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第4話 :偽りの聖女、そして真実の結婚

 王太子エドワードと“聖女”シエナが惨めな失態を晒した晩餐会から、一週間。

 あの日の一件は瞬く間に王都中へ広まり、各地で噂が絶えなかった。元々、シエナの奇跡を疑う声は少なくなかったが、今回の茶番劇によりほとんどの人々が「やはり偽物ではないか」と感じ始めている。

 それどころか、晩餐会に出席した外国の使節団までが首をかしげ、帰国後に「この国の王太子は奇妙な聖女に心酔し、すでに正気を失っているのではないか」という報告を上げるとの噂まで立つ始末。

 当然、王宮の重鎮たちは焦りを隠せず、王太子派の貴族たちも次々に距離を置き始めていた。だが、当のエドワードは、そんな周囲の冷ややかな反応に気づきながらも頑なに耳を貸そうとしない。


 「シエナは本物の聖女だ! ただ奇跡の発現に時間がかかっているだけだ! いつか必ず、この国を救う偉業を成し遂げるんだ!」

 そう公言し、王宮内で異様なまでの擁護を続けている。

 一方、シエナ自身も、「私は神の声を聞きました」とか「悪しき者が私を妨害しているのです」というような陳腐な弁解を繰り返し、いつまで経っても明確な奇跡を示すことができないでいた。


 そんな中、リチャードソン公爵家には幾度も来客が訪れていた。

 ――いや、正確には「王太子派の使者」が、公爵家との和解を図ろうと裏取引を持ち掛けに来ては、すべて門前払いを食らっている、というのが実情だ。

 すでに婚約破棄は成立しており、王家としては公的な契約違反による領地譲渡の話を今さら覆すことはできない。リチャードソン家にこれ以上ゴネられては困ると考え、少しでも懐柔しようとしているわけだが、ヴァレリーも公爵も一歩も譲る気はなかった。


 さらに、最近になって第二王子派との協力関係を強化する動きが目立つ。

 とりわけ、第二王子の護衛隊長を務めるカイル・ヴァレンタインが、しばしば公爵家を訪れ、公的にも私的にも連絡を取り合うようになった。その様子を見て、王都の貴族たちは噂している。

 ――「どうやら、リチャードソン令嬢は王太子ではなく、第二王子側に『乗り換えた』らしい」

 ――「あのカイル・ヴァレンタインと契約結婚をするのでは?」


 当人たちはまだ正式に発表はしていないが、既成事実のように広まっている感がある。

 王太子派にとっては痛恨の極みだったろう。あの晩餐会で晒した醜態ゆえに、王太子エドワードが社交界で“笑い者”の烙印を押される一方、ヴァレリーは「王太子など見切って、もっと堅実な縁を得た公爵令嬢」として、むしろ評価を高めつつあるのだから。


 ――そして、ある日の午後。

 リチャードソン公爵家の一室で、ヴァレリーとカイルが向き合って座っていた。

 机の上には数通の書類が整然と並び、どこか公務的な雰囲気が漂っている。隣には公爵家の法務担当も控えており、これから二人の「契約」について最終的な詰めを行う段階だ。


「……大筋では先日取り決めた通りですね。結婚の形式としては、当面は“内々の契約”扱いにし、公爵家と第二王子派の共同戦線を敷く。一方、必要に応じて表向きの結婚発表も行う、という二段構え」


 ヴァレリーが確認すると、カイルは深く頷いた。


「はい。それならば、王太子派が妙な手を打とうとしたとき、すぐにあなたを守る大義名分が得られます。第二王子殿下も、すでに“もしもの場合は公爵家とヴァレンタインを全面的に支援する”と約束してくださいました」


 第二王子にしてみれば、醜態続きの王太子が王位を継ぐのは危うい、という考えがあるのだろう。実際、今の王はご高齢で、いつ急変してもおかしくない状況だ。その後継者問題について、国中が戦々恐々としているのが現状だった。

