣は首を横に振り、座り込んでいる冬真の前に屈む。


「ううん、気にしなくて大丈夫。私こそ、鳴海くんを助けるのが遅くなっちゃってごめん」

「冬真でいいよ。戸田さんは、下の名前なんていうんだっけ?」

「芽衣。戸田 芽衣」

「じゃあ、芽衣って呼んでいい?」


 深い意味はないように、冬真が気軽に提案する。

 自分は積極的に男友達を作る性格ではないから、男の人から下の名前で呼ばれたことなんてなかった。それが、よりによって芸能人である冬真に響きのある声音で呼ばれ、心臓が飛び跳ねる。


「う、うん。鳴海く……じゃなくて、冬真くんに名前で呼んでもらえたら、嬉しい」

「それはよかった。芽衣、よかったらお隣どうぞ」


 ぽんぽんと、隣に座るのを促すように冬真が地面を叩いた。

 芽衣はたじろいで後ずさる。


「冬真くんの隣に座るなんて、なんだか恐れ多くてできないよ」

「なにそれ。気にすることないって。そもそも俺、歌とダンスが好きで、あまり深く考えずに『Honey Blue』の審査を受けたんだ。どうせ受からないと思っていたしね。そうしたら偶然合格して、慌ただしくテレビとか雑誌とかで取り上げられるようになって、気づいたら有名人と言われる立場になってたんだ。だから、いまだに実感わいてない。もともと芸能人になるつもりもなかったんだ」

「そう……なの?」


 誰もが羨む人気を誇る冬真だけれど、それは彼が望んでいた姿ではないのだろうか……。

 冬真は、芽衣の言葉に自嘲気味に笑って、視線を空へと向けた。頭上には抜けるほどに青い晴天が広がっている。綿あめを裂いたような雲が点々と浮かんでいた。今日はぽかぽかと暖かい春日和だ。


 冬真の話によると、彼はもともと体を動かしたり歌をうたったりすることは好きだったが、メディアに出て活動するつもりは毛頭なかったらしい。けれど、熱心な姉からオーディションを受けるように勧められて、自分の腕試しのつもりで受けたところ、運よく合格が決まったのだそうだ。そのとき新設されたボーカルユニットに所属することになり、そのままあれよあれよという間にメディアにかつぎ出されていったそうだ。


「そんな経緯で、自分でもよくわからないままにこういう立場になっちゃって……。だから、あまり俺を芸能人扱いしないで普通の友達として接してくれたら嬉しい。――そうだ、これ、お礼」


 冬真が手を伸ばして、芽衣の手にころりと小さな包みを転がす。覗き込むと、それは包装紙に包まれた小さなチョコレートだった。


「今度、きちんとお礼ができたらいいんだけれど。今は持ち合わせがそれしかなくて。芽衣は、甘いものは好き?」

「えと、大好きです。ありがとう、冬真くん」

「うん」


 そう言って、冬真はテレビで観るよりもよほど自然で素朴な笑顔を見せてくれた。

 これが本来の彼の表情なのかと芽衣は気づく。自分が特別なものを見られたような気がして、得した気分になるのだった。



 ***



 それから数日後。初日こそ大騒ぎであったけれど、冬真は次第にクラスに馴染み始めた。冬真自身も、芸能人の『鳴海 冬真』としてではなく、普通の高校生としての素顔を垣間見せるようになっていた。相変わらず女子たちに人気ではあったけれど、芽衣の周囲は日常を取り戻しつつあった。


「鳴海、今日の宿題の範囲なんだけど……」

「ああ、それ十四ページまでって先生が言ってた」


 男友達に囲まれて、冬真が軽く机に寄りかかりながら笑っている。

 杏がそれをちらりと盗み見ながら、芽衣に視線を戻した。


「……鳴海くん、もうだいぶクラスに馴染んだみたいだね」

「うん。冬真くん、もともと明るいし優しいから、芸能人っていう特別なことがなくても人気者になりそうだよね」

「なぁに芽衣、不機嫌そうじゃん。もしかして、鳴海くんが自分以外とも普通に話すようになって嫉妬してるとか?」

「……っ!」


 一時期、冬真は連日の人だかりに疲れてしまったのか、隣の席の芽衣とだけ積極的に話すように徹底していた。クラスメイトとは最低限のことしか話さないようにしていたのだ。おそらく、冬真に少し人見知りの部分があったからなのかもしれない。

 けれど、そんな彼もだんだんとクラスに慣れ、特にクラスメイトの男子とは分け隔てなくふざけ合うようになっていた。今となっては芽衣よりも友達が多いくらいだ。

 芽衣はしょげて唇を尖らせる。


「し、嫉妬じゃないよ。ちょっと、寂しいというか……」


 思わず本音が出てしまうと、杏がけらけらと笑った。


「なあんだ、そんなこと心配する必要ないと思うよ。だって、鳴海くんことを『冬真』って名前で呼ぶのは、いまだに芽衣だけなんだよ? 鳴海くんにとって、芽衣って特別な女の子なんだと思うけど」

