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第2話:氷の令嬢、契約結婚の提案を受ける





 婚約破棄が宣言された翌朝、リチャードソン公爵家にはいつにも増して慌ただしい空気が漂っていた。

 ヴァレリー・リチャードソンは、自室の窓から差し込む朝日を眺めながら、昨夜から一睡もしていないというのに目の下のクマひとつ見せることなく、いつも通り端正な姿でデスクに向かっている。机の上には、王家との間で取り交わした契約書の写しや、新たに作成した補足条文の案文、さらには公爵家の法務担当からのメモが散らばっていた。

 「思ったよりも、事は深刻になりそうね……」

 そんな思いを抱きつつ、ヴァレリーは机上の書類を一通り確認すると、小さくため息をつく。


 昨日、王太子エドワードは舞踏会の場で婚約破棄を言い渡し、その代わりに 「聖女シエナ」 との結婚を求めると大々的に宣言した。そのうえ、リチャードソン公爵家との正式な契約により、違約金として公爵家へ領地を譲渡することを、王太子自身が公衆の面前で明言してしまった。

 まさに歴史に残る醜態。今頃王太子を擁護する者など、ほとんど残っていないだろう。もっとも、エドワードは王太子という立場にあるがゆえに、一定数の取り巻きはまだいるはずだ。

 しかし、その取り巻きたちですら、リチャードソン公爵家を敵に回すリスクを避けたがるに違いない。何しろ、貴族社会の人間にとって “契約違反” は致命的な汚点だ。仮に王太子がゴネて領地譲渡を反故にしようとすれば、王家全体の信用は地に堕ちる。


 ヴァレリーは静かに席を立ち、部屋の鏡台へと歩を進める。その姿勢は優雅そのもので、深夜まで公的文書を整理していたとは思えないほど、背筋がすっと伸びている。

 鏡に映る自分の姿を見つめながら、何とも言えない感情が胸をよぎった。

 ――本来であれば、これから王太子妃としての生活が始まるはずだった。

 あの男が心変わりしなければ、王妃教育の一環として王宮に移り住み、公務にもより深く関わっていくことになっていたはず。


 だが、いまや状況は一転し、ヴァレリーは 「王太子に婚約破棄された公爵令嬢」 として注目の的だ。それも同情ではなく、ある種の “勝ち組” のように見られている点が興味深い――違約金として莫大な領地を得るからだ。

 もっとも、ヴァレリーからすれば、領地を得たところで痛快さや勝利感などは一切ない。エドワードがあまりにも軽率で、婚約者に対して侮辱的な行為を行った事実は消えない。

 とはいえ、公爵家としては、得るものはきっちり得なければならない。ヴァレリーもそれを承知している。


 ふと、鏡に映った自分の顔を見つめる。

 その表情は、いつにも増して冷たい。自分自身ですらそう思うほどの、氷の仮面。

 ――怒りや悲しみ、軽蔑を、私自身が封じ込めているだけ。

 王太子に対して抱く感情は、怒りというより呆れに近かったが、それでもどこかに切なさが残っているのは事実だった。


 「私だって、人間だから……」

 ぽつりとそう心中で呟いて、ヴァレリーはクスリと微笑む。

 王太子殿下への初恋など持ち合わせていなかったものの、彼女は女としての心が完全に枯れているわけではない。ただ、公爵家の令嬢としてあまりにも完璧さを求められすぎ、感情を表に出さないのが当たり前になっていただけだ。

 そんな自分が、これからどう生きていくのか――それを考えれば、多少の不安もある。だが、その不安を表情に出すことはない。


 「お嬢様、失礼いたします」

 控えめなノックの音とともに、侍女のクロエが部屋へ入ってくる。クロエはヴァレリーより少し年下で、幼少期からずっと彼女に仕えてきた。ヴァレリーが人前で表情を出さない分、クロエは感情をそのまま表す子犬のような性格だ。

