王都ラクリスは、今日も朝から清々しい陽光に包まれていた。立ち並ぶ石畳の道は多くの商人や旅人でにぎわい、大通りでは忙しなく荷馬車が行き交っている。遠くにそびえる白亜の王城、その優美な尖塔の先端が青空を突き抜けるかのように輝いていた。
そんな王都の中心から少し離れた場所に、リチャードソン公爵家の屋敷は建っている。周囲は緑豊かな庭園で囲まれ、様々な季節の花が艶やかに咲き誇ることで名高い。王家に次ぐ高貴な家柄でありながら、華美すぎない落ち着いた内装と丁寧な管理が行き届いた庭園は、多くの貴族たちから「品位ある佇まい」と称賛されていた。
そんなリチャードソン公爵家の令嬢――ヴァレリー・リチャードソンは、王国における最高の美貌と知性を持つと噂されている。深い金色の髪と美しい青紫色の瞳は、まるで氷の宝石を思わせる輝きを帯びている。
ただし、そのあまりに冷ややかな表情と、まるで氷の彫刻のように整いすぎた容姿のせいか、社交界では「氷の令嬢」と揶揄されることも少なくなかった。本人はあまり意に介していないが、どこか隙を感じさせない雰囲気や、他人に流されず常に冷静沈着である点も相まって、そのような異名が定着している。
ヴァレリーは、今まさに午前中のティータイムを終え、午後から開かれる王宮主催の舞踏会の準備をしていた。
この舞踏会は、ただの社交の場として開かれるものではない。王太子であるエドワード殿下が、長らく婚約中だったヴァレリーとの正式な結婚日程を、そろそろ発表するのではないか、と噂されている。
ヴァレリーは王太子エドワードと数年前に婚約して以来、王太子妃候補として周囲に振る舞ってきた。まだ若いにもかかわらず、公務の手伝いや各種慈善事業を積極的にこなし、貴族としての務めに不足はない。その凛とした姿はしばしば話題に上り、「王太子の隣に立つのに、これほどふさわしい女性はいない」とも評されている。
だが同時に、人々は心の奥底で思っていた。――本当に王太子とヴァレリーは、互いに心を通わせているのだろうか? と。
なぜなら、エドワード殿下は噂好きの貴族令嬢たちに囲まれるのが好きで、あまり落ち着きがなく、どこか軽薄なところがある。一方のヴァレリーは、そうした軽々しい振る舞いを最も嫌う性格だった。
公の場では互いに微笑み合って見せるが、その笑顔に真実味を感じない――。周囲にそう思わせる程度には、二人の間にぎこちなさがあった。
しかし、王家とリチャードソン公爵家は古くからの縁が深い。国政においても公爵家は要であり、今さら婚約解消などということはありえない。少なくとも、誰もがそう思っていた。
だが、この日の舞踏会こそが、人々の思い込みを一変させる大きな転機となる。
広々とした王城の大広間では、既に多くの貴族たちが華やかな装いで集っていた。シャンデリアの眩い光が床を美しく照らし、壁には歴代の王や英雄の肖像画が飾られている。会場の中央では壮麗なオーケストラが演奏を始め、優雅なワルツの調べが響き渡っていた。
ヴァレリーは自家の馬車を降り、侍女に続かれる形で会場へ入る。ドレスは淡いパールグレーを基調とし、裾のフリルや胸元のビジューにも過度な装飾はなく、むしろシンプルな気品を漂わせている。氷の彫刻めいた美貌のヴァレリーがまとえば、その控えめな色調ですら目を奪われるほどの威容となるのだから不思議だ。
大広間に入り、一際目立つ場所に立つと、すでに多くの視線がヴァレリーへと注がれていた。だが、彼女はいつも通り微動だにせず、涼やかなまなざしで周囲を見渡す。
そこに、王太子エドワード殿下の姿が見えた。淡い金の髪を丁寧に整え、白地に金糸の刺繍がほどこされた華やかな軍服風の礼装を身に着けている。彼はヴァレリーに気づくと、いつものように穏やかな笑みを浮かべた――が、その瞳にはどこか迷いがあるようだった。
「おや、リチャードソン令嬢。少し遅かったじゃないか。待ちくたびれたよ」
エドワード殿下はいつになく軽い調子で言葉をかける。ヴァレリーはかすかに首を傾げたが、即座に装った笑みを返す。
「お待たせして申し訳ございません、殿下。ですが、開始時刻に遅れたというほどではないかと……」
「いや、まあいい。それよりも、今日は大事な発表があるからね。君も楽しみにしていてくれ」
そう言われて、ヴァレリーは瞬き一つ。自分たちの結婚の日程が正式に公表されるのだと、あらためて心を引き締める思いだ。とはいえ、彼女は浮足立つような感情にはならなかった。この結婚は、公爵家と王家双方の義務を担うものであり、そこにあまりロマンチックな要素は感じにくい。