 ――そこで、ヴァレリーたちが契約結婚を通じて第二王子派に与するなら、王太子との権力争いが起こったとき、強力な支援材料となるわけだ。


「法的な拘束力はどのように想定していますか?」


 隣の法務担当が控えめに尋ねると、カイルは即答する。


「基本的には貴族間の婚姻契約書を作成し、しかるべき機関に届け出る形を取ります。ただ、内容はあくまで“相互の利益と保護を目的とする”という文言を中心にまとめてください。恋愛感情や子孫に関する条項は極力伏せておいて結構です」


 ヴァレリーは小さく微笑んだ。

 ――これこそが、“白い結婚”に他ならない。公表する際も「お互いを助け合うため」などと説明するだけで、深い情愛や愛情に基づくものとは言わないつもりだ。

 しかし、ヴァレリー自身は薄々感じている。実際にカイルと接するうち、どこか心が安らぐような――単なる契約には収まらない心境が芽生え始めている、と。


 一通りの書類を確認し終えると、法務担当はそれらを抱えて席を立つ。


「では、公証の手続きが済み次第、両家にご報告いたします。お二人とも、もうしばらくお待ちください」


 そう言い残して部屋を出て行った。

 部屋にはヴァレリーとカイルの二人だけが残される。まだ夕方には早い時間帯で、窓の外からは淡い陽光が差し込んでいた。


 カイルは一息ついて、ヴァレリーのほうへ向き直る。


「これで、大枠は整いましたね。あとは正式な届出を出せば、あなたと俺は“形だけの夫婦”になる。……変な言い方ですが、改めてよろしくお願いします」


 ヴァレリーはわずかに苦笑して、しとやかに会釈する。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします。もっとも、“形だけ”という言葉をそのまま受け止めるわけにはいきませんけれど」


「……というと?」


「私もあなたも貴族社会で生きる人間。そう簡単に割り切れないこともたくさんあるでしょう? 公爵家の体面もそうですが、あなたの立場だって、“ただの契約相手”というわけにはいかないかもしれません」


 その言葉に、カイルは深く頷いた。


「ええ、確かにそうですね。少なくとも、公の場ではあなたを“妻”として大切に扱う必要があります。王太子派の連中に揚げ足を取られるわけにはいかない。……とはいえ、プライベートで無理に夫婦らしく振る舞う必要はありません。そこはあなたの意思を尊重します」


「わかっています。でも、いざというときには頼らせてくださいね。私もあなたを守るために全力を尽くすつもりですから」


 ヴァレリーの落ち着いた声に、カイルは「もちろん」と微笑む。

 二人の間に流れる空気は、どこか穏やかな安堵と、それに混ざる微かな緊張感を孕んでいた。


 その夕刻、二人はそろって第二王子のもとへ出向き、今後の展望について話し合う。

 第二王子はまだ若いが、理知的で誠実な人物だという評判通り、二人を温かく迎え入れた。


「なるほど、正式に婚姻の手続きを進めるわけだね。僕としても、先日の晩餐会以降、王太子派がますます浮足立っているのが不安だったんだ。カイル、そしてリチャードソン令嬢……もはや“ヴァレリー殿”とお呼びした方がいいかな? 君たちが手を携えてくれるなら心強いよ」


 第二王子の端正な顔立ちが柔和な笑みにほころぶ。この王子は実兄であるエドワードとは正反対で、決して軽々しい言動をとらず、常に周囲をよく見ている印象がある。

 ヴァレリーは深く礼をして答えた。


「私も公爵家の人間として、王国が混乱するのは望んでおりません。どうか、微力ながらお力になれればと」


 すると、第二王子は意味深な表情で付け加える。


「実は、聖女シエナに関して、少し気になる報告があるんだ。彼女を後押ししている集団が、どうやら王国内の新興宗教だけではなく、他国からの支援も受けているらしい。――もっとはっきり言えば“異教勢力”だね」


 その言葉に、カイルの瞳が鋭く光った。


「やはり、裏がありましたか。以前から怪しげな噂が絶えなかったんですよ。海外の宗教団体と密かに手を結んでいるのではないかと。つまり、シエナを担ぎ上げてこの国を混乱させ、内側から乗っ取ろうとしている可能性があるというわけですね」


