生まれ育った屋敷の中で、最も威圧感のある部屋といえば、父の書斎以外にはないだろう。分厚いカーペットが敷かれた床には、ところどころに重厚な木製の調度品が置かれ、壁には先祖代々の肖像画が並んでいる。昼間だというのに部屋の奥は薄暗く、外の光が十分に差し込まないせいか、どこか陰鬱な雰囲気が漂っていた。
そんな書斎の中央にある大きな机の前に立つと、私──アマンダ・ローウェルは、改めてこの場に似つかわしくないと思う。私のような二十歳そこそこの娘が、父と政治的な話をする場所ではない。ましてや、今日呼び出された理由は、ただの「話」などという生易しいものではなかった。
まるで裁判の被告のように立たされながら、私は父の厳めしい表情を見つめる。ここ数年、父がこんなにも固い面持ちで私に命令を下すのは初めてだった。
「アマンダ、お前はクラレンス侯爵と結婚する」
淡々とした声が、書斎の重苦しい空気をさらに押し広げる。私はその言葉を聞き、反射的に唇を噛んだ。まさか、こんなにも突然に政略結婚を言い渡されるなんて。……いや、わざわざ父が書斎に呼び出した時点で、こうなることは何となく勘づいてはいた。けれど、想像していたとしても、実際に宣告されると胸がざわついてしょうがない。
「クラレンス侯爵……エドワード・クラレンスのことですか」
確認するように訊ねると、父は「そうだ」と短く答える。エドワード・クラレンス──貴族社会では天才的な頭脳と冷徹な判断力で有名な若き侯爵である。確かに高位貴族の中では有数の家柄であり、莫大な資産と領地を持つ一族。けれども同時に、政敵や裏切り者には容赦がない非情な策略家という噂を耳にしたこともあった。
(そんな相手と結婚なんて、どれほどの意味があるのだろう……)
私たちローウェル家は、元々そこまで大きくはないながらも、格式を重んじる伝統ある家柄だ。祖父の代まではそれなりの富と地位を築いてきたと聞く。しかし時代の流れなのか、あるいは父の手腕が足りないのか、最近では内情が芳しくないという噂がちらほらある。私は詳しい財政状況など知らされていないが、父の顔つきからしてかなり追いつめられているのだろう。
それでも、この結婚がどれほどのメリットをローウェル家にもたらすのか、私には判然としない。莫大な財力を誇るクラレンス侯爵家と縁を結べば、経済的にも政治的にも安泰になるのは理解できる。けれど、私の気持ちはどうなる? もう少し時間をかけて、相手について知った上で判断させてくれてもいいのではないだろうか。
「お父様、まだ私はその……結婚など考えたこともなく……」
そう遠回しに抗議を試みるが、父は「黙れ」と一蹴する。私は思わず息を呑んだ。父の声が、昔よりもずっと重く険悪な響きを帯びていることに気づかされる。彼の目には焦燥と苛立ちが滲み、その奥底には何かを諦めたような暗い色が見えた。
「お前の意見を聞くつもりはない。既に婚約は決まったのだ。早ければ来月にも式を挙げる手はずになっている」
「来月……」
あまりにも急な話に、頭が追いつかない。まさか、もうそこまで話が進んでいるとは。私が唖然とするのを見計らったように、父はさらに淡々とした口調で続ける。
「詳しい段取りは私の方で進めてある。お前が準備すべきことは花嫁として最低限の振る舞いを身につけ、式に臨むことだけだ。あとはクラレンス侯爵家の手配に従えばいい」
父の一方的な口調に、私は反発心を抑えることができない。もともと私は感情を外に出すのが得意ではなく、冷静沈着だと周囲からは思われている。しかし、さすがに今回はそんな私でも怒りと悲しみが入り混じった気持ちでいっぱいだった。
「それはあまりにも理不尽です。私には私の人生があります。何故、こんなに急に……」
「理不尽? 理不尽であろうが構わん。お前は私の娘だ。父の命令に従うのは当然だろう。それにこれは、ローウェル家の存続がかかった大事な話だ。お前の我儘で取りやめにできるようなものではない」
最後の言葉は、もう脅しのようにも聞こえた。思い返せば、ローウェル家はここ数年、思うように領地経営が進まず、財政状況が悪化していると仄聞していた。実際、普段の暮らしにはほとんど支障を感じなかったが、父は常に苦悩の色を浮かべていた気がする。私が若い頃から仕えてくれていたメイド長も、最近になって突然解雇された。何かがおかしい、ローウェル家が変だ、と感じたのはあのときからだ。