それでも、ヴァレリーは王太子妃として国や民のために尽力しようと心に決めていた。どうせ感情を伴わない結婚なのであれば、せめて公務に邁進し、自分に与えられた役割を全うしたい――それが彼女の決意である。
しかし――。
この後、思いもよらぬ形でヴァレリーの婚約が崩れ去るとは、まだ誰も予想していなかった。
それから間もなく、王太子エドワードは舞踏会の中央で演奏を止めさせ、マイクのように音を拡散する魔道具を手にした。
大広間は一瞬にして静寂に包まれる。貴族やご令嬢、ご婦人方がこぞってその様子を見守る中、彼は声を上げた。
「本日お集まりの貴族の皆様、並びに関係者の方々。まずはこの舞踏会にご出席いただき、誠に感謝申し上げます」
格式張った導入を経たあと、彼は言葉を続ける。
「実は私、王太子エドワードには、つい先日、神意を受けられた聖女シエナとの間に、深い縁があることが分かりました。シエナは庶民出身ですが、その身に聖女としての奇跡の力を宿し、国を救う重要な役目を担っております。私はそんな彼女の純粋無垢な心に惹かれ、共に歩む決意をいたしました」
エドワードの隣には、一人の少女が寄り添うように立っている。癖のある薄茶色の髪と丸い瞳を持ち、可愛らしいといえば可愛らしい。しかし、決して貴族たちが「気品ある」と評するタイプとは言いがたい。シンプルな白いドレスを着ているが、本人はあまり着慣れておらず、落ち着かない様子でエドワードの腕にすがっていた。これが、庶民出身の聖女シエナだ。
彼女の姿を見て、貴族の間には小さなどよめきが走る。聖女シエナについては、王宮が正式に認めたという触れ込みがあるものの、はたして本当に聖女なのかどうか――疑問を持つ者も少なくなかったからだ。
だが、驚きはこれだけでは終わらない。エドワードは続けて、はっきりとこう告げたのだ。
「よって、私は本日をもって、ヴァレリー・リチャードソンとの婚約を破棄いたします!」
その宣言に、大広間は一瞬息をのんだ。世界全体が凍りついたかのように、静寂が訪れる。
続いて、どっという大きなざわめきが起こった。
あまりに唐突すぎる。いや、唐突というか、そもそもあり得ないことだった。リチャードソン公爵家と王家の繋がりは絶大だ。契約や利害関係をあっさりと覆すなど、王太子には許されないはずである。
混乱する周囲を余所に、エドワードはさらに言い募る。
「ヴァレリーとの婚約は、私の意思というより、周囲に押し付けられた義務でした。しかし私は、真実の愛を貫きたいのです。シエナこそが、私の運命の人。どうか皆様、この決断に理解を示していただきたい!」
その横でシエナが大きな瞳に涙を浮かべ、観客に向けて小さく頭を下げる。貴族の中には、その愛らしさに一瞬心を動かされる者もいた。
だが、一連の話を聞いた多くの者たちが思ったのは――「あまりにも非常識だ」――ということ。
この場でその発言をし、長年王家を支えたリチャードソン公爵家を、いわば公衆の面前で侮辱する形になったのだ。
王太子が若気の至りで放言しているだけなら、まだフォローの余地があるかもしれない。しかし、聖女シエナとやらは明らかに社交界慣れしていない庶民出身で、真実の奇跡を起こした証拠もまだ十分とはいえない。
あまりにも軽率で、計画性に欠ける行為だ。普段から王太子の軽薄さを憂慮していた者たちは、「ついにやってしまったか……」と顔を見合わせる。
そして、その中心にいるヴァレリーはというと――まるで氷像のように微動だにせず、ただ王太子の言葉を受け止めていた。
怒りや悲しみを感じていないわけではない。けれど、彼女の中では「もはや驚きという感情さえ通り越してしまった」というのが正直なところだった。
やがて、舞踏会の出席者たちが気まずそうに視線を交わす中、ヴァレリーは静かに一歩前へ進んだ。高すぎず低すぎない声量で、エドワードに向き直る。
「……承知いたしました。もともと、私たちの婚約は王家と公爵家の義務であると理解しておりました。もし殿下の真意が、シエナ様との結びつきにあるのなら、私としても無理に引き留める気はございません」
その発言に、会場が再び揺れる。ヴァレリーのあまりに落ち着いた態度は、周囲からすれば拍子抜けするほどだ。
だが、彼女は続ける。
「ですが、殿下。契約書をご確認いただきたいのです。私は公爵家を代表して、殿下との婚約解消時には “違約金として王家から公爵家に領地の一部を譲渡する” という条項を締結しております。お忘れではございませんね?」