 クロエは少し上ずった声で、興奮を抑えきれない様子を見せながら口を開く。


「お嬢様、大変です……というか、もうご存じかもしれませんが、今朝の新聞にも王太子殿下の件が――」


「ええ、もう読んだわ。朝食前に目を通しておいたから」


 ヴァレリーが淡々と応じると、クロエは 「やはり……」 という顔をする。

 地方の新聞までもが、昨日の舞踏会の一部始終を面白おかしく伝えている。

 「王太子、熱愛の庶民聖女のために公爵家へ領地譲渡を約束」

 「真実の愛か? それともただの愚行か?」

 どの新聞も、嘲笑と好奇の目を隠さない見出しばかりで、王家の立場が一気に危うくなるのではとさえ思わせる内容だった。


「それで、お父様のご様子は?」


 ヴァレリーの問いかけに、クロエはかしこまって返答する。


「はい、公爵様は早朝から執務室にこもって、王宮の使者や法務担当の方々と打ち合わせをなさっています。お嬢様を呼びに行くよう仰せつかったので……」


「わかったわ。すぐに行くと伝えてちょうだい」


 クロエは一礼すると、急ぎ足で部屋を出て行く。その足取りには、彼女が王宮関係者の来訪に相当な緊張を覚えている様子がうかがえた。

 一方のヴァレリーはといえば、少しも動揺を見せず、鏡台に残していた銀細工のブラシをゆっくりと置く。すでに髪は整えてあるため、メイドたちが整えてくれたシンプルなエメラルド色のドレスを軽く直しただけで、すぐに部屋を出た。


 廊下を歩く際も、彼女の歩調は乱れない。王都でも屈指の広さを誇る公爵家の屋敷にはいくつもの客間や応接室があるが、今回は政治的要件ということもあって、公爵の執務室が使われるようだ。

 扉の前にたどり着くと、侍者がヴァレリーを認め、静かに扉を開ける。


「お嬢様、どうぞお入りくださいませ」


 低く響く声に促され、ヴァレリーは部屋の中へと足を踏み入れた。

 そこには既に父であるリチャードソン公爵と、数名の顧問官や法務担当が集まっている。さらにその傍らには、金色の短い髪を持つ男性騎士が一人、立っていた。

 ――彼が、噂に聞くカイル・ヴァレンタインなのだろうか。


 ヴァレリーはちらりと視線を向ける。カイル・ヴァレンタインといえば、第二王子の護衛隊長を務める実力派の騎士だと聞いている。歳は二十代半ばと聞くが、その鍛えられた体躯と堂々たる雰囲気からくる威圧感は、ただ者ではないことを物語っていた。

 しかし、その目は不思議と穏やかで、冷酷さは感じない。むしろ、微笑みを湛えているようにも見える。


「ヴァレリー、よく来たな。今ちょうど、領地の譲渡について王宮からの使者と話をしていたところだ。あとでお前の意見も聞きたい」


 公爵がそう言って、ひとまずヴァレリーを隣の席へと座らせる。執務机の対面には、王宮の役人が数名座っており、彼らは落ち着かない様子で互いに視線を交わしていた。

 どうやら彼らも、昨日の醜態を受けて火消しに来たようだ。


「まず、領地譲渡の範囲についてですが……殿下のご意向としては、リチャードソン公爵家の要求をなるべく軽減していただきたい、とのことです。今回の婚約破棄は殿下の一方的なご都合とはいえ、すべてを鵜呑みにされては王家も立場が――」


 王宮の役人が恐る恐る口を開くと、公爵は鋭い視線を向けた。


「どういう意味かな? この場で、婚約破棄が王太子の一方的な都合だとご自身で認めるのかね。であれば、違約金が発生するのは当然だろう。実際に、あの場でもエドワード殿下は『領地を譲る』と明言していたではないか」