「そういうことだ。王太子はすっかり彼女に惑わされているから、利用されやすい。もし何らかのクーデター計画でも進んでいたら、王家全体にも大きな被害が及ぶし、国民に多大な混乱をもたらす。

 ――なんとか止めたいんだが、エドワードはまったく取り合ってくれない。となると、カイル、お前たちが独自に動いて証拠を掴むしかない」


 第二王子の声には焦りが滲んでいる。

 ヴァレリーは王家の内情に口を挟む立場ではないが、今回ばかりは自分も黙っていられないと感じる。

 ――なぜなら、シエナは婚約破棄のトラブルを引き起こした当事者であり、もし外国勢力の手先なら、これまでの王太子との騒ぎも国を揺るがす布石の一部だった可能性があるからだ。


「もしよろしければ、公爵家としても情報収集に協力いたしましょう。私も、いまさら王太子殿下との再対立は避けたいですが、こうも状況が深刻化しているなら放置できませんから」


 ヴァレリーがそう提案すると、第二王子はほっとしたように笑みを浮かべる。


「ありがとう。公爵家が味方にいると心強い。カイル、お前も改めてよろしく頼むよ」


 カイルはもちろんと頷く。

 こうして、第二王子派――すなわちカイルとヴァレリーを中心とする陣営は、本格的にシエナの真の目的を探る方針を固めた。



---


偽りの聖女を暴け:王宮の陰謀


 それから数日後。

 王太子派は、あろうことか「聖女シエナの奇跡を再び実証する」と称して、大規模な儀式を王宮広場で行うと発表した。先日の晩餐会での失敗を挽回するため、今度こそ“確固たる奇跡”を人々に見せるつもりなのだろう。

 しかも、内容はこれまでよりも派手で怪しげ。具体的には、大勢の民衆を招いてシエナが祈祷を行い、その場で病人を癒し、天候を操る――などという途方もない話が公表されている。


 当然、貴族の間では「いったい何を企んでいるのか」と疑問視され、そこに外国勢力の影がちらついているという噂もさらに広まった。

 第二王子派は、この大規模な儀式が“侵略”や“クーデターの準備”に繋がる可能性すら懸念し、緊張を高めていた。


 その警戒態勢の中心にいるのが、護衛隊長のカイルであり、協力者となったヴァレリーたち公爵家の人間だ。

 ある日の夜、二人は秘密裏に密会し、情報を交換していた。場所は公爵家の一室。周囲には厳重な警戒が敷かれ、決して王太子派の密偵に聞かれることのないよう配慮されている。


「……やはり、王都の各地で妙な動きがあります。普段は見かけない集団が大量に王都入りして、シエナの“儀式”を手伝うと言い張っている。彼らの素性はほとんど不明です」


 カイルの報告に、ヴァレリーは険しい表情を浮かべた。


「もし彼らが外国からの送り込まれた工作員だとしたら? 儀式の場で何か扇動を行い、民衆を混乱させる企みかもしれない……。とにかく、王太子殿下は一度燃え上がると聞く耳を持たないタイプですから、このままだと危険ですね」


「ええ。そこで、第二王子殿下は儀式当日に護衛隊を強化し、不測の事態に備えることにしています。公爵家としても、万一に備えて人員を回していただけると助かります」


「わかりました。うちの私兵と協力関係にある貴族たちにも声をかけておきます」


 二人の間に迷いはない。どんな陰謀が渦巻いていても、ここで止めなくては国全体が大変なことになる。

 そして、もう一つ――二人は口には出さないが、もしこの場で“偽りの聖女”であるシエナの正体を暴くことができれば、王太子派が完全に失墜する。ヴァレリーにとっては決定的な“ざまぁ”になるだろうし、国政を安定させるためにも有益だ。