エドワードが顔色を変えた。おそらく、完全に頭から抜け落ちていたのだろう。
王太子としては、単に「婚約は破棄だ、さようなら」で済むと思っていたのかもしれない。しかし、リチャードソン公爵家は甘くない。婚約が政治的な要素を多分に含んでいる以上、正式な契約書を交わしており、その破棄にはしかるべき手続きと損害補填が必要だ。
ヴァレリーは続けて、エドワードだけではなく、会場の貴族たちにも聞こえるようにはっきりと告げた。
「そちらの条件さえ満たしていただけるのであれば、私は婚約破棄を受け入れます。リチャードソン公爵家としては、何も問題ございません」
その言葉に、シエナが一瞬ぎょっとした表情を見せた。彼女は庶民出身ゆえに、貴族間の契約の重みを理解していないのかもしれない。
「えっ、でもそんな……領地の譲渡って、かなりの……」
シエナの戸惑いをよそに、ヴァレリーは小さく微笑む。冷ややかな微笑みではあったが、その瞳には確固とした意志が宿っていた。
「殿下も、まさかとは思いますが、国や民を顧みずに私個人の心情で婚約を結んだわけではないと存じます。もし真実の愛が存在するとおっしゃるのなら、領地ひとつを差し出すくらい、さほど難しいことではないはずでしょう?」
その瞬間、大広間にいた何人かの貴族からクスクスと笑い声がもれた。エドワードの行動の軽率さへの呆れ、そしてヴァレリーの毅然とした態度の痛快さに、思わず笑みがこぼれたのだ。
エドワードは唇をわななかせながら、必死に言葉を探している。こんな形で迎撃されるとは夢にも思わなかったのだろう。恐らくは、「嫌ならば泣きながら婚約を解消される」ヴァレリーの姿を想定していたのかもしれない。
しかし、実際に目の当たりにしたヴァレリーは、涙どころか微動だにしていない。それどころか、エドワードが公の場で暴走すればするほど、公爵家にはさらに有利な状況が整う。
――そのとき、シエナがエドワードの腕をきゅっと引き寄せて、まるで守ってもらうような様子を見せた。
「エドワード様……私、わ、私……怖いです。こんなにたくさんの方々の前で、こんなことになるなんて」
涙で潤んだ瞳を伏せる彼女を、エドワードはまるで庇うかのように抱き寄せる。庶民的な可愛らしさに、彼も完全に心を奪われているのだろう。
「大丈夫だ、シエナ……。俺が守る」
そう言ってから、エドワードは勢いだけで言葉を吐き出した。
「わかった! 王家の領地から……ある程度は譲渡する! それでいいんだな!?」
叫ぶような声に、会場のあちこちから失笑が起こる。熱くなったあまりに、どこまで譲渡するかの交渉もすっ飛ばしてしまった。これではまるで、王家自ら進んで貴族に譲歩しているかのように見える。
リチャードソン公爵家を侮ったツケは重い。まさに自分から泥沼に足を突っ込んでいるのだ。
ヴァレリーはゆるやかに一礼し、まるで儀礼を守るように淡々と告げる。
「ええ、承知いたしました。リチャードソン公爵家の弁護士と殿下の相談役を交え、詳細を詰めさせていただきましょう。では――私どもは、これにて失礼いたします」
そう言って踵を返す彼女の凛とした後ろ姿に、会場の視線が集中する。
社交界の慣例で言えば、婚約者同士が揉めた際には、どちらかが取り乱して場が混乱することが多い。しかし、今回ばかりは取り乱したのは王太子サイド。ヴァレリーは終始冷静で、しかも領地譲渡という確固たる手段を盾にしている。
結果、王太子とシエナは、数多くの貴族たちの前で「婚約破棄と領地譲渡を宣言した」という “歴史に残る醜態” をさらす形になった。
その日のうちに、噂は王都に広まる。
「王太子は庶民出身の聖女にうつつを抜かして公爵令嬢を捨てた」
「しかも違約金として領地を差し出すハメに」
「リチャードソン公爵家の勝利か? いや、むしろ王家がひとり相撲を取っただけでは?」
ヴァレリーは侍女らと共に屋敷へ戻った後、部屋にこもって書類の確認を始めた。感情を吐き出すでもなく、淡々と与えられた義務を遂行している。その姿は、まるで一瞬たりとも乱れがない。
侍女たちはそんな彼女の冷静さに驚きと尊敬の念を抱きつつも、どこか心配そうに見守っていた。
「お嬢様、本日は大変なお疲れだったでしょう。お休みになられた方が……」
「ありがとう。でも、私は大丈夫。むしろ、この先どのように行動を取るべきか、整理しておかなくてはなりません」
ヴァレリーは書類の山を机の上に広げながら応える。今回の婚約破棄に関する契約事項を明確にし、公爵家と王家それぞれの取り分や責任を定める必要がある。