「そ、それは……。確かにそうなのですが、殿下には殿下のご事情があり――」


「ご事情……? 私が知る限り、殿下は『真実の愛を貫くために、婚約を破棄する』と仰っていた。感情の問題ならば、それこそ公的な契約違反として責任を負うのは当然。ましてや、先方から正式に提示した条件を飲むとおっしゃったのだから、いまさら覆すのは難しいのではないか」


 リチャードソン公爵は一切容赦のない口調で役人を追及していく。

 ヴァレリーは黙ってそのやり取りを聞いていたが、途中で役人の一人がこちらに視線を寄こしてきたことに気づく。どうやら、この場をやわらげようとしているのか、彼はヴァレリーに向けて言葉をかけた。


「リチャードソン令嬢……いえ、ヴァレリー様。もし差し支えなければ、寛大なお考えを示していただけないでしょうか。殿下といえども、こうした事態は予期せぬことだったのです。仮にも次期王として、あまりにも領地を失いすぎれば、国全体に波紋を呼ぶ恐れも――」


 しかし、ヴァレリーは穏やかな微笑みを浮かべると、ゆっくり首を振った。


「私の立場から言わせていただければ、これ以上の寛容さを示す必要があるのか疑問です。婚約者との契約を一方的に破棄するのは、王家とはいえ極めて無礼な行為。しかも、殿下ご自身が大勢の前で『領地を譲る』と宣言された。

 公爵家としては、その言葉に基づいて手続きを進めているだけにすぎません」


 まるで氷のような口調。

 ヴァレリーの冷徹ともいえる態度に、役人たちも言葉を失う。彼らとしては、なんとか譲歩を引き出したいのだろうが、ヴァレリー自身はもう少しも譲る気がないことが明白だ。

 ――こうして見ると、確かに「氷の令嬢」という呼び名は伊達ではない。


 そこに、カイル・ヴァレンタインが淡々とした様子で口を挟んだ。


「皆さん、焦っても仕方がありません。ここは一度、お互い頭を冷やして話し合うしかないでしょう。幸い、本日は時間がありますので、書類のひな形を再確認するとしてはいかがですか?」


 落ち着いた声音でありながら、どこか威厳を感じさせる。

 王宮の役人たちは、カイルが第二王子に仕える騎士団長であることを知っているためか、その提案に異を唱えず、しぶしぶ同意した。


「……わかりました。では、ひとまず現在の条文を再確認したうえで、午後から改めてご相談させていただくという形に」


 そう言って、役人たちは揃って席を立ち、早々に部屋を出ていく。

 自分たちが望むほどの譲歩は得られそうにないが、かといって強硬手段にも出られない――この数分で、彼らは完全に板挟みの状態に陥っているのが見て取れた。


 やがて扉が閉じられ、公爵は大きく息を吐く。


「まったく……王太子派もどこまで愚かなのか。とはいえ、あまりにも追い詰めすぎると、こちらにも何らかの不利益が及ぶ恐れがある。まだ油断はできないな」


 公爵が渋面を作ったまま唸るように言うと、ヴァレリーは落ち着き払った調子で応じる。


「お父様の仰るとおり、ぎりぎりまで駆け引きが続くでしょう。ですが、その間に私たちが不当な扱いをされることはないはずです。あちらは完全に分が悪いのですから」


「そうだな。……ところでカイル、わざわざ来てもらって済まなかったな。お前にも苦労をかける」


 公爵がそう言って目を向けた先には、先ほどから静かに事の成り行きを見守っていたカイル・ヴァレンタインがいる。彼は苦笑気味に肩をすくめた。


「いいえ、公爵様。私も今回の件は看過できません。第二王子殿下も、王太子殿下の軽率な行動を嘆いておられます。

 それに、このままでは国全体に悪影響が出る可能性がある。何より、王太子殿下が庶民出身の“聖女”とやらに振り回されている現状を放置すれば、国内外の信頼を損なうでしょう」