 ――こうして、ついに運命の日が訪れる。



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破滅の儀式:シエナの最期


 当日、王都ラクリスの中央広場には、朝から続々と人が集まり始めていた。

 「聖女シエナの奇跡が見られる」という触れ込みで庶民たちの好奇心を煽り、さらに王太子派の取り巻きが「今日こそ神の力が証明される」と叫んでいる。

 一方で、第二王子派の護衛隊や公爵家の私兵が周囲の警備を固め、万一の混乱に備えていた。


 やがて昼過ぎになると、王太子エドワードとシエナが姿を現す。大勢の従者や取り巻きを従え、特設された壇上へと上がっていく。

 王太子は、これまでになく高揚した表情を浮かべていた。まるで、自分がこの国の絶対的支配者にでもなったかのように振る舞い、民衆に向かって誇らしげに手を振る。

 しかし、その姿を遠巻きに見ている貴族や騎士たちの多くは呆れ返り、あるいは冷ややかな怒りを瞳に宿していた。


「エドワード様、もうすぐですわ。今日こそ私の奇跡が、この国を浄化します」


 シエナは白いドレスに身を包み、胸には謎めいた紋章を描いたペンダントを下げている。通常の宗教ではあまり見かけない模様だが、「これこそ私が崇める神の象徴」と彼女は自称している。

 実際にどんな宗教なのか、詳しく知る者は少ない。だが、外国の怪しい宗派のシンボルに酷似していると疑う声もある。


 広場に張り詰めた空気の中、シエナが壇上で大きく両腕を広げ、朗々と宣言を始める。


「お集まりの皆さま……いまより私が執り行う儀式によって、神の恵みが降り注ぎ、病める者は癒やされ、邪悪な者は裁かれるでしょう。どうか、私の言葉を信じ、心を開いてお受けください……」


 その言葉に、最前列の庶民たちがざわめく。あちらこちらで小声が飛び交い、「本当にそんなことができるのか?」と訝しむ者、「聖女様、お願いします!」と熱心に祈る者も混ざっていた。

 後方の貴族たちや兵士たちは無言で見つめているが、その多くは懐疑的だ。


 シエナは目を閉じ、ゆっくりと両手を組み合わせる。まるで祈祷のポーズ。

 隣に立つ王太子は誇らしげにシエナを見守り、「さあ、奇跡を起こすのだ……」と囁いている。


 すると――まるで打ち合わせたかのように、周囲にいた“怪しい集団”が声を張り上げ始めた。

 「聖女よ!」「神の力を示したまえ!」

 そして、彼らは一斉に何やら歌のような呪文のような言葉を連呼し出す。異国めいたメロディが耳障りに響き渡り、その場の空気はますます不気味なものに変化していく。


 ヴァレリーは警戒しながら、壇上を遠巻きに見つめていた。カイルがすぐそばに立ち、周囲の護衛隊にも指示を飛ばしている。


「気をつけろ。もしあの集団が暴動を起こせば、間違いなく混乱が広がる。壇上には王太子殿下もいるし、最悪の場合、命の危険もある」


「わかっています。私も人員を広場の出口付近に配置しておきました。万が一、群衆がパニックになっても逃げ道を確保できるはず」


 二人のやり取りが終わらないうち、突然、シエナの周囲に奇妙な風が吹き始めた。彼女の長い髪と白いドレスがはためき、まるで“神秘的な力”が集中しているかのように見える――

 しかし、カイルの部下が小声で叫んだ。


「隊長! あれは魔道具を使った風です! あの取り巻きがコッソリと回している手筒型の送風器具を確認しました!」


「やはりな……ただの演出か」


 カイルが忌々しそうに歯を噛む。庶民にはわからないかもしれないが、彼ら騎士や魔道士の訓練を受けている者の目には、ただの“偽装”にしか見えない。

 それでも、王太子は「神の風だ!」などと声を張り上げ、芝居に加担している。


 さらに、その取り巻きの集団の中から、何人かが「病人」を装った人間を壇上へ連れ出す。彼らは大袈裟に咳き込み、苦しそうに呻いているが、その芝居がかりすぎた様子は明らか。

