文化祭も間近に迫ってきた頃。
放課後の教室。芽衣はクラスメイトと共に机を囲んで顔を突き合わせていた。文化祭当日に喫茶店で出すメニューを決めるためだ。皆が挙げたアイディアは、珈琲や紅茶、タピオカジュースという飲み物から、おにぎり、ワッフル、チョコバナナなど、火を使わずに手軽で衛生管理もさほど難しくない食べ物までいろいろ挙がっている。それぞれに予め調べてきてくれたようだった。
皆の意見をまとめたメモを見ながら、友達の一人が言う。
「そしたら、飲み物はタピオカジュースにして、ジュースの部分をミルクティベースとかフルーツジュースベースとかにしたらいろいろ選べて楽しいんじゃないかな」
「だとしたら、ワッフルも生クリームを乗せられたりチョコレートソースを乗せられたりって、ソースを選べたら盛り上がりそうじゃない?」
友達が次々と工夫を凝らした意見を出してくれる。どんどんとアイディアを閃いていく友達を、芽衣は尊敬の眼差しで見ていた。皆、どうしてそんなにもトレンドに詳しいのだろう。
疑問に思った芽衣は、同じく話し合いに参加していた隣の杏を肘でつつく。
「ねえ杏、みんないろいろな食べ物を知ってるんだね」
「そりゃ、みんなあんたと違って男子とデートしてますから。あんたももっと鳴海くんと放課後デートすればいいんだよ」
――へ?
「な、なんでここで冬真くん! 関係ないない!」
思わず大声をあげてしまって、芽衣はきょろきょろと周囲を見渡した。幸い冬真の姿はない。今の会話を聞かれていたら気まずくて仕方なかったところだ。
ほっと胸をなでおろしていると、後ろから誰かに肩を叩かれた。
「ちょっと戸田さん、いい?」
「……小林さん?」
振り返ると、同じクラスメイトの小林 美香(こばやし みか)が芽衣の後ろに立っていた。彼女の取り巻きの女子生徒たちが家来のように付き従っている。気が強くわがままな美香は、このクラスの女子ボスのような存在だった。自分とはあまり接点がなく、そもそも美香に近寄らないようにしていたため、急に話しかけられて身が竦む。
(……小林さん、私になんの用だろう?)
青ざめた芽衣を庇うように、杏が美香を睨みつける。
「小林さん。今、みんなと喫茶店のメニューについて話してたんだけど……。芽衣になにか用事?」
「新田さんじゃなくて戸田さんに話があるの。戸田さん、ちょっと一緒に来てくれない?」
美香の有無を言わさない威圧的な口調に、芽衣は助けを求めるように杏を見やる。
杏は美香を一瞥したあと、芽衣に視線を戻して普段どおりに明るく笑いかけた。
「芽衣、行ってきなよ。こっちの話がひと段落したら、呼びに行くからさ」
「ありがとう、杏……」
今この場で美香の誘いを無下に断るわけにはいかない。だから少し時間を置いてから助けに行く、という意味なのだろう。
杏の真意を汲み取って、芽衣は視線をうつむかせて頷いた。後で杏が来てくれるのなら、仮に何かあったとしても大事にはならないだろう。杏の言葉には、美香に対する牽制も含まれていたのかもしれない。
友人たちが心配そうに見守る中、芽衣は美香とその取り巻きの後ろについて歩き出した。美香は無言なのにどこか殺気立った空気が伝わって来て、それが肌に突き刺さるようだった。
芽衣は知らず知らずのうちに拳を胸の前で握って、怯えるように小さくなっていた。
***
美香に案内されるままについていくと、渡り廊下に出て、体育館裏のひと気のない場所に連れ込まれた。日陰だからか空気がひやりと肌寒い。緊張していることもあってか、一気に体温が落ちて手先が冷たくなるようだった。
美香は芽衣を体育館裏の壁の前に立たせる。逃げられないようにするためか、手下の女子生徒を並べて檻のように取り囲んだ。
――こ、怖いっ……!