貴族社会において婚約は重要な政治的取引だ。感情にまかせて行動しては痛手を負うのは自分たちである。だからこそ、彼女は冷静沈着であろうと努める。
とはいえ、まったく何も感じていないわけではない。長年の婚約者だったエドワード殿下に対して「愛情」があったかどうかは別として、彼がここまで愚かだとは想定外だった。
もし王妃として未来を共にするなら、彼を立てつつ国に貢献しようと考えていたのに、それはあまりにも儚い幻想だったのかもしれない――。
ヴァレリーは手を止め、窓の外に視線を落とす。夜の帳が降りかけた庭園は静かで、月光に照らされた花々が仄かに揺れていた。
一つだけはっきりしているのは、彼女のこれからの人生は、先ほどまで思い描いていた未来とは全く違う道に進むだろうということ。そして、その道には苦難や陰謀が待ち受けている予感もする。王太子の軽率な行動が、すんなりと済むはずがない。公爵家に矛先を向ける勢力も出てくるだろう。
ふと、ノックの音が聞こえ、扉の向こうから父であるリチャードソン公爵の声がした。
「ヴァレリー、少しよろしいか?」
「はい、お父様。お入りください」
部屋に入ってきた公爵は、白髪混じりの髪を短く整え、背筋をぴんと伸ばした威厳ある男性だ。しかし、彼の瞳には優しい光が宿っており、娘を大切に思う父親であることが窺える。
公爵はヴァレリーの机に並んでいる書類の山を見つめ、安堵したように微笑んだ。
「お前なら、しっかり対応してくれると思っていたが……やはり頼もしいな。今回の件、私も王宮と交渉しなければならん。領地の正式な譲渡手続きについては、当然ながら彼らもゴネる可能性がある。だが、契約は絶対だ」
「はい。その点は既に整理を始めています。万一、王家が言い逃れをしようとした場合でも、証拠はすべて揃っていますから」
ヴァレリーの返答に、公爵は感心したように頷く。
「お前がいてくれて助かるよ。……しかし、本当にすまないと思っている。私がもっとエドワード殿下の人となりを見極められていれば、こんな事態にはならなかった」
実は、ヴァレリーを王太子妃に推薦したのは公爵家の方でもある。国のため、そして公爵家の繁栄のためと考えた結果だったが、王太子がこれほど早急に“真実の愛”とやらに転んでしまうとは、想定していなかったのだ。
ヴァレリーは穏やかな口調で父を慰める。
「お父様、謝る必要はありません。私もこの婚約には義務感しかなかったのです。いずれにせよ、こうして早めに破棄されて良かったのかもしれません」
「……そうか。お前がそう言うのなら。だが、王太子派の貴族の中には、どうにかしてこの破棄をお前の落ち度に仕立て上げようとする者もいるかもしれない。特に、あの聖女シエナの周囲に集まる者たちは侮れん」
「承知しています。ですから、私は自分の名誉を守るために、事実を淡々と提示し、正統性を主張していくだけです」
公爵は深く頷いた後、まるで何か思いついたかのように言葉を付け加える。
「そうだ。お前には近いうち、私の知り合いの……カイル・ヴァレンタインという男に会ってもらいたい」
「カイル……ヴァレンタイン? 確か第二王子の護衛隊長を務める騎士団長だったでしょうか」
「うむ。彼はしばらく前から何かと王太子の周辺を探っていたらしくてな。今回の件に関しても何か思うところがあるようだ。詳しいことは私もまだ聞いていないが、一度話をしてみる価値はあるだろう」
ヴァレリーは父の言葉を頭の片隅に置きながら、淡々と返事をする。
「わかりました。お父様がそうおっしゃるのなら、一度お話いたします」
公爵はそれで満足したのか、静かに部屋を出て行った。
ヴァレリーはふと、小さく息をつく。部屋には、再び静寂が戻る。
エドワード殿下による突然の婚約破棄という衝撃的な出来事。だが、それに伴う手続きや社交界の対応を考えれば、ヴァレリーは気を抜く暇などない。
彼女は机に向かい直すと、再び書類の確認を始めた。公爵家の法務担当が下書きした文案を読み、必要があれば修正点を指示していく。王家との大きな契約を結ぶ以上、細部を怠れば後々の火種になりかねない。
その一方で、ヴァレリーの胸中には、うっすらとした不快感と虚無感が広がりつつあった。
――婚約破棄。
あまりにも突然で、しかも公衆の面前で。さらに相手は庶民出身の聖女。彼女が本当に聖女の力を持つのかはさておき、あの場での振る舞いを見る限り、とても王太子の伴侶として相応しいとは思えない。
それでもエドワード殿下は、シエナを深く愛しているのだろうか? それとも、一時の気まぐれに取り憑かれただけなのか?