 シエナは「私が癒やしてあげます……」と悠然と言い放ち、手をかざす。すると、例によって怪しげな呪文が唱えられ、同時に取り巻きが何かの仕掛けを発動させたのだろう。むせび泣いていた“病人”たちがぴたりと止み、「治った……!」と感涙に咽んで見せる。


 もはや茶番にもほどがある。だが、多くの庶民は遠目にしか見えず、「本当に治ったのかも?」と疑いきれないでいる者もいるようだ。

 そんな中、第二王子派の一人が意を決して壇上に近づき、王太子殿下に直談判を試みる。


「殿下! これは明らかにおかしい! シエナ様の取り巻きが、風や治癒の演出に仕掛けを使っているのを確認しました。どうか、儀式を一時中断されるように……」


 しかし、エドワードは振り返りもしない。


「黙れ! シエナの奇跡を汚すな。貴様らは何もわかっていない。これは神の力だ!」


 完全に狂信の域。

 第二王子派の使者は苦い顔をして後退し、カイルに合図を送る。


「隊長、あれではもう話になりません。いっそ強制的に儀式を止めるか……」


 カイルは周囲の騎士に目配せしながら、ヴァレリーに低い声で尋ねる。


「ヴァレリー、君はどう思う? ここで止めなければ、更なる混乱が広がるかもしれない」


「ええ、私もそう思います。でも、今強引に止めたら、民衆がどう反応するか……。かえってパニックになる可能性もあります」


 そう、下手に踏み込めば庶民たちが「聖女を妨害する悪人が来た」と勘違いして暴動を起こすリスクが高い。

 周囲の貴族や兵士たちも躊躇している。シエナの取り巻きがそれなりに戦闘訓練を積んでいる可能性すらあり、下手に衝突すれば血の雨が降りかねない。


 ――すると、そのとき、不意にシエナが壇上で高らかに声を上げた。


「神よ、いまこそこの国を浄化するため、悪しき者を罰してくださいますよう……っ!」


 ドレスの袖口から、怪しげな黒い短杖が覗いていた。彼女はそれを両手で握り、明らかに魔術的な力を発生させようとしている。

 その黒杖には、見るからに禍々しい紋様が刻まれていて、正統な神殿や教会で用いられる聖具とは程遠い。むしろ、闇の魔術に近い道具と言っていい。


「カイル! あれは……明らかに危険です!」


 ヴァレリーが声を荒らげる。

 カイルもすぐに気づき、周囲に警告を発しつつ、壇上へと駆け上がろうとした。


「シエナ、貴様何を……!」


 しかし、カイルが到着するよりも早く、杖が妖しく光り始める。

 黒い霧のようなものが杖の先端に凝縮し、まるで何かを解放するかのように弾けた――すると、壇上にあった大きな飾り柱が突如ガタガタと揺れ、そこから崩れ落ちるようにして転倒し始めたのだ。