複数の敵意のある目に見つめられるだけで、足ががくがくと震えてくる。
先生を呼ぶべきだろうか。けれども、まだ何もされたわけではない。いや、何かされてからでは手遅れとも言える。
そんなことを頭の中でぐるぐると巡らせているうちに出遅れる。女子生徒たちの中心で仁王立ちしている美香が、つんと顎を突きだした。
「戸田さん、鳴海くんのことなんだけど」
(……やっぱり冬真くんのことか)
「あなた、鳴海くんとどういう関係なわけ?」
やはり、冬真と仲が良いというのは目立つのだろう。
けれどなにも後ろめたいことはないため、芽衣はきっぱりと答える。
「どういうって……。普通の友だち、だけど」
「とぼけないでよ! 名前で呼び合ったり、一緒に帰ったり、親しそうにしてるじゃない!」
急に声を荒げられて、芽衣は仰天して目を瞬いた。けれど、臆することなく美香に言い返す。
「そういうこともあるけど、でも、本当にただの友達だよ。小林さんは、冬真くんと私の関係を知りたかったの?」
おそらく、美香は冬真のことが気になっているのだろう。美香が冬真に片思いをしていることは、クラス内では有名な話だったから。肝心な冬真は気にしていない様子だったけれど。
肩で息をするように興奮している美香に、芽衣はさらにたたみかける。
「小林さん、もしかして冬真くんのことが好きなの? それで私を敵視してるんだったら、本当にお門違いだから。私と冬真くんは何もないから。それに、冬真くんはずっと普通の高校生活を送りたいって言ってた。こんなことをしたら、冬真くんを傷つけてしまうだけだと思う」
自分のことで、冬真に迷惑をかけたくはなかった。自分に向けてくれる彼の素の笑顔を守りたかったから。
正直、自分は冬真のことが気になり始めているのだと思う。彼の気さくさや優しさは、とても心地の良いものだったから。
けれども、どんなに憧れたとしても彼が振り向いてくれることはないのだ。
彼は芸能人だから。自分とは生きる世界が違うのだから。
毅然と言いきったのが癪に障ったのか、美香が眉をつり上げた。
「生意気よ! とにかく、もう鳴海くんには近づかないでっ!」
不意に美香の手が芽衣の肩口に伸ばされて、そのまま強く突き飛ばされる。
まさか手を上げられるとは思わず、態勢を崩した芽衣はよろけるままに体育館の壁に背をぶつけた。じんじんと痛みを感じる背中に驚きながら、目の前で興奮した様子でいる美香を凝視する。
取り巻きの女子たちもさすがにこれはまずいと思ったのだろう。美香を止めようとし始めたそのときだった。
「芽衣!」
恐怖で冷えきっていた心がほっと安心するような、聞き慣れた男声が周囲に響いた。
芽衣は必死に顔を上げて、声がしたほうを見やる。するとそこには、顔を青ざめさせた冬真と、心配げにこちらを見つめている杏の姿があった。
(冬真くん、杏、助けに来てくれたんだ……!)
二人の顔を見て安堵したからか、芽衣は瞳に涙を滲ませる。それに気づいた冬真が血相を変えて芽衣に駆け寄った。
「芽衣、大丈夫? 小林さん、何をしていたんだ……!」
「鳴海くん……」
冬真に怒りを押し殺した表情を向けられて、美香は立ち竦む。想いを寄せる冬真にこんな場面を見られてしまい、さすがに気まずくなったのか、美香は冬真の質問に答えることになく取り巻きを見回した。
「――行こう、みんな!」
「小林さん!」
冬真の制止の言葉を無視して、美香たちは足早にその場を去っていく。
やっと解放されたという思いに、芽衣は安堵して体の力が抜けてしまった。その場にへたり込んでしまう。
「芽衣、平気? 危ないことされなかった?」
背を屈めて、冬真がこちらの顔をのぞき込む。本気で心配してくれたのか、こちらの肩に添えられた冬真の手がわずかに震えていた。芽衣は彼を安心させるように微笑む。
「うん、大丈夫……! ちょっと突き飛ばされて、背中ぶつけちゃって……」
「突き飛ばされた!?」
芽衣よりも血の気が引いて青くなっている冬真。彼の優しさを感じて、芽衣は自然と彼の頭に手を伸ばしていた。
「そんなに心配しないで。怖かったけど、大した怪我はしてないから……」
「俺の、せいだよね……。ごめんね、芽衣、ごめん……」
芽衣に頭をなでられるままになりながら、冬真が消え入るような声で謝る。
冬真のせいではなかった。今回のことは、美香の逆恨みと勘違いからくるものだったから。
けれど、こうして自分を助けるために必死に駆けつけてくれて、目の前で心から心配してくれている冬真を見ていたら――……もしかしたら自分は、冬真のことが好きなのかもしれない……と思い始めていた。憧れではなく、彼に惹かれ始めているのだ。
けれど、この気持ちは胸に秘めておかなければならない。
片想いをしても届かない相手だと、わかっているから。
好きになってはいけない人なのだと、わかっているから。
冬真の髪はさらさらとした猫っ毛で、指の間をすり抜けていく感触が心地よかった。
ステージに立ってみんなに愛される彼だけれど、今だけは、自分が触れても許されるかもしれない――そう思って、芽衣はかみしめるように冬真の髪をなで続けた。
そのとき、不意にこちらの背中に腕を伸ばした彼に、そっと包み込むように抱きしめられた。
――えっ……!
突然のことに、芽衣は驚いて体を強張らせる。
密着する彼の身体から柑橘系の爽やかな香りがした。シャンプーか、香水の匂いなのだろうか。
冬真は、芽衣の肩口に顔をうずめると、くぐもった声で言った。
「……俺が、ちゃんと芽衣のことを守れたらいいのに。芽衣を危ない目にあわせたくないのに」
「え……」
「――芽衣。俺、結構、本気だから」
「冬真くん……?」
「本気で芽衣のこと、いいなって思ってるから」
誰にも聞かれないように、耳元でささやくように冬真が言う。
とても小さい声だったはずなのに、一言一句逃さないくらいにはっきりと聞こえた。
一気に鼓動が速くなって冬真に心音が聴こえてしまいそうだった。
それで意識してみれば、冬真の心臓の音も同じように速い。
(もしかして、冬真くんも緊張してる……?)
