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第3話 :氷の令嬢、王宮の晩餐会で微笑む

 リチャードソン公爵家と王太子派の交渉が二転三転し、やがて数日が経過した。

 ヴァレリー・リチャードソンが王太子エドワードに婚約破棄を言い渡されてからというもの、王都ラクリスでは「王太子の醜態」についての噂が絶えず、貴族たちの宴席や社交の場では暇さえあればその話題が挙がる。

 とはいえ、王太子は王家の血筋を引く一国の次期君主候補。あまり露骨に嘲笑すると、自分に火の粉が降りかかる危険もあるため、大半の貴族たちは面と向かっては王太子を非難しない。

 代わりに、最近は 「聖女シエナ」 への陰口や揶揄が増えてきた。

 庶民出身ながら奇跡の力を持つと称され、王太子の愛を一身に受けているというが、その“奇跡”は未だに曖昧なまま。何やらほかの国の民間宗教から借りてきたような怪しげな儀式を行う、という噂も囁かれていた。


 そんな中、第二王子派の人々――騎士団長カイル・ヴァレンタインや、政務を補佐する貴族たち――は独自に調査を進めているらしい。

 しかし、まだ明確な証拠や告発に繋がるような成果は上がっていない。聖女シエナを取り巻く集団がどういう資金源で動いているのか、あるいは海外の宗教勢力が絡んでいるのか――噂ばかりが先行して、はっきりしたことはわからないのだ。


 そうした不穏な空気の中、王宮では予定通り 「定例晩餐会」 が催されることになった。

 もともとは外交使節を迎えるための会で、王太子と第二王子が共に列席し、諸外国との友好をアピールするのが慣例となっている。しかし、今回に限ってはすでに荒れ模様の予感が漂っていた。

 噂好きの貴族たちがこぞって「王太子と聖女シエナは何か新しい“奇跡”を披露する気ではないか」などと囁いているからだ。


 「バカ騒ぎになる前に、私も一応、参加しておくべきね……」

 ヴァレリーは自室で身支度を整えながら、そう小さく呟く。

 ドレスは寒色系の淡いブルーを基調とした上品なもの。裾には銀糸で花模様があしらわれ、光の加減で繊細に輝く。氷の令嬢と呼ばれる彼女に、これほどよく似合う色合いはないだろう。

 髪は緩やかにアップにまとめ、飾りすぎない程度にパールの髪飾りを差し込む。それだけで、彼女の美貌はより際立った。


 婚約破棄された女性が派手に着飾るのは憚られる――などという風潮が一部であるにはある。

 だが、ヴァレリーはそんなことは気にも留めない。公爵家の令嬢として、そして自分自身の誇りとして、常に完璧な装いを保つのは当然の務めなのだ。

 ましてや、噂によれば王太子とシエナは彼女を嘲るような言動を各所で繰り返しているという。ここで萎縮してなるものか、とヴァレリーはむしろ毅然とした態度を見せようとしていた。


 リチャードソン公爵家の屋敷を出るとき、父である公爵が玄関先まで見送ってくれる。最近、公爵は王宮との交渉や来客対応に追われていて顔を合わせる時間が少なくなっていたが、娘を心配する気持ちは常にあるようで、今日はわざわざ見送りに来たのだ。


「ヴァレリー、あまり無理をするな。エドワード殿下が何を言おうと気に病むことはない。それと……カイルが君の護衛に付くと言っていたから、何かあれば彼に声をかけるといい」