「……それももう、私の知ったことではありません」
そう小さくつぶやいて、ヴァレリーは思考を振り払う。
重要なのは、公爵家を守り、自分の誇りを守ること。エドワード殿下がどれほど世間の物笑いになろうと、自業自得だ。かといって、彼と張り合って泥仕合をするほど、ヴァレリーは無粋ではない。
ただ、「代償はきっちり払ってもらう」――それだけである。
やがて夜も更け、書類整理の合間に軽く食事を済ませたヴァレリーは、いつもより少し遅い時間に就寝の支度を整えた。
寝台に身を横たえたとき、頭の中に浮かんできたのは、先ほど父が言っていた名前……カイル・ヴァレンタインのことだった。
第二王子の護衛隊長――つまり、王家の中枢にかなり近い位置にいる人物だ。噂によると、冷静沈着で実力も高く、騎士団内で絶対的な信頼を得ているという。
そんな男が、なぜ王太子の周辺を探っていたのか。まさか、今回の婚約破棄とも何か関係があるのだろうか?
ヴァレリーはゆっくりと瞼を閉じる。
もしも彼が、エドワード殿下やその取り巻きによって王国に損害が出ることを恐れ、独自の情報を収集しているのだとしたら――。
この先、彼女が新たな陰謀や波乱に巻き込まれていく予感は、決してただの空想では終わらないだろう。
ヴァレリーは深い眠りに落ちる直前、わずかに唇を噛む。
自分の未来はどうなるのか。もう王太子妃としての人生は断たれた。だが、それが不幸だとも思っていない。
裏切られたという悔しさよりも、むしろ彼女の中には「ここからいかに自分や公爵家を守り抜き、さらに成長していくか」という気概が湧いていた。
――翌朝、王都の社交界は王太子の「醜態」一色の話題で持ち切りになる。
「婚約破棄を急に宣言して、代わりに領地まで差し出した」
「しかも相手は庶民出身の“聖女”とかいう少女?」
「リチャードソン公爵令嬢は何も失わず、むしろ得をしたようだね」
当然、この噂を面白おかしく広めようとする輩も出てくる。とりわけ貴族たちは、王太子の愚行を酒の肴にせずにはいられないらしい。
ヴァレリーのもとには、「本当に婚約破棄されたのですか?」と確認する手紙や、「お気の毒ですが、ざまあないですね」という皮肉交じりの言葉が届いたりもした。
しかし、当のヴァレリーはどれにも動じず、あらかじめ用意した定型文で返事をするのみ。公爵令嬢としての威厳を失うようなことは一切せず、冷静に対処する様は、まさに「氷の令嬢」という呼び名に相応しかった。
かくして、ヴァレリー・リチャードソンは一夜にして「王太子に婚約破棄された公爵令嬢」となった。
だが、その背景をよく知る者たちは、むしろ彼女こそが優位に立っていると確信する。いずれ王太子とその庶民聖女が、社交界の格好の嘲笑の的になることは火を見るより明らかだ。
公爵令嬢としては、その嘲笑に巻き込まれるわけにはいかない。堂々と胸を張り、相手が払うべき代償を粛々と受け取り、その後の動きに備えるのみ。
――そして、ここから先の未来で、彼女が「契約結婚」をするという驚くべき出来事は、まだ誰も知らない。
このときは、ただただ、婚約破棄という言葉がもたらした衝撃に、人々は翻弄されるばかりだった。
しかし、ヴァレリーがあの日の夜、窓から見上げた月の光はひそかに告げていた。
この先、もっと大きな変化が待ち受けている。
しかも、その変化はヴァレリーひとりではなく、王宮全体、ひいては王国全土を巻き込み得るほどの出来事なのだ、と。
――だが、それはまだ先の章で描かれる物語。
ひとまず、ここに記されるは、あまりにも冷酷で、あまりにも軽薄な婚約破棄の一部始終である。