 淡々とした語り口ながら、その中に確固たる意志を感じる。

 ヴァレリーはカイルの横顔を初めて間近で見つめた。彫りの深い端正な顔立ちに、騎士らしい精悍さがある。金色の短髪の向こうに覗く瞳には、冷徹さよりも優れた洞察力と静かな熱意が宿っているように思えた。


 ――何より、彼はエドワード王太子ではなく、第二王子側の人物だ。

 巷の噂によれば、第二王子は王太子殿下と同母弟だが、性格は全く異なるらしい。国政にも積極的に関与し、慎重かつ誠実な人柄で知られている。カイルは、その護衛隊長として長く仕えてきた。


 公爵は席を立ち、書類をひとまとめにするとカイルに向き直る。


「昼に再度の話し合いがあるが、その前に一度休憩を入れるとしよう。午前中からずっと机にかじりついていては疲れも溜まる。ヴァレリー、お前とカイルで少し屋敷の庭でも散歩してきたらどうだ? きっと気分転換になる」


「……お父様? 私がカイル殿と?」


 唐突な提案に、ヴァレリーは目を瞬かせる。

 彼女の知る父は、この手の“気遣い”をするタイプではない。ましてや、ヴァレリーが異性と二人きりになるよう誘導するなど考えにくいことだ。何か意図があるのだろうか――。


「ハハ、深い意味はないさ。私もすぐに執務に戻らなければならん。ここは一つ、カイルの見識を借りるというのはどうだ? 今後の王宮との交渉や、王国内の情勢について、彼に直接聞いてみたいこともあるだろう」


 その言葉に、カイルは苦笑を浮かべながら小さく頷いた。


「公爵様がお望みならば、喜んでお付き合いしますよ。リチャードソン令嬢とも、ぜひお話ししてみたいと思っておりましたので」


 ヴァレリーは内心で小さく首をかしげるが、表には出さずに席を立つ。そして、「わかりました。では、お言葉に甘えて」という形で、二人で執務室を出ることになった。


 執務室を出て長い廊下を歩き、階段を下りていく間も、ヴァレリーとカイルの間に会話はほとんどなかった。

 ヴァレリーとしても、どのタイミングで何を話せばいいか判断しかねていたし、カイルはカイルで、先ほどまでの交渉を冷静に振り返っているように見える。


 やがて屋敷の一階にある裏口から出ると、広大な庭園が広がっていた。リチャードソン家の庭は王都きっての美しさとも評されており、季節の花が常に絶えることなく咲き誇っている。

 今日も日差しは柔らかく、風に乗って甘い花の香りが漂ってきた。


「……改めまして、リチャードソン令嬢とお話しするのは初めてですね。私はカイル・ヴァレンタイン。第二王子殿下に仕えている騎士団長です」


「はい、存じ上げております。ヴァレリー・リチャードソンです。改めて名乗るまでもないかもしれませんが……」


 ヴァレリーは歩みを止め、軽く一礼する。

 カイルはそれを見て、少しだけ微笑んだ。


「なるほど、噂に聞く“氷の令嬢”というのはこういうことか……」


「……私が氷のようだと?」


 思わず眉をひそめるヴァレリーに、カイルはすぐに両手を上げて誤解を解くように弁明した。


「いや、悪い意味じゃありません。あれほど非常識な仕打ちを受けたというのに、まったく取り乱す気配もなく、冷静に対処した。その胆力と誇り高さを、敬意を込めて表現するなら“氷”という言葉がしっくりくるかと思いまして」


 カイルの声には、確かに揶揄するような響きはなく、むしろ敬意がこもっている。

 ヴァレリーは目を伏せ、穏やかに答える。


「……そうですか。ならば構いません。でも、私がそう振る舞わなければならなかったのは、公爵家の責任を背負っていたから。個人的な感情を優先させて醜態をさらすわけにはいきません」