「危ないっ!」


 立ちすくむ庶民たちに向かって、カイルが鋭く叫ぶ。兵士たちが急いで人々を避難させるが、一部は逃げ遅れそうになる。

 幸い、転倒した飾り柱は壇上の脇に落ちただけで、観客席には直接被害が及ばなかった。だが、その光景を見て多くの人が悲鳴を上げ、一気に広場に混乱が広がる。


「は、柱が……! 聖女様が何かやったのか……?」

「いや、あれは神の奇跡じゃない! 何か闇の力だろう……?」


 群衆が一斉にざわつき始め、取り巻きたちも動揺を隠せない。中には思わず武器を抜く者もいて、場の緊張は最高潮に達する。

 一方、壇上のシエナはまるで狂ったかのように笑みを浮かべ、怯え顔の王太子を振り返る。


「エドワード様……見てください。これが、神が私に与えてくださった力です。ああ、どうして……どうしてもっと早く使わなかったのかしら? そう、これこそが……」


「シ、シエナ……お前、それは……?」


 エドワードは明らかに震えている。今までは「奇跡だ!」と信じ込んでいたが、目の前の現象はどう見ても不吉で、神聖さとは程遠い。

 そして、そこにカイルが駆け上がり、シエナの杖を叩き落とそうと剣を振るう。シエナは咄嗟に身を引き、杖から薄黒い煙のような魔力を迸らせて反撃の構えをとる。


「離れてください……! あなたなんかに、私の“神”は理解できないっ!」


 魔術戦の素養を持つ騎士や貴族が少ないこの国では、こうした禍々しい力を直接目撃することは非常に珍しい。

 カイルは冷静さを保ちつつも、内心では嫌な汗がにじむのを感じる。もしこの力が庶民たちに向けられたら、多大な犠牲が出るかもしれない。


 そのとき、ヴァレリーが壇下から声を張り上げた。


「シエナ! あなたが“神の使い”などというのは真っ赤な嘘ね。闇の術を使い、王太子殿下をたぶらかすのはもうやめなさい!」


 周囲にも聞こえるように、はっきりと宣言する。群衆がどよめく中、ヴァレリーはさらに言葉を重ねた。


「あなたの取り巻きが回している送風具、仕込みの“病人”、そして今の黒杖……すべてが詐術に過ぎないわ。自分で柱を倒しておきながら“神の力”とは笑わせる!」


 まるで“最後通告”だ。

 シエナは激昂し、その黒杖を振りかざしてヴァレリーを睨みつける。


「黙れ! 婚約破棄されたくせに、まだ私を妨害するの? いずれ、神はあなたのような傲慢な令嬢を罰するのよ!」


 しかし、その瞬間、シエナの取り巻きたちの一部が一斉に後退を始める。

 ――どうやら、彼らの中には外国の工作員が含まれているが、完全に指揮系統が崩壊しているのだろう。危険を感じて逃げ出し始めたのだ。


「お、おい……こんなの聞いていないぞ!」

「そもそも闇の魔術なんて話には……!」


 作り物の奇跡で民衆を欺くだけのはずが、思わぬ形で“本当に危険な術”が炸裂したことに恐怖を覚えたのだ。

 シエナは目を見開き、怒りと焦燥に駆られて喚く。


「待ちなさい! 逃げるな……私が、本当に“神”の力を……!」


 その言葉が終わらないうちに、カイルが剣を一閃。杖の先端をかすめ、黒い石突が砕け散る。


「がっ……!?」


 シエナは悲鳴を上げて杖を取り落とし、ひざまずく形になる。黒杖から漏れ出した魔力が霧散し、残っていた闇の力も急速に失われていく。

 そこに、第二王子派の騎士たちが一斉になだれ込み、シエナの周囲を囲んだ。もう逃げ場はない。


 王太子エドワードは、その光景を呆然と見つめるばかり。

 愛するシエナが闇の術を使った――しかも、それによって人々を危険にさらしたという事実を、まだ受け入れられないのだろう。


「シ、シエナ……まさか、本当に偽物だったのか……?」


「違う……違うのよ、エドワード様……! 私は、私は神に選ばれた……選ばれたの……うぁ、あ……!」


 シエナは涙をこぼしながら、もはや壊れかけた杖を手繰り寄せようとするが、騎士たちに押さえつけられて動けない。

 その惨めな姿を、広場の群衆が唖然として見守っている。先ほどまで聖女を信じていた人々さえも、これで完全に騙されていたことを悟った。


「な、なんてことだ……」

「ただの詐欺師だったのか……いや、詐欺というよりテロリストじゃないか……」


 人々の間から非難の声が噴出し始める。

 シエナを取り巻いていた者たちの多くも散り散りに逃げ、ある者は第二王子派の兵士によって拘束される。こうして、偽りの聖女が企てていた謀略は潰えた。



---


王太子の破滅、そして新たな婚姻


 混乱が収まったあと、第二王子と重臣たちは速やかに調査委員会を設け、シエナやその取り巻きの身元を徹底的に洗う手筈を整えた。

 証拠は山ほどある。闇の魔杖はもちろん、先日の“奇跡の儀式”に使われた仕掛けや偽装道具も押収され、彼女が外国の怪しい宗教団体と連携していた事実も表に出るのは時間の問題だ。