「はい、お父様。お気遣い痛み入ります」


 ヴァレリーは微かに笑んで、馬車に乗り込む。

 カイル・ヴァレンタイン――第二王子の護衛隊長であり、最近はリチャードソン家と王太子派の交渉にも度々立ち会ってくれている人物。

 公爵の了解を得て、彼は「いつでも協力する」と言ってくれている。もちろん、例の“契約結婚”の話も彼の頭にはあるはずだ。

 まだ正式に返事はしていないが、ヴァレリーは少なくとも、カイルが信用に足る人物だと感じ始めていた。


 馬車が王宮へ向かう途中、ヴァレリーは窓の外を眺める。

 王都の街並みは華やかだが、ここ数日はやや浮足立った空気も漂っていた。王太子の婚約破棄騒動や怪しげな聖女の噂は、庶民たちの耳にも届いているらしい。

 実際、街角では「聖女さまの奇跡で病気が治るらしい」「いや、あの人は偽物だ」という言い争いをしている姿が見かけられるとか。


 やがて、馬車が王宮の正門に差し掛かる。いつも通り、威厳ある衛兵たちが並んでいたが、その奥の広場には既に多くの貴族や使節たちの馬車が停められていた。

 晩餐会は夜に開かれるが、賓客たちは夕方前には続々と到着し、控えの間などで時間を過ごす。ヴァレリーも受付を済ませてから、案内役の侍者に従って王宮内の広間を目指した。


 途中で、思いがけずカイルと出会った。彼は礼装用の騎士服を着ており、普段の鎧姿とはまた違った凛々しさがある。

 廊下で見つけたヴァレリーを認めると、すぐに近づいてきて微笑んだ。


「お待ちしていました、ヴァレリーさん。馬車での道中、お変わりありませんでしたか?」


「ええ、問題ありません。それより……きょうは第二王子殿下の護衛ですか?」


「はい。殿下もいずれこの場にいらっしゃいます。もっとも、公の晩餐会ですし、王太子殿下が主催側のような形を取るので、殿下はあくまで脇役という立ち位置ですが」


 苦笑気味に肩をすくめるカイルを見て、ヴァレリーは軽く息をついた。

 どうやら第二王子は、王太子の出番を邪魔しないようにとの配慮から、一歩下がった立ち位置を保つらしい。だが、今の王太子を見ていると、その忠義が報われるのか疑問に思えてくるほどだ。


「では私も、先に控え室で待つことにします。あまり早く会場入りして王太子殿下と顔を合わせるのも面倒ですから」


「そうですね……。俺はここで殿下をお迎えする予定ですが、何かあったら遠慮なく呼んでください。あと、もし王太子殿下があなたに失礼な言動をしたら、すぐに俺に知らせてください。なるべく衝突を避けるために働きますので」


 その穏やかな口調に、ヴァレリーは微かに笑みを返す。

 わずかな時間ではあるが、こうしてカイルと会話を交わすうちに、彼の誠実な人柄を再確認する。その落ち着いた雰囲気は、まるで激しい嵐の海に浮かぶ灯台のように感じられた。

 別れ際にお互い小さく会釈を交わし、ヴァレリーは侍女の案内で控え室へと向かう。


 控え室に通されると、そこには数名の貴族令嬢たちが既に待機していた。だが、その顔ぶれを見た瞬間、ヴァレリーは一瞬だけ眉を寄せる。

 ――そこに、聖女シエナがいるのだ。

 いつも通り、純白のドレスを身にまとい、髪には花の髪飾りをあしらっている。表面上は慈愛に満ちた笑顔を浮かべているが、その瞳にはどこか挑発的な光が混じっている。


「あら、リチャードソン令嬢。ご機嫌いかがですか?」


 シエナはわざわざ立ち上がり、ヴァレリーの方へ近づいてくる。その動作はさも優雅に見せようとしているのかもしれないが、微妙に洗練されておらず、かえって不自然な印象を与える。

 周囲の令嬢たちも気づいているのか、苦笑いを浮かべたり微妙に視線を逸らしたりしている。


「ええ、特に変わりはありません。シエナ様こそ、王太子殿下と幸せにお過ごしのようですね」


 ヴァレリーが当たり障りのない言葉を返すと、シエナはわざとらしく頬を染めてうつむいた。


「はい……。エドワード様とは、毎日が夢のようです。彼は私にとって運命の方。リチャードソン令嬢には申し訳ないのですけれど、やはり神のご意思には逆らえないというか……」


 それを聞いた令嬢たちが顔を見合わせる。明らかに嫌味である。しかしヴァレリーは表情ひとつ変えない。


「まあ、神がどうこうは存じ上げませんが、運命なら仕方ないですね。王太子殿下が自ら選んだのであれば、私はそれを阻むつもりはありませんよ」


「ふふ、そう仰っていただけると助かります。……そういえば、最近いろいろと悪い噂が飛び交っていますけれど、ご自分のことを気に病んだりはしていないのですか?」


 ――悪い噂。

 おそらく、シエナが言及しているのは「ヴァレリーが婚約破棄の腹いせに、王太子派を陥れようとしている」などというデマであろう。実際には王太子側から一方的に契約を破棄した事実があるのに、勝手な憶測で噂を広める連中がいるらしい。