「そう、かなあ……」


 そうだとしたら、嬉しいけど……。

 芽衣が曖昧に返事をして立ち上がったそのとき、こちらに気づいた冬真が手を上げた。


「芽衣、もしかしてそろそろ帰る?」

「え、あ、うん。そうしようかと……」


 答えると、冬真は周囲の男友達に断ってこちらに駆け寄ってきてくれた。

 杏が何かを企んだ様子で、にやにやとした視線を冬真に向ける。


「ねえ鳴海くん、芽衣、どうせ一人で帰るみたいだし、よかったら一緒に帰ってあげてほしいなあ」

「ち、ちょっと、杏……!」


 杏のたくらみに気づいた芽衣は、抗議するように声をあげる。けれど、杏はどこ吹く風であさってのほうを向いている。冬真が頷く。


「そうなんだ。俺もいまから帰るところだから、今日は一緒に帰ろう、芽衣」

「や、い、いいよ……! なにか誤解を生むような記事になっちゃったら、冬真くんの迷惑になっちゃうし……」


 冬真は芸能人だ。もしも自分とふたりで下校しているところなど誰かに見られたら、雑誌記者にあることないことを書き立てられてしまうかもしれない。

 それを危惧して言えば、冬真が苦笑いで首を横に振った。


「そんなの気にしすぎだよ。そもそも、何か書かれたとしてもクラスメイトの友だちですって言えば済む話だと思うんだ。それに、そんなこといちいち気にして生活してたら俺も息が詰まっちゃうしね」

「そう、かもしれないけど……」


 まだもごもごと言いよどむ芽衣。冬真はあっけらかんと笑ってみせた。


「俺、友だちと下校するとか、そういう普通の高校生みたいなことやってみたかったんだよね。一緒に帰ろう、芽衣?」

(うっ……!)


 冬真に小首を傾げて可愛らしく頼み込まれ、芽衣は言葉に詰まる。

 この破壊力抜群のお誘いを断ることは難しい。それに、記事にでもなって問題になったら困ると思う反面、冬真の気持ちを大事にしたいと思う部分もあった。ここはお言葉に甘えて冬真と一緒に帰ろう。きっと楽しいに違いない。

 鞄を持って並んで教室の扉を潜る芽衣と冬真。杏がひらひらと手を振って来る。


「ふたりとも、気をつけてね!」


 杏のお膳立てに、感謝したいような、お節介だとつっこみたいような――そんな複雑な気持ちになりながら、芽衣は冬真と二人で帰路に着いた。



 ***



「……もうすぐ文化祭だね、冬真くん」


 校門を潜り、二人で並んで歩きながら隣を歩く冬真に話しかける。

 土手沿いの通学路には、萌えるような緑の芝生が広がっている。西日を受けて川面がきらきらと反射していた。ほんのりと暖かい春の風が、二人の制服の袖口を優しく揺らしていく。

 冬真はちらりとこちらを見てから、また前方へと戻した。夕陽を受けて煌めく彼の瞳。芽衣は冬真の端正な横顔から目が離せない。


「そうみたいだね。ああそうだ、俺、後夜祭に出ることになったんだよ」

「後夜祭? 冬真くん、クラスの出し物以外にも出る予定なの?」


 芽衣たちの高校の文化祭は、クラスで一つ出し物をする他に、前夜祭や後夜祭で有志のグループでパフォーマンスをすることも可能だった。主にバンド演奏やアカペラなど、部活のメンバーで出場することが多い。冬真もそれに出るのだろうか。

 冬真は眉尻を下げて困ったふうに笑う。


「ちょっと友達に誘われてさ。男五人で歌とダンス。しかも『Honey Blue』の曲をやるんだよね……」

「わあ! それすごく楽しみ!」


 芽衣は目を輝かせる。

 『Honey Blue』の曲を冬真が歌うとなると、それは本物を生で聴けるということなんじゃないだろうか。

 すごい、すごい、と手を叩けば、冬真はまんざらでもなさそうに後ろ頭を掻いた。


「芽衣に喜んでもらえるのは嬉しい。だけど、個人的にはなんでプライベートでまで仕事みたいなことやらなきゃいけないのかって、今から気が重かったりもする」

「なるほど……」


 察するに、冬真は普通の高校生として文化祭を楽しみたかったのだろう。それなのに自分の持ち曲を歌うとなっては、プライベートに仕事を持ち込まれたように感じるのかもしれない。

 冬真が歩きながら続ける。


「うちの学校の後夜祭って、学校の関係者以外は入れないじゃん? だから、そんなに大騒ぎにはならないだろうってことで事務所の許可が下りたんだ。だから後夜祭でパフォーマンスする分には問題ないんだけどね」

「うーん。私としては、『Honey Blue』の鳴海 冬真くんが生で見られるなんて役得だなあって思うよ。普通はライブにでも行かないと見られないもん」


 ね、ちょっと小首を傾げてねだるように笑いかける。自分だけではなく、学校の皆にとっては『Honey Blue』を間近で見られるチャンスなのだ。けれども、冬真に負担をかけたくはなかった。

 芽衣は慌てて言い添える。


「あ、でも。冬真くんが気乗りしないなら無理しないほうがいいと思う。私は、冬真くんに楽しい学校生活を送ってもらうのが一番だと思うから」

「ありがとう。――うん、俺、決めたよ。芽衣が喜んでくれるなら、芽衣のために頑張ろうかな。初日に助けてくれたお礼をちゃんとしてないしさ」

「ああ、そんなのいいのに。でも、ありがとう。楽しみにしてるね!」


 そう言って芽衣が笑いかけると、冬真も、わかった、と晴れやかに笑い返してくれた。

 文化祭が断然楽しみになってきたなあと、芽衣は思う。


 自分のクラスの出し物は喫茶店をやるので、芽衣はウェイトレス役をやることになっている。冬真も同じクラスメイトではあるけれど、ウェイターとして出るとこれまた大騒ぎになってしまう恐れがあるため、彼はクラスの出し物には参加しないことになっていた。

 だから、文化祭では冬真の働いている姿を見ることはできないと思っていたけれど……。

 後夜祭で彼の歌とダンスが見られるのなら、そのために文化祭を成功させようと、芽衣は思えるのだった。

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