 王太子エドワードは、その場で衝撃を受けて倒れ込み、翌日から部屋に引きこもってしまった。

 元々軽薄な面があったとはいえ、自分が心酔した相手が闇の術を操る詐欺師だったという事実に、精神が耐えきれなかったのだろう。

 「何故だ……シエナは本物の愛で……」

 などと呟いては、狂ったように泣き叫んでいるという。周囲の貴族や侍医がどれだけ諭しても聞く耳を持たず、まさに自業自得の破滅であった。


 王もこの事態を重く見て、ついにエドワードを王位継承権から外す決断を下す見通しが高まっている。

 こうして王太子派は完全に瓦解し、生き残りの貴族たちも「殿下をかばいようがない」と次々に離反。第二王子が事実上の次期王位継承者となるのは時間の問題だった。


 一方、ヴァレリーとカイルは事件後まもなくして、正式に“婚姻契約”を発表した。

 王都の中心で行われた簡素な記者会見のような場で、二人がそろって書類に署名し、「お互いを支え合うための結婚」を結んだと宣言する。

 元々噂は広まっていたため、人々は「ああ、やはりそうか」と納得する者が大半だった。なかには冷やかす者もいたが、王太子が自滅しているタイミングでの発表ゆえ、批判はほとんどない。

 むしろ、「捨てられた公爵令嬢が、優秀な護衛隊長と結ばれる」という物語性が好意的に受け止められ、ある種の祝福ムードさえ漂っていた。


 それでも、あくまで表向きは“契約結婚”だ。世間にもそう公言しているため、恋愛結婚とは違い、盛大な披露宴を開くわけでもない。

 リチャードソン公爵家では内輪の祝いの席が設けられ、公爵をはじめとする家族や親戚筋が集まった程度。だが、その小さな祝宴は、いままでの仰々しい王宮式典などとは比べものにならないほど、あたたかな空気に包まれていた。


 夕暮れ時、公爵家の小宴が一段落してから、ヴァレリーは館の一室にいた。契約のサインを終え、少し疲れを覚えてソファに腰掛けている。

 カイルも先ほどまで重臣たちと書類のやり取りをしていたが、今はヴァレリーの隣に座り、微笑みを浮かべている。


「お疲れさま。大勢から祝福の言葉をかけられるなんて、君にとっては慣れたことかもしれないけど、俺はちょっと緊張したよ」


「うふふ……私だって、こんな形の結婚は初めてですわ」


「そりゃそうだろうね。俺も初めてだ。……でも、どうだろう。思っていたよりずっと、いい雰囲気だと思わないか?」


 その問いに、ヴァレリーは素直に頷いた。

 確かに、これは政治的な契約結婚。今後、公的には「夫婦」として振る舞わなければならないが、実際のところは“互いに干渉しない”という取り決めになっている。

 だが、心のどこかで、ヴァレリーは思う。


 ――「もし私たちが本当に愛を育む関係になったとしても、誰も咎められはしないのでは……?」


 王太子との婚約時代は、まったく気づかなかった感情を、カイルと過ごすうちに少しずつ感じ始めている。それは穏やかな安心感であり、尊敬であり、そして……ほんのり甘い予感でもある。

 どんなに冷静を装っても、自分が“女”として目覚める瞬間を、ヴァレリーは徐々に意識するようになっていた。


「……ヴァレリー。これで俺たちは夫婦、だよね」


 カイルが少し照れたように言う。契約書にサインしたばかりだというのに、その事実を改めて口にすると、どこか気恥ずかしいようだ。

 ヴァレリーも頬を染めながら、小さくうなずく。


「はい。正式な手続きを踏みましたし、公爵家も、第二王子殿下も、私たちを夫婦として認めてくださっています」


「そうか……。俺としては、最初からあなたを守るためだと割り切っていたけど、今は違う。もちろん守りたい気持ちは変わらないけど、それ以上に……あなたと過ごす時間が愛おしい」