 ヴァレリーは少し息をついて、涼やかな笑みを浮かべた。


「何か噂があるなら、どうぞご自由に。私には関係のない話です。公爵家の名誉は確固たるものですし、そもそも王太子殿下のほうが私との契約を破棄したわけですから」


「あら……そうですわね。確かに“契約”という意味では、そうなのかもしれません」


 まるで揚げ足を取るような言い方に、周囲の令嬢たちは一層居心地の悪そうな表情になる。明らかにこれはヴァレリーを挑発している。

 しかし、ヴァレリーはまったく動じない。むしろ、冷たい微笑を湛えたまま、相手の口数を増やすほうが得策だと悟っていた。


「それより、あなたと殿下が今晩、何か“特別なこと”を披露すると聞いていますが?」


「あら、そうなんです。実は……皆さんの前で、ほんの少しだけ奇跡の儀式をお見せしようかと考えております。わたくし、神の啓示を受けておりますので……」


 シエナはそう言って、周囲に聞こえるようわざとらしく声を張る。その場にいた令嬢たちが興味深そうに振り返るが、どこか冷めた視線も混じっている。

 奇跡の儀式――とは言っても、いままでシエナが行ってきた“奇跡”とやらは、どれもこれも胡散臭いものばかりだ。以前、王宮の広場で“聖水”を配った際には、単なる水道水だったとバレて騒ぎになったと聞くし、病人を治したという話も具体的な証拠は出ていない。


 にもかかわらず、王太子エドワードは彼女に心酔しており、反対する者には「愛を理解できない」と罵る有様らしい。

 ヴァレリーは心の中で呆れつつも、淡々と応じる。


「そう。では私も楽しみにしておりますね。どうか皆様に神の恵みをお授けくださいますように」


「はい……。必ずや奇跡をお見せしますわ。……うふふ」


 シエナは気味の悪い笑みを浮かべて、そそくさと部屋を出て行った。どうやら、王太子エドワードのもとに向かうらしい。

 彼女が去ったあと、残された令嬢たちが一斉に安堵の息をつく。


「リチャードソン令嬢、さすがのご対応ですね……。私たち、あの聖女様の前ではどうにも気まずくて……」


「ええ、少しでも不用意な言葉を口にすれば、噂を広められるかもしれませんし。あの人、王太子殿下が全力で庇っていますから……」


 皆、畏怖と嫌悪が入り混じったような表情を見せる。

 ヴァレリーは軽く首を振り、静かに言う。


「お気になさらず。私も婚約破棄直後に同じ部屋にいるのは気まずいですし……。晩餐会が始まれば、いずれ嫌でも顔を合わせることになるでしょう。それまではごゆっくりなさってくださいね」


 そう伝え、ヴァレリーもまた一旦部屋を辞した。彼女は誰かと無為に会話するよりも、自分なりに気持ちを落ち着けておきたかった。

 この晩餐会、何かが起こる――そんな予感がする。シエナの“奇跡の儀式”が一体どんな内容なのかは不明だが、王太子が横で応援している以上、ろくでもないパフォーマンスに終わる可能性が高い。


 それから数時間後。

 夜の帳が降り始めた頃、いよいよ王宮の大広間で晩餐会が開かれる。ヨーロピアン風の豪奢なシャンデリアが天井にいくつも吊るされ、床は鏡のように磨き上げられている。壁際には高級家具が並び、歴代の王や女王の肖像画が厳かに飾られていた。