そして今、父はまるで最後の賭けのように、私を政略結婚の駒として差し出す。胸が痛む……父はきっと私を愛してはいるのだろう。だが、その愛よりも家名の重みの方が優先されるのが、この世界の常であることも、痛いほど理解している。
すると、父は深いため息をつき、少しだけ声のトーンを落とした。
「アマンダ……私だって好きでこんな決断をしたわけではないのだ。お前を犠牲にしていることは分かっている。だが、他に道はない。クラレンス侯爵はお前の美貌と知性を買っている。これは我が家にとっても、お前にとっても悪い話ではない。結婚を承知してくれ」
それが父の精一杯の譲歩だったのかもしれない。だが、私はひとたびこみ上げた怒りを抑えられず、声を荒らげそうになった。しかし結局、それを飲み込んだ。どれほど抗議しても、父の決定が覆ることはないだろう。それに、家のため、と言われてしまえば、これ以上は何も言えなくなる自分が悔しかった。
結果、私は唇を結んだまま、何も言わずにただ黙り込む。父はそれで納得したのか、椅子の背もたれに大きく身体を預けた。まるで、重荷を一つ下ろしたと言わんばかりに。
「今日のところは下がりなさい。詳細は追って連絡する。……いいな?」
私はほんのわずかに頷き、書斎を後にした。廊下に出ると、胸に押し寄せていた感情が一気に溢れそうになる。けれども使用人の目がある。貴族の娘として、こんなところで取り乱すわけにはいかない。私はなんとか自分を律し、急ぎ足で自室へと戻った。
2. 情報収集と不安
部屋の扉を閉めた瞬間、私はようやく深く息を吐いた。気丈でいなければならないと思いつつも、父からの政略結婚の命令は私の心を乱し続ける。書斎でのやり取りを思い出すだけで、息苦しさに胸が締めつけられた。
ベッドへ腰かけ、窓の外に視線を移す。季節は春先とはいえ、まだ肌寒さが残る空模様だ。陽光の加減で外の景色がどこか白っぽく霞んで見える。そのぼんやりとした風景が、今の私の心境を映しているようだった。
政略結婚など、この貴族社会では珍しい話ではない。幼少期から何度も耳にしてきたし、愛のない結婚が当たり前という世界でもある。だが、実際に自分の身に降りかかると、これほど複雑な気持ちになるのかと痛感していた。
(……クラレンス侯爵、エドワード・クラレンス。どんな人物なのだろう。)
私は頭の中で、噂に聞いたエドワードの姿を思い浮かべてみる。彼はまだ二十代半ばだというのに、若くして侯爵位を継ぎ、領地経営を難なくこなす手腕を持っているという。政治的な会合でも常に冷静沈着、かつ的確な判断で周囲を圧倒し、「冷酷な策略家」と呼ばれることも少なくない。
それに──どうやら女性関係の噂はほとんど聞かない。非情で孤高の貴族という印象が強いためか、彼に近寄ろうとする令嬢がいても相手にされない、というのがもっぱらの評判だった。だがその一方で、彼の美しい容姿に憧れる女性も多いらしい。黒髪に切れ長の瞳という端正な容貌は、冷徹さをさらに引き立てているとか。
「孤高の貴族ね……そういう人は、私みたいな娘とどう接してくるのかしら」
自然とため息がこぼれる。父が言うように、私の美貌と知性を買っているというのは、ただの方便だろう。実際はローウェル家との縁組で得られる何かしらの政治的・経済的メリットがあるに違いない。大貴族同士の結婚であれば、何かしら裏に利害関係があるものだ。
しかし、そうと分かっていてもやはり心は落ち着かない。私は自室の本棚に向かい、何冊か取り出した本を机に並べた。これらは貴族社会の慣習や法律、婚姻に関する規定などが書かれた分厚い書籍だ。かつて家庭教師から教わった知識を総ざらいし、少しでも自分を納得させる材料を探そうと考えた。
「政略結婚……その定義は、当事者間の愛情とは関係なく、家同士の利害を重視して結ばれる婚姻形態……。ふむ、まさに今の私の状況にぴったり当てはまるわね」
自嘲気味に呟きながら、ページをめくる。しかし、いくら理論を理解しても、私の心は不安と抵抗感に苛まれるばかりだ。何十ページか読み進めても頭に入ってこず、結局、机に突っ伏してしまった。知らず知らずのうちに溜め息が増える。頭では父の決断を受け入れなくてはと思いながら、感情が追いついてこないのだ。
そんなとき、部屋の扉が静かにノックされた。私は慌てて机から顔を上げ、咳払いをして声を掛ける。
「……はい、どうぞ」
入ってきたのは、私の専属メイドであるリジーだった。まだ若い彼女だが、幼少の頃から仕えてくれている信頼できる相手だ。リジーは小柄な体をペコリと折りながら、少し戸惑ったような表情を浮かべている。