「それはわかります。ですが、普通ならばあんな形で婚約を破棄されたら、怒りを露わにしてもおかしくない。俺が同じ立場なら、王太子殿下の胸ぐらを掴んでいるかもしれません」


 カイルは肩をすくめて苦笑した。

 ヴァレリーも一瞬、その光景を想像してしまい、わずかに口元が緩む。


「いずれにせよ、あの男――王太子殿下の行動は軽率が過ぎました。私は、この先どうなるか正直わかりませんが、せめて公爵家を守るため、できることをするだけです」


「そこがあなたのすごいところだと思います。……さて、単刀直入に言ってよろしいでしょうか?」


 カイルが歩みを止め、ヴァレリーのほうをまっすぐに見つめた。その瞳には、先ほど執務室で見た冷静さとはまた違った強い意志が宿っている。

 ヴァレリーは胸の奥でざわめきを感じながらも、いつものように平然と相手の視線を受け止めた。


「単刀直入に、とは?」


「実は俺、リチャードソン令嬢――いえ、ヴァレリーさんに協力したいと考えています。王太子殿下の暴走を放置しておけば、国が混乱するのは目に見えている。あなたのご家族や周囲の人々にも危害が及ぶかもしれない。俺はそれを防ぎたいんです」


 その言葉に、ヴァレリーの眉がわずかに動く。

 “協力”とは具体的にどういう意味を指しているのか。カイルは続ける。


「あなたはすでに、領地譲渡の件で王家と交渉を進めているが、あの王太子派が黙っているとは思えない。裏から手を回して、あなたを貶める策を弄するかもしれない。

 ――そこで、俺には一つの提案があるんです」


「提案……?」


「ええ。もしもの話として、俺とあなたが“契約結婚”をするというのは、いかがでしょうか?」


 その瞬間、ヴァレリーの呼吸が止まりかけた。

 契約結婚――。それは、表向きは夫婦であっても、互いの利益や利害のために行う形式的な結婚形態を指す。貴族社会では珍しくないが、さすがに公爵令嬢が、しかも婚約破棄直後に他家の人間と結婚するなど、普通ならあり得ない話だ。


「……冗談はおやめください。私にとっては、つい先日まで王太子の婚約者だったという事実もあります。そんな簡単に、別の男性と――」


「もちろん、これはあくまで打診です。あなたの立場からすれば、唐突すぎるでしょう。ですが、今後もし王太子派からの嫌がらせや陰謀が激しくなった場合、あなたは一人では対処しきれない可能性もある。公爵家が王太子派と真っ向から対立し続ければ、国政全体に波紋を広げかねない。

 しかし、もしあなたが俺と結婚すれば、少なくとも第二王子派の後ろ盾が得られる。それは、この先の大きな保険になると考えませんか?」


 カイルの口調はあくまで淡々としており、ヴァレリーを口説いているような甘い雰囲気は微塵も感じられない。あくまで政治的、もしくは戦略的な提案――それがよく伝わる。

 ヴァレリーは一瞬思考を巡らせる。確かに、彼の言うとおり、今後リチャードソン家が王太子派と完全に敵対し続けるのは、国全体の情勢を揺るがす可能性がある。一方、第二王子と公爵家が手を結べば、王家の内紛をある程度抑制できる余地も出てくるだろう。


「……しかし、そのような理由での結婚は、世間からどう見られるでしょうか。私は王太子に婚約破棄された直後。貴方は第二王子に仕える騎士団長。あまりにも露骨に見えるのでは?」


「ええ。露骨と思われるかもしれない。実際、口さがない貴族連中は噂をするでしょう。『捨てられた公爵令嬢が次なる権力者に取り入った』とか、『騎士団長が名門公爵家の地位を狙った』などと」