 国内外の賓客、そして貴族たちが次々と入場し、オーケストラの演奏が始まるころには、会場は華やかな喧騒に包まれていた。


 王太子エドワードは、いつもの軍服風の正装を身にまとい、胸を張って壇上に立つ。隣にはシエナが控え、まるでアイドルのように手を振っている。

 ヴァレリーは会場の端のほうに控え、できるだけ目立たないようにしていたが、周囲の人々がやたらと彼女に視線を送ってくるのを感じる。

 ――「あれが噂の公爵令嬢か……」

 そんな声が聞こえてくるかのようだ。だが、それも仕方ない。いまや王太子に捨てられた被害者として、あるいは違約金をせしめた公爵家として、彼女は何かと注目されているのだ。


 やがて、エドワードが魔道具を手に、声を張り上げる。


「皆様、本日はこのようにお集まりいただき、ありがとうございます。ささやかではありますが、我々が用意した晩餐をご堪能いただきながら、盛大に親睦を深めていただければ幸いです」


 会場から拍手が起こる。

 続けて彼は、傍らにいるシエナへ手を差し出した。彼女はにこやかに応え、その手を握る。


「そして本日は、特別な儀式を用意しております。私の最愛の聖女シエナが、皆様に神の恵みをもたらすべく、ここで奇跡を披露してくださるのです!」


 どよめきが起こる。ざわつく会場の中で、ヴァレリーは眉をひそめた。

 「やはり、何かパフォーマンスをする気なのね……」


 シエナは胸の前で手を合わせ、まるで祈りを捧げるような格好をとる。彼女が合図すると、従者らしき人物が壇上に祭壇のようなものを運んできた。どうやら、そこに聖水を満たした杯が用意されているらしい。


「皆さま……どうか、お静かに……。いまより、神の御業をご覧にいれましょう……」


 オーケストラが一旦演奏を止め、会場は張り詰めた空気に包まれる。

 王太子は「さあ、見守って」とばかりに意気揚々とシエナの肩を支えている。


 シエナは目を閉じ、やがて低い声で何か呪文めいた言葉をつぶやき始めた。会場の照明が微かに揺れるように見えるが、これは演出なのか、単なる偶然か――傍目には区別がつかない。

 次の瞬間、彼女は大きく両腕を広げ、声高に叫ぶ。


「これが……神の力ですわッ!」


 その瞬間、ぱぁん、という音がして、壇上の祭壇に置かれていた杯から水しぶきが飛び散った。会場の前列にいた貴族たちが思わずのけぞる。

 驚きの声が上がるが、すぐに誰かが小さく呟いた。


「……ただの水じゃないか?」


 そう。杯から飛び散った液体は、どう見ても普通の水だ。これまでの“奇跡”でも似たような演出があったが、結局それ以上の変化は起こらない。

 だが、シエナはめげずに両手をかざし、杯を凝視している。すると、どうしたことか、水面が淡い光を帯び始めた……ように見えた。


「おお……光っている……?」


 最前列の一部の者たちが目を凝らす。だが、その光はまるで蜃気楼のように揺らめき、すぐに消えてしまった。

 会場には微妙な空気が流れる。「これが奇跡なのか……?」 という困惑まじりの疑問が立ち込め、拍手も起こらない。


 エドワードはあわてて咳払いし、フォローするように声を張り上げた。


「シエナの力はまだ不完全で……その、今日は皆さまにお見せするために急ぎ準備をしたのです。もう少し待てば、きっともっとはっきりとした奇跡が……」


 しかし、その言葉を裏切るように、祭壇上の杯はまた派手な音を立てて水を撒き散らすだけ。前列の人々はびしょ濡れになりそうで、慌てて後退している。

 シエナ自身も戸惑いを隠せず、杯を持ち上げようとするが、なぜか重いのか、手が滑るのか、上手く扱えない。


「えっ……な、なんで……? 私が神から授かった聖水のはずなのに……?」


 周囲はどんどん白けた雰囲気になっていく。

 やがて、焦ったシエナが無理に杯を傾けようとした瞬間――ずるり、と手が滑ったのか、杯が丸ごと祭壇の下に落ちてしまった。


「きゃああっ!」


 甲高い悲鳴を上げるシエナ。彼女の白いドレスの裾にも水がかかり、濡れそぼった布がみっともなく足に張り付いている。慌ててエドワードが支えようとするが、床が濡れているせいで彼も足を滑らせ、二人まとめて転びそうになった。