「お嬢様、ご機嫌いかがですか……? 先ほど旦那様とお話しされたと伺いました。お顔色が優れないように見えますが……」
「ええ……少し、考え込むことがあって」
やんわりと答えつつも、リジーには嘘をつけない。彼女も私が呼び出された理由を知っているのだろう。それだけに気遣ってくれているのが伝わってきた。
「きっと、政略結婚のお話しですよね……? 噂で聞きましたけど、クラレンス侯爵に嫁がれるんだとか」
「……そう。驚いたでしょう? 私もまだ頭が追いついていないわ」
リジーはそっと眉をひそめ、申し訳なさそうに目を伏せる。
「お嬢様のように聡明でお優しい方が、あの“冷徹”と噂のクラレンス侯爵と……。正直、わたくしも驚きました。けれど、もしかしたら噂は噂に過ぎないかもしれません。実際はとても良い方なのかもしれませんし……」
リジーの言葉に、思わず微笑みがこぼれそうになる。確かに、彼女の言うとおり、噂だけを鵜呑みにして判断するのは早計だ。それに、私も見ず知らずの人を一方的に悪く捉えるつもりはない。噂が全て真実とも限らないのだから。
「ありがとう、リジー。そうね、まだ決めつけるには早すぎるわ。私もあまり悲観的になりすぎず、もう少し様子を見てみることにするわ」
「はい、お嬢様……。あ、それから、旦那様が夕食の際にお嬢様を同席させるようお申し付けになられました。何か重要なお話があるのかもしれません。もう間もなく夕刻になりますが、お召し替えなどはいかがなさいますか?」
時計を確認すると、日は随分と傾いていた。父との会話ですっかり気力を奪われていたせいで、時間の感覚が曖昧になっていたらしい。私は軽く身支度を整えるために立ち上がり、鏡台の前へと移動した。
「ええ、お願いするわ。もしかしたらクラレンス侯爵の話でもあるのかもしれないし、礼を欠かないようにしないと」
「承知しました。では、お嬢様には淡い色のドレスを用意しますね。お顔色が優れないときは、明るい色を身につけたほうが気分も晴れやかになりますよ」
リジーは微笑みながら、手際よくクローゼットへ向かった。その姿を見つめながら、私は少しだけ安堵を覚える。こんなとき、彼女のように私を支えてくれる人がいるのは心強い。とはいえ、政略結婚の話が根本的に解決されたわけではない。夕食の席で父が何を言うのか、あるいは他に誰か来客があるのか……考えるだけで気が重い。
(この先、私はどうなるのだろう……)
鏡に映った自分の顔は、いつもよりほんの少しやつれて見えた。リジーが選んでくれる淡いピンクのドレスが、私の憂鬱を少しでも和らげてくれれば、と願わずにはいられない。
3. 夕食の席で
夕刻、食堂の扉を開けると、そこには父が一人で席についていた。大きな長テーブルの上には豪華な料理が並べられているが、母や兄弟の姿はない。……もっとも、母は私が幼い頃に病で他界しているし、兄弟もいない私は、基本的にこの屋敷で父と二人で暮らしていた。食事の時間も、最近は父が仕事や外出で不在のことが多く、顔を合わせる機会は限られている。
私は父の斜め向かいの席に腰を下ろした。ドレスの裾を丁寧に整えながら姿勢を正す。父は私の顔を一瞥すると、いつものように無表情のまま微かに頷いた。
「座ったか。……体調はどうだ?」
「ええ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
一応は父なりに気を遣っているのだろう。その問いに淡々と答えると、父は「そうか」とだけ返す。気まずい沈黙が流れたが、すぐに給仕が料理を運んできた。スープやローストなどの香ばしい匂いが漂うが、不思議と食欲は湧いてこない。
スプーンを手に取ると、父がスープを口に運ぶタイミングに合わせて、私も静かに手を動かす。いつもならちょっとした世間話をするものだが、今夜は空気が重く、何も言葉が出てこない。しばらくの間、スプーンやフォークの音だけが食堂に響いた。
しばらくして、父がゆっくりと口を開く。
「……お前に話があると言ったな。クラレンス侯爵との結婚の件だ。実は彼から、早速お前と顔を合わせたいと打診が来ている。ここ数日中にも、一度屋敷に招きたいと思っているが……準備はいいな?」
この一言を聞くだけで、胸がどきりとする。とはいえ、結婚をするのだから顔を合わせるのは当然のこと。避けようもないが、こんなにも早く話が進んでいるとは思わなかった。