 それに対する批判や揶揄はきっと絶えないだろう。それでもカイルは、苦笑しつつもはっきりと言った。


「ですが、あなたと俺がそれを割り切った“契約結婚”だと公言してしまえばいい。それならば、世間も逆に納得する。もちろん、契約の内容は二人だけの秘密にしておきますが……少なくとも、“形だけの結婚”という認識を広めれば、王太子派も下手に絡みにくくなるはずです」


 ヴァレリーは静かに息をついた。契約結婚という言葉が、まるで氷の刃のように胸に突き刺さる――感情を置き去りにした、合理的な提案。

 しかし、その合理性は確かに無視できない。表向き夫婦という形をとることで、ヴァレリーは強力な後ろ盾を得る。実質的には公爵家と第二王子派が同盟を結ぶようなものだ。国全体の混乱を抑えるうえでも、有効な策になるかもしれない。


 とはいえ、悩みは尽きない。

 「もう男性との結婚というものが、こんなにも政治的な取引にしか感じられないのか……」

 そう思うと、自分の人生がどこまでも冷たく、孤独なものに思えてくる。


 少しの沈黙の後、カイルは続ける。


「すぐに答えを出す必要はありません。俺としては、あなたが望むならいつでも結婚手続きに応じる覚悟があるということだけ、今日はお伝えしたかった。

 ――ちなみに、あなた個人の心情には配慮するつもりです。夫婦とは名ばかりで、無理に関係を深めるようなことはしません。お互いに大人ですし、割り切った形で協力できるなら、それが一番ではないでしょうか」


 どこまでも冷静で、かつ誠実な印象を受ける。

 ヴァレリーはほんの少しだけ目を伏せ、やわらかい声で応じた。


「ありがとうございます。提案については、ありがたく検討させていただきます。ただ……私も少し、気持ちの整理が必要です」


「もちろんです。無理強いするつもりはありません。むしろ、こういった話はあなたのご家族――公爵様などともじっくり相談したうえで決めていただくのがいいでしょう。俺はいつでも、あなたのお力になります」


 カイルはそう言って、一礼を示すように頭を下げた。その姿は騎士としての礼節をわきまえており、同時に一人の男としてヴァレリーを尊重しているように見えた。


 ヴァレリーは返礼をしながらも、心のどこかで微かな安堵を覚える。先ほどまで感じていた“政治的な道具”にされる不快感が、彼の誠実な態度によって多少は和らいだのだろう。