 この光景に、会場の貴族たちは凍りついたように沈黙……かと思いきや、一部では思わず吹き出す笑い声が押しとどめられず、プスッ……という小さな失笑が連鎖的に広がっていく。


「……聖水が……床に……」

「というか、これただの水でしょう? もしかして少し香料でも入ってる?」

「せっかくの晩餐会でこんな茶番を……」


 ヒソヒソと囁く声。

 エドワードとシエナの顔がみるみる赤く染まっていく。シエナは泣きそうな表情でうつむき、エドワードも周囲の視線を感じて唇を噛んでいる。


「くっ……。な、何を笑っているんだ……! 神の奇跡をバカにするな!」


 エドワードは声を張り上げるが、どこか空回りしている。

 王太子という立場を恐れて口をつぐむ者もいるが、完全に収拾がつかない。高位貴族の中には露骨に鼻で笑う者すらいて、この惨状をどう片付ければいいのか誰もわからないのだ。


 すると、ここで第二王子が控えていた席から静かに立ち上がり、短く拍手を打った。続いて、第二王子の護衛隊長を務めるカイル・ヴァレンタインが、背筋を伸ばして壇に歩み寄る。

 カイルは丁重に礼を取りながら、観客側にも聞こえる声で発言を始めた。


「本日は素晴らしいお集まりの場を設けていただき、ありがとうございます。王太子殿下とシエナ様のご厚意、皆さまもご理解されていることと思います。ですが、お二人ともまだ奇跡の発現に慣れていないご様子。無理は禁物かと」


 絶妙なトーン。批判するでもなく、しかしこの状況をうやむやにもしない。カイルの言葉に、会場の空気が少しだけ和らぐ。

 カイルは壇に上がったあと、祭壇に倒れ込んだ杯をそっと拾い上げる。その中身はもうほとんど残っていない。


「せっかくの晩餐会です。ここはお二人が準備した儀式の続きよりも、まずはお客様方へのおもてなしに注力されてはいかがでしょう。奇跡はきっと、また別の機会に……ね?」


 最後の「ね?」は、シエナに向けた呼びかけだった。カイルはあくまで優しく、丁寧に彼女を気遣うように言う。

 シエナは涙目でうなずき、エドワードも「……あ、ああ……」と力なく同意するしかなかった。


 場は何とか収まった形になったものの、そこかしこから押し殺した笑い声や呆れたため息が漏れている。

 “聖女の奇跡” どころか、惨めな茶番劇。王太子エドワードとシエナは揃ってびしょ濡れの姿を晒し、晩餐会の面目は丸つぶれだ。

 遠巻きに見ていたヴァレリーは、胸の奥でささやかな満足感を覚えた。

 ――「これで、あの二人の馬鹿げた行動が少しは恥となって広まるでしょうね」


 ただ、彼女は公爵令嬢として、あからさまな嘲笑を浮かべるほど野暮ではない。表向きは興味なさげにワイングラスを傾け、関心を示さない振る舞いを通す。

 しかし、周囲の貴族たちから見ると、その冷やかな態度こそが何よりの “ざまぁ” に映った。


 「王太子、自分から婚約破棄したのに、この有様か……」

 「あのリチャードソン令嬢が感情を露わにしないのが、むしろ怖いくらい」


 そんな声がちらほら聞こえてくる。

 エドワードとシエナはすごすごと壇上を後にし、侍者たちに連れられて退場していった。おそらく着替えでもするのだろうが、一度晒した醜態はもう取り繕いようがない。


 こうして晩餐会は、奇妙な幕開けを迎えたものの、これ以上の大きな乱れは起きなかった。オーケストラが改めて演奏を始め、給仕たちが料理を運び、客たちは社交上の会話を交わしてそれなりに楽しんだ。