 その言葉に、ヴァレリーの心が小さく震える。カイルは優しい笑みを浮かべ、彼女の手にそっと触れる。その手は騎士として鍛えられた堅さがあるが、どこか温もりがあり、包容力を感じさせた。


「今日まで、あなたは氷の令嬢と呼ばれてきた。でも、俺の目にはとても温かい人に映る。確かに冷静沈着だけど、その奥には優しさや誇りがある。だから……俺はあなたに惹かれたんだと思う」


「……カイル……」


 ヴァレリーは恥じらいと嬉しさが入り混じった表情で、彼の名前を呼ぶ。

 こんなにも素直に“好き”という気持ちを受け取ったのは初めてだ。王太子のときは、そんな感情など一度も芽生えなかった。

 契約結婚――確かに出発点は形だけだったかもしれない。けれど、二人の間には既に小さな炎が灯っている。それは、これからゆっくりと燃え上がり、本当の愛の焔へと育つかもしれない。


 ヴァレリーはぎこちなく微笑みながら、カイルの手を少しだけ握り返す。


「私も……あなたといると、心が落ち着くんです。こんなに穏やかな気持ちになるなんて、知らなかった……」


 その言葉だけで十分だった。カイルは満足そうに頷き、二人の手は触れ合ったまま離れない。

 まるで、今後の人生を共に歩むことを誓い合うかのように。



---


エピローグ:冷たい婚約破棄? では契約結婚いたしました


 シエナは闇の魔術を用いて王国を混乱させようとした大罪人として、厳しく裁かれた。彼女を利用しようとしていた外国勢力や国内の協力者も次々に摘発され、王太子派は壊滅。

 王太子エドワードは精神的に立ち直れず、王宮の奥深くで引きこもり生活を送る羽目になり、やがて正式に廃嫡が決定する。今となっては、王都中の人々が「あれほど浅はかな男だったとは……」と嘲笑するばかりだ。

 その一方で、第二王子の人望はますます高まり、近い将来、王位を継ぐだろうと多くの者が予想している。


 そして、ヴァレリー・リチャードソンは――

 「王太子に婚約破棄された悲運の令嬢」という肩書きは、今ではむしろ「慧眼を持ち、愚かな王太子と聖女の裏を暴いた賢女」として評価されている。

 さらに、彼女はカイル・ヴァレンタインとの契約結婚を機に、公的にも“ヴァレリー・ヴァレンタイン”として活躍の場を広げるようになった。王宮の公務や地方の視察、慈善事業など、第二王子派の一員として多忙な日々を送っている。

 それでも、カイルの支えがあるからか、以前よりも彼女の表情には柔らかさが増していた。


 「氷の令嬢」と呼ばれた面影は、いまやもう薄い。カイルだけが知るその素顔は、穏やかで、誇り高く、そして微笑みの美しい女性だった。

 契約結婚のはずが、いつしか互いを意識し合い、本物の絆を育み始めている――その事実を、まだ二人とも公には明言しない。だけど、周囲の者たちはうすうす感づいているらしく、「あれは仲睦まじい夫婦だね」と微笑ましい視線を向けるようになった。


 かくして、「冷たい婚約破棄? では契約結婚いたしましょう」

 ――そう自ら宣言し、実行したヴァレリー・リチャードソンの選択は、大きな波紋を呼びながらも、結果として最高の結末を迎えることとなった。

 偽りの聖女と王太子は自ら破滅への道を歩み、ヴァレリーとカイルは互いに支え合いながら、国の未来を守るために尽力する。


 もしかすると、近い将来、第二王子が正式に王位を継ぎ、カイルも重要な地位を与えられ、公爵家とともに国政を動かす中心人物となるだろう。

 そのとき、ヴァレリーは――あるいはヴァレリー・ヴァレンタインは――王国を支える一員として、いま以上に輝きを放つに違いない。

 彼女がもう“氷の令嬢”と呼ばれることは、二度とない。

 誰よりも冷静で誇り高かった彼女が、愛する人の前だけで見せる優しい微笑み。そこにはきっと、誰もが憧れる幸せが宿っているのだから。



:偽りの聖女、そして真実の結婚

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