 しかし、同時に、まだ戸惑いはぬぐえない。


 ――エドワードとの婚約が破談になり、これからの人生がどうなるかわからない矢先に、また新たな結婚話。

 しかも、今度はきっと「愛のない契約結婚」だ。公爵令嬢として生まれた宿命なのだろうが、ヴァレリーの胸中にはわずかな痛みが走った。


 そのまま二人はしばらく庭園を歩いた。かすかな花の香りを感じながら、政治的な話ではない些細な会話を交わす。

 カイルの口からは、第二王子の人柄や、騎士団での日々の訓練の話などが語られた。ヴァレリーもまた、公爵家の普段の様子や、趣味である花の栽培について少し語った。

 互いに警戒心を解いたわけではないが、それでも先ほどより自然な空気が流れている。契約結婚の話はひとまず脇に置き、純粋に散策を楽しむかのように見える。


 やがて、敷地の奥へと続く小道に差し掛かったところで、カイルがふと足を止めた。


「ここからは少し森の方に続いているんですね。立ち入り禁止ではありませんか?」


「いえ、裏手にちょっとした林がありますが、基本的にはどなたでも入れるようになっております。あまり利用者はいませんが、散歩道にはなっていますよ」


 ヴァレリーがそう答えると、カイルは興味深げにその道を見つめる。


「いいですね。公爵家の庭園は広大だとは聞いていましたが、こんな自然の森まであるとは。さすがはリチャードソン家……」


 そのとき、遠くから使用人の声が聞こえてきた。「お嬢様――、カイル様――」と呼びかけながら、庭を走ってきている。どうやら、公爵が再度呼んでいるらしい。

 カイルはそちらの方向をちらりと見やってから、ヴァレリーに向き直った。


「どうやら、戻らなければいけないようですね」


「そうみたいですね。……今日はお話を聞かせてくださって、ありがとうございました。提案については、また改めて」


「ええ、いつでもどうぞ。あなたのお返事をお待ちしております」


 そう言い終えると、二人は揃って庭の出口へと向かう。

 胸の奥で、ヴァレリーは複雑な思いを抱いていた。これほど早く、次の結婚の可能性が浮上するとは――しかも、契約結婚という冷徹な関係。

 ただ、不思議とカイルに対する不快感はない。それどころか、彼の態度には紳士的な誠実さを感じる。それがヴァレリーの心をわずかに揺さぶるのだ。


 ――一方、リチャードソン公爵家の執務室では、早くも王宮の役人たちが戻ってきて再度の交渉が始まっている。

 午後の話し合いは、王太子派の面子を保とうとする者と、公爵家側の譲歩をなるべく引き出そうとする者が入り乱れ、収拾がつかないほど混乱を極めた。

 それでも、公爵はヴァレリーや顧問官、法務担当らと共に粘り強く交渉を続ける。カイルも随所で助言を入れ、王太子派がいかに不利な状況かを冷静に示した。


 やがて夕刻が近づく頃、王宮側は本日の結論を持ち帰り、再度王太子殿下に伺いを立てると言い残して退散していった。

 その背中から漂う疲労感は相当なもので、彼らも今回の破断がどれほど大ごとなのかを痛感しているようだった。


 部屋に残った公爵たちは、さすがに疲れの色を隠せない。

 ヴァレリーもまた、立ち振る舞いに乱れは見せないが、長時間の交渉で心身にかなりの負担を感じていた。

 だが、今日のところは勝利に近い形で終わったといっていい。王太子派にこちらが譲歩する理由は皆無だし、あちらはこれ以上事を荒立てるわけにもいかない。


「ヴァレリー、よく頑張ってくれたな。お前が冷静に反論してくれたおかげで、相手も簡単にはごまかせないと悟っただろう」


 公爵がそう言って娘に労いの言葉をかける。ヴァレリーは静かに微笑んで一礼した。


「お父様こそ、一日中お疲れのところありがとうございました。これで一旦、領地譲渡の大筋は決まったようなものですね」


「うむ。細部の金額や範囲はまだ詰める必要があるが、あちらが主張できる要素はもはや少ない。……さて、問題は今後、王太子側がどんな報復をしてくるか、だな。やつらは体面を気にするあまり、下手な策略を仕掛けてくるかもしれない」


 その言葉に、カイルが頷く。


「そうですね。俺も王宮の動向を探り、怪しい動きがあればすぐにお知らせします。……ところで公爵様、先ほどヴァレリーさんと少し話をさせていただきました」


 カイルが意を決したように切り出すと、公爵は何かを察したのか、ゆるやかな笑みを浮かべた。


「ほう、早速あの話をしたか。ヴァレリー、どうだ? カイルの提案を聞いてみて」


 ヴァレリーは、父の表情を見て合点がいく。やはり、父は初めからカイルにこの話をさせようと思っていたのだ。

 それくらい、おそらく公爵家にとってもこの“契約結婚”は魅力的な策なのだろう。王太子派が追い詰められたときの保険になるだけでなく、第二王子の好印象を得ることもできる。


「……正直なところ、あまりに唐突です。私は昨日まで王太子の婚約者でしたし、さすがに“すぐ次の結婚”というのは気が引けます」


 ヴァレリーがそう言うと、公爵は柔らかく微笑んだ。


「いや、もちろん急がせるつもりはない。だが、この先お前に危険が及ぶ可能性もある。王太子派からの陰湿な嫌がらせや、聖女シエナが何かしらの工作をするかもしれない。

 そのとき、公爵家だけで対処するのは難しい場面もある。だがカイルがいてくれれば、いざというときにも心強い。少なくとも、あの第二王子がバックについているというだけで、敵は迂闊に手を出せなくなるからな」