 だが、エドワードもシエナも、再びメイン会場に戻ってくることはなかった。


 晩餐会も終盤に差し掛かった頃、ヴァレリーはワイングラスを置いて、テラスへ出る。

 夜風が心地よく、庭園の照明が淡く揺らめいている。会場のざわめきから少し離れて、ほっと一息つきたい心境だった。

 すると、そっと扉が開き、カイルが姿を見せる。彼はヴァレリーを一目見て、小さく会釈した。


「お疲れさまです、ヴァレリーさん。……少し休憩されますか?」


「そうですね。さすがに今の騒ぎの後では、気が休まらなくて」


 ヴァレリーが微笑むと、カイルも柔和な表情を返す。

 先ほど、彼が壇上で機転を利かせて収拾を図ったことで、晩餐会は一応形を保った。貴族たちの間でも、「さすが第二王子の護衛隊長。落ち着いている」「あの男は信頼に足る」という評価が高まっているようだ。


 ヴァレリーはテラスの手すりに軽く手を添えながら、夜空を仰ぐ。星々が瞬き、月が静かに光を投げかけている。

 そして、ぽつりと呟いた。


「……王太子殿下とシエナ様、今の姿を見たら、社交界では完全に笑いものですね」


「ええ。あれでは、どんなに言い訳しても無駄でしょう。今夜の茶番劇は明日には王都中に広まります。もはや、聖女の権威も危うい……」


 カイルの言葉には同情よりも呆れの方が強いようだった。

 そして、彼はヴァレリーを横目で見て、少しだけ声を落とす。


「しかし、あのまま放置していれば、もっと大きな混乱を招いたかもしれない。シエナはともかく、王太子殿下はまだ実質的な次期王位継承者ですから……。この国を混乱させないためにも、どこかで止めてあげなければならないのですが、当人たちにその自覚はなさそうですね」


「本当に……。いったい、いつ気づくのかしら。結局自分たちがやっていることは、国の恥を晒しているだけだというのに」


 ヴァレリーは目を伏せる。先ほどまでは、ざまぁという感情が少しあったのも事実だが、それを通り越して、今は虚しさに近い思いが広がっていた。

 同じ王家でありながら、第二王子はしっかりと国の未来を見据えているというのに、長兄である王太子は浮ついた愛に狂って失態を重ねるばかり。これでは、いつか本当に王国が傾きかねない。


 一瞬の沈黙の後、カイルが意を決したように声をかける。


「……ヴァレリーさん。実は、晩餐会が終わった後、あなたに少しお時間をいただきたいと思っていたんです」


「私に……?」


「はい。これまでに話した契約結婚の件について、ぜひ正式に検討の答えを伺えればと思います。もちろん、今すぐ結婚するかどうかではなく、あくまで契約をどう結ぶかという打ち合わせですが……」


 そう言われ、ヴァレリーの胸がわずかに騒ぐ。

 “契約結婚”――王太子派からの嫌がらせや陰謀をかわすため、そして第二王子派が王国を維持するうえでリチャードソン家の力を得るため。政治的に見れば、双方に大きなメリットがある。

 しかし、そこに“愛”はない。いや、あったとしても、それは現時点では全く未知数だ。


 それでも、ヴァレリーはカイルの提案を拒絶する気になれない。彼の誠実さと騎士としての矜持を感じるたびに、彼女の心はわずかに――ほんのわずかにだけれど――暖かくなる。それは、王太子殿下との婚約時代には一度も感じたことのない感情だ。


「……わかりました。晩餐会が正式にお開きになったら、少し時間を取りましょう」


「ありがとうございます。では、会場が落ち着いた頃合いを見て、またお声掛けしますね」


 カイルはそれだけ言うと、再び丁寧に一礼して去っていった。きっと、第二王子の下へ戻るのだろう。護衛としての任務がある以上、そう長くは席を外せないのだ。

 ヴァレリーは一人、テラスの夜風に当たりながら、しばし物思いに耽る。

 ざまぁ感に満ちた王太子の大失態――確かに胸がすくような部分もあるのだが、その先の王国の行方を思うと、手放しでは喜べない自分がいる。


 「でも、私が守るべきは国というより、公爵家の名誉……そして私自身の誇り。王太子の暴走を止めるためにも、カイルとの契約結婚は一つの手段になるのかもしれない」


 氷の令嬢と呼ばれるヴァレリーは、その瞳を夜空へ向ける。

 薄暗い空の彼方に、月が雲に隠れかけていた。何か不安を感じさせる光景だが、雲が過ぎればまた月は顔を出す。

 「私の人生も、そんなふうに――今は曇りかもしれないけれど、そのうち晴れるのだろうか」

 まだ見えない未来を思い描きながら、ヴァレリーはゆっくりと踵を返し、テラスを後にする。


 晩餐会は結局、王太子不在のまま“お開き”となった。

 多くの貴族たちが帰りの馬車へ向かう中、ヴァレリーはカイルとこっそり落ち合う約束を果たすべく、王宮の一角へ向かう。

 そこは王族の私室エリアに近い小広間で、晩餐会のメイン会場から少し離れており、今は人通りが少ない。遠巻きに侍女や下働きの者が行き交っているが、こちらを気にしてはいない。


 カイルは先に来ていたようで、壁にもたれかかるように立っている。ヴァレリーの姿を認めると、彼はすぐに背筋を伸ばし、にこりと微笑んだ。


「お疲れ様でした。……お帰りの前にお時間を頂戴して、ありがとうございます」


「いえ、私も話をするタイミングを探していましたから」


 ヴァレリーは相手の顔をじっと見る。騎士服姿のカイルは端正で、その瞳にはどこか穏やかな光が宿っている。

 以前に比べ、彼が少しだけ身近に思える――そんな感覚が胸をかすめる。


「それで、契約結婚の件ですが……」


 彼女が言葉を切り出すと、カイルは真摯な表情で頷く。


「はい。前にもお話ししたとおり、これはあくまで“形式的な結婚”です。公爵家と第二王子派の連携強化、そしてあなたを王太子派の陰謀から守るためのもの。

 ただ、先ほどの晩餐会で改めて思いましたが、あの王太子殿下と聖女シエナの暴走は止まりそうにありません。彼らがこれ以上、あなたに嫌がらせを仕掛けてくる可能性は十分にあります。

 ――そこで、今すぐでなくとも、近い将来、あなたが“俺の妻”として立つ覚悟があるかどうかを伺いたいんです」


 まっすぐな視線。その言葉に嘘や裏は感じられない。

 ヴァレリーは数秒の沈黙の後、小さく息をついて応じる。


「……もし私がイエスと答えたら、その結婚はどのように進める予定ですか? たとえば、祝宴を盛大に開くのか、それとも極秘裏に簡素に済ませるのか。具体的な条件や規約はどうなるのか――まだ何もわかりません」


「そうですね。まずはお互いの家同士で正式に話し合いましょう。あなたのお父様にも了承をいただく必要があるし、第二王子殿下の了解も不可欠です。

 そのうえで、世間には“急ぎの結婚”ということにして、あまり大袈裟な式は避けたい。公的には『お互いに支え合うために結婚した』という名目で通します。

 もちろん、あなたが望むなら、最低限の祝宴は用意しますよ。それはリチャードソン公爵家の体面もあるでしょうからね」


 ヴァレリーは目を閉じ、考えを巡らせる。

 ――王太子との婚約破棄後、こんなにも早く新たな結婚に踏み切るのは世間の好奇の的になるだろう。だが、今回のような晩餐会で王太子が恥を晒すたびに、必ずヴァレリーへ風評が飛び火する可能性もある。