「はい……構いません」
もう覚悟を決めるしかない。しかし、たった今の返事に自分の声が少し震えていたのを自覚して、思わず唇を引き結ぶ。父はそんな私の表情を気にも留めず、続けて言う。
「エドワード・クラレンスは、政界でも実業界でも頭角を現している男だ。聞いたところによると、長らく後継ぎ問題で周囲が色めき立っていたが、本人は“不要な縁談は受けない”と言い続けていたそうだ。そんな彼が、なぜローウェル家の娘を迎えたいと言ったのか、お前も不思議に思うかもしれないが……」
「……はい」
父の言葉の先を促すと、彼は苦々しい顔をしながら小さく肩をすくめる。
「私にも正直なところ、あまり分からん。彼が望んでいるのは政治的な安定か、あるいはローウェル家の名誉が欲しいのか。あるいはお前自身の才覚を高く評価しているのか……。ただ、確かなのは、彼はそう簡単に人を認める男ではないということだ」
それはつまり、エドワードが私を何らかの形で“認めた”からこそ、この縁談が成立したということになるのだろうか。そもそも私は、社交界デビューをしているとはいえ、さほど華々しい活躍をした覚えはない。ただ、求められる礼儀作法や舞踏会での立ち居振る舞いを無難にこなしてきただけ。特に飛び抜けて優れたわけでもなく、むしろ地味な存在だったと思う。
「……お前は聡明な娘だ。確かに人前に出ることはあまり好まないが、裏でしっかり努力を積むタイプだし、言葉遣いにも気品がある。……お前を誇りに思っているよ」
突然、父がそんなことを口にするものだから、私は目を見開いてしまった。今まで父が私を褒めるなんて滅多になかったのに。だが、それが本心からの言葉だとしたら、少しだけ報われた気持ちになる。とはいえ、このタイミングでは複雑な気持ちの方が大きいけれど……。
「ありがとうございます。でも……私には、父様の期待に見合うだけのことができるのか、正直自信がありません」
「弱気なことを言うな。もう決まったことだ。いくら悩もうが、式は避けられない」
やはり父の声は厳しい。私はうつむきながら、スプーンを持つ手をぎゅっと握り込む。そう、もう悩んだところで意味がない。婚約はすでに成立し、相手方も早期に会いたいと申し出ている。一週間、もしかしたらそれより早い段階でクラレンス侯爵がやってくるかもしれない……。
「それと、もう一つ伝えておく。式はクラレンス侯爵家の領地で挙げることになるだろう。侯爵家は都から少し離れた場所に大きな領地を持っている。きっとそこへお前も嫁ぐ形になる。……今後、生活の拠点も向こうになるわけだ」
父が言いにくそうに口を動かすのを見て、私も胸が締めつけられる。つまり私は、この屋敷を出てクラレンス家で暮らすことになるのだ。今まで当たり前のように見てきた庭や廊下、メイドや使用人たちとはお別れになる。
「そう、ですか……。分かりました」
私の返答はどこか他人事のように聞こえた。けれども、内心は一抹の寂しさが広がっている。父と親子の情が薄いわけではないし、この家にもそれなりの愛着がある。すべて捨てて新たな場所で暮らすことになるなんて、想像しただけで心細い。
父はまた一口スープを飲み、目を閉じる。彼もまた、私を遠くへ嫁がせることに何か思うところがあるのかもしれない。しかし、それでも父は私よりも家を優先する。私はそれを責めることはできない。なぜなら、それが貴族の“義務”だからだ。
4. 訪問の準備と初対面への緊張
翌日から、私の生活は慌ただしくなった。クラレンス侯爵の訪問に向け、屋敷の中は念入りに掃除や飾り付けが行われる。私自身も、その日に備えて衣装の選定や礼儀作法の確認に追われることになった。
正直なところ、まだ私の心は落ち着かないままだ。胸の奥に大きな不安が巣食っていて、夜もぐっすり眠れない。しかし、ただ落ち込んでいても状況は変わらない。私は私でできる限りの準備を進めるしかないのだ。
「お嬢様、今日はいくつかドレスの試着をしていただきます。クラレンス侯爵がお見えになった際に、どのドレスが一番相応しいか吟味したいのです」
リジーが控えめに告げると、私は大きく頷く。客人を迎える立場として、無難な衣装ではなく“嫁ぐ娘”としての装いが要求されるだろう。失礼のないよう、万全を期さなければならない。
私は鏡台に向かい、リジーが持ってきた淡色のシルクのドレスに袖を通す。一見シンプルだが、襟元や袖口に細かなレースが施されていて上品な印象だ。大きすぎる装