 公爵の言葉には、まるで契約結婚を後押ししているというよりも、娘の身を案じている父の気持ちがにじみ出ている。

 ヴァレリーは迷いながらも、最後にはため息まじりに小さく頷いた。


「わかりました。少し時間をください。私としても、賢明な判断をしたいと思います」


「それでいい。カイル、お前もあまり焦らずにな」


「承知しました、公爵様。……ヴァレリーさん、あなたの決断をお待ちします」


 こうして、“契約結婚”という言葉が現実味を帯び始める。

 ヴァレリーはその夜、自室に戻ってからもカイルとの会話を思い返していた。彼の落ち着いた瞳の奥には、王国を憂慮し、公爵家を思いやる誠実さが確かにあった。

 しかし、それと同時に、彼が「恋愛感情」を持っているようには見えなかった。あくまで打算的な提案――もっと言えば、「相互利益のための契約」 ということだ。

 それを彼自身も否定しない。だが、不思議と不快感はなかった。王太子のように軽薄な態度で振り回すのではなく、最初から「契約」と割り切っている分、信頼できるのかもしれない。


 ――それでも。

 ヴァレリーの中にはほんの少しだけ、「このまま私は誰とも“本当の愛”を得られないのだろうか」という諦念のようなものが広がっている。

 そんな思いを抱きつつも、彼女は夜が更けるまで書類の確認を続け、疲れ切ったところでようやくベッドに身体を横たえた。


 翌日。

 昨日の交渉を踏まえて、王宮から新たな通達が届いたという知らせが入る。王太子殿下は一部の領地譲渡を渋りつつも、公爵家が提示する条件を大枠では呑む姿勢を見せているらしい。

 ただし、“聖女シエナ”やその取り巻きの貴族たちが密かに何かを画策しているという噂もあり、予断は許さない。

 そんな折、公爵からヴァレリーに、「数日後に開かれる王宮の晩餐会に出席してほしい」という要請が下る。もともと予定されていた公務的な催しだが、王太子派がどんな行動を取るか油断できない場でもある。

 そこへ、カイルも第二王子の側近として出席する予定だという情報が入った。ヴァレリーとしては、すでに“契約結婚”の話が頭を離れず、どう振る舞うべきか思案を巡らせる毎日が続く。


 果たして、この先の晩餐会で、王太子とシエナはどのような出方を見せるのか。そして、ヴァレリーとカイルは、本当に形だけの契約を結ぶことになるのか――。

 ヴァレリーは自分の未来への不安を抱きながらも、氷の仮面を崩さぬまま、ただ毅然と歩みを進めていく。


 ――こうして、突然の婚約破棄から始まった波乱は、さらに大きな渦へと発展しようとしていた。

 王太子の軽率な行動が呼び起こした王宮の混乱は、やがて聖女シエナを巡る疑惑や、第二王子派との暗闘をも引き寄せる。

 冷徹で知られる公爵令嬢は、いったいどのような結末にたどり着くのか。

 今はまだ、彼女も答えを持たない。けれど、胸に抱く決意だけは一つ。

 ――公爵家と自分の誇りを絶対に汚させはしない。


 その決意が、やがて“白い結婚”とも言える契約結婚を選び取る大きな一歩となるかもしれない。あるいは、それが“本物の愛”に転じる可能性もないとは言い切れない。

 どちらの未来へ進むにしても、ヴァレリー・リチャードソンという凛とした女性は、周囲に翻弄されながらも決して膝を屈しないだろう。

 その姿こそが、貴族たちの間で「氷の令嬢」と呼ばれながらも、多くの者たちに一目置かれる理由なのだから――。



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