 「公爵令嬢が裏で糸を引いた」「嫉妬に狂って聖女を貶めようとしている」――そうした悪意ある噂が広まる前に、第二王子派との同盟関係を強固なものにしておくのは得策だ。


 それに、何よりカイルは信頼できる。仮にこの契約結婚がずっと形だけのもので終わったとしても、彼との関係なら円満に維持できそうだという感覚がある。

 こう思えるのは、ヴァレリーにとって大きな安心材料だった。


「……わかりました。私は、あなたの提案を受け入れます。いずれ正式に結婚という形を取ることを前提に、“契約”を結びましょう」


 決断の言葉を口にしたとき、ヴァレリーの心に不思議な安堵が広がった。

 それは、遠い昔――何もかもが義務と見なしていた王太子との婚約時代には感じたことのない、確かな“安全地帯”を見つけたような気持ちだった。


「ありがとう、ヴァレリーさん。……俺も、あなたと共に歩むことができて嬉しく思います」


 カイルはそう言って、騎士の礼を示すように片膝をつきかけた。だが、ヴァレリーが「そんな大げさなことはやめて」と目で制したため、すぐに立ち上がる。

 彼女は微笑みを浮かべ、静かに言った。


「これからは、お互いに協力する仲です。余計な礼儀はかえって気疲れしますし……。私はあなたを信頼しますから」


「わかりました。では、今後は騎士としてというより、同じ立場で手を携えていきましょう」


 そうして、二人は軽い握手を交わした。

 それは、政治的同盟の証でもあり、彼ら自身の生き方を確かに変えていく一歩となる瞬間だった。


 その夜、ヴァレリーは公爵家に戻り、さっそく父親に「カイルと契約結婚を進めたい」と打ち明けた。公爵はすでにカイルから内々に話を聞いていたようで、驚くこともなく穏やかに受け止める。

 ただし、公として正式発表するには、まだ手順がいる。結納や結婚式の日程、王太子派をこれ以上刺激しないための配慮など――やるべきことは山積みだ。

 それでも、公爵は「お前がそう決めたのなら構わん」と、娘を安心させるように微笑んでくれた。


 ――そして、何よりも重要なのは、王太子エドワードとシエナが今後どう動くか。

 今回の晩餐会で大恥をかいたからといって、二人が大人しくなるとは思えない。むしろ、プライドを傷つけられたエドワードが逆恨みを募らせて、リチャードソン家や第二王子派を貶める策を巡らせる可能性が高い。

 しかし、ヴァレリーとカイルの“結婚”が公になれば、第二王子派が本格的に公爵家をバックアップする大義名分が生まれる。王太子派が下手な手出しをすれば、逆に王宮内での立場を失うだけだろう。


 ――とはいえ、愚かな者ほど、相手を出し抜こうと強引な手を使うものだ。

 シエナがどのような正体を持つのか。彼女の背後で暗躍する勢力があるのか。今夜の茶番劇では、その片鱗すら掴めなかった。

 この国にはまだ多くの謎と危機が潜んでいる。王太子派の転落は始まりに過ぎない、と直感する者もいる。


 ヴァレリーは寝室で夜着に着替え、窓辺に座って外の景色をぼんやりと眺めた。

 王宮の方角には、いくつもの光がまだ残っている。晩餐会の後片付けや、賓客たちの送迎、さらには夜勤の衛兵たちが行き来しているのだろう。

 ふと、カイルの言葉が脳裏に蘇る。


「あなたと共に歩むことができて嬉しく思います」


 まるで誓いの言葉のようだった。

 今はまだ“契約”というドライな言葉で表されているが、その裏にあるのは何なのだろう。少なくともヴァレリーは、王太子との政略婚に感じていた虚しさや苛立ちとはまるで違う感覚を抱いている。


「……私たちの結婚は“白い結婚”かもしれない。でも、いつかそれが本物になる可能性は、ゼロではないのかもしれない」


 そう思ったとき、ヴァレリーの唇に自然と微笑みがこぼれた。

 自分でも驚くほど穏やかな気持ち。それは、おそらく 初めて感じる“優しい期待” のようなものだった。


 王太子とシエナの馬鹿騒ぎが明るみに出れば出るほど、彼らの立場は脆くなる。一方で、ヴァレリーはカイルという盟友を得て、公爵家や第二王子派と手を携える土台を築いていく。

 この国の行く末はまだ予断を許さないが、少なくともヴァレリーには新たな道が開けようとしていた。

 氷の令嬢と呼ばれた彼女の瞳に、ほんのわずかに暖かな光が宿る。


 ――そして、夜が更ける。

 窓の外に広がる星々は、まるでヴァレリーの未来を祝福するように、ひときわ輝きを増しているように見えた。


 果たして、次に王太子とシエナが画策するのは何か。カイルが追い求める真実とは何か。

 ヴァレリーがカイルと結ぶ契約が、どのような波紋を呼び起こすのか――。

 その答えは、まだ霧の中。だが、確かなことがひとつだけある。


 ヴァレリーはもう、誰かの勝手な都合で運命を振り回される存在ではない。

 どれほど陰謀が渦巻こうとも、彼女が見つめる先には、王太子ではなく、真摯な想いを秘めた騎士が寄り添っているのだから。



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