そっと視線を上げて間近にある彼の顔を盗み見る。彼は傍からでもわかるくらいに頬を赤くしていた。
照れている彼は、人前に出ているような芸能人ではなく普通の男の子そのもので、なんだかとても可愛らしかった。
「……さっき、芽衣が俺のことを庇ってくれている声が聞こえたんだ。そのときに思ったんだ。芽衣は俺のことを、芸能人としてじゃなく俺自身のことを大切にしてくれる人だって」
(あ……)
それは、美香に言い返したあの時の言葉だろうか。
(冬真くんに聞こえてたんだ……)
急に恥ずかしくなってしまう。あのときは無我夢中だったから、思っていることをそのまま口にしてしまったのだ。
「……また今度、今の返事、聞かせて」
それだけ言って、冬真は芽衣の体を離す。立ち上がって後方の杏を振り仰いだ。
「新田さん、ごめん。芽衣、たいした怪我はないみたいなんだけど、小林さんに手で突き飛ばされて壁に背中を打ったみたいなんだ。保健室に連れて行ったほうがいいかな?」
「そうだね。先生に事情も説明したほうがいいかもしれない。芽衣、ごめんね。あたしが来るのが遅れちゃったから……」
芽衣たちの様子を見守っていた杏が、そろそろと近づいてきて頭を下げる。
芽衣は慌てて首を振った。
「ううん! 杏が冬真くんと一緒に助けにきてくれたから、突き飛ばされるくらいで済んだのだと思う。あのまま誰も来てくれなかったらどうなっていたか……」
激昂した美香に平手打ちでもされていたかもしれない。
よかった、と微笑む杏に笑い返してから、芽衣もゆっくりと立ち上がった。杏は本当に最高の友達だ。自分だって巻き込まれる可能性があったのに、冬真を連れて駆けつけてくれたのだから。
少し背中にじくじくとした痛みが残っているけれど、幸い軽く打ちつけただけのようで歩けないような痛みではなかった。これなら自力で保健室に行けそうだ。
三人で歩きだしたそのとき、冬真の制服のズボンから携帯のバイブレーションの音が鳴り響いた。ごめん、と冬真は一言短く謝って、携帯を耳元に当てる。表情を引き締めているところから察するに仕事関係の電話だろうか。
「――ああ、はい、え、今から? ……わかりました、すぐに行きます」
携帯を切るや否や、冬真は申し訳なさそうに後ろ頭を掻く。
「芽衣、新田さん、ごめん。仕事が入った」
――仕事……。
その言葉に、冬真と触れ合ったことで彼を身近に感じていた芽衣は、急に距離ができたように思えていた。やはり彼は芸能人なのだ。どんなに傍にいても、言葉を交わしても、それは一時的なもの。常に彼と自分は違う世界を生きている。
それなのに、冬真は私に興味を持ってくれているのだろうか。
本気だと、思ってくれているのだろうか……。
――私、どこまで冬真くんのことを信じていいのかな……。
自分はきっと、冬真のことが好きだ。けれど、冬真も自分のことを本気で想ってくれていると勘違いして傷つきたくはなかった。臆病な自分は、彼の言葉を信じる勇気がなかったのだ。
冬真は気遣うように芽衣を見つめた後、芽衣と杏を残して小走りで教室へと戻って行ってしまった。一度、鞄を取りに戻ってから仕事に向かうのだろう。
小さくなっていく冬真の背中を見送ったあと、芽衣は隣に立つ杏を見上げた。
「杏、冬真くんを呼んで来てくれてありがとね。二人が駆けつけてくれて、心強かった」
「ううん、友達だし、当たり前でしょ。鳴海くん、芽衣が小林さんたちに連れていかれてよくない雰囲気だって伝えたら、すぐ助けに行くって言ってくれたんだよ。鳴海くんに愛されてるねえ、芽衣」
――愛されてる。
その言葉に、芽衣は自信が持てなくてうつむいた。
「……あのさ、杏。冬真くん、私のことどう思ってるんだろ……」
「芽衣?」
聞こうとして、芽衣は首を振った。
もう少し自分の気持ちを整理してから、杏に相談にのってもらったほうがいいかもしれない。
「ごめん、なんでもない。杏、あとで相談したいことがあるんだけど、いい?」
「もちろん。とりあえずまずは保健室行こっか。保健室の先生に、景気よく湿布くらい貼ってもらわないとね」
杏は、詮索することはしないで軽やかにほほ笑んだ。
明るく振る舞ってくれる彼女の様子から、彼女が気を遣ってくれているのがよくわかった。
――杏も冬真も、優しくて頼りになる大切な友達だ。
自分も二人が大変な時は全力で助けよう。二人がそうしてくれたように。
冬真のことも、大事な友達。それで充分じゃないか。彼の特別になれたらなんて、自分はいつからそんなに思い上がってしまったのだろう。
芽衣は気持ちを整理して、杏と共に保健室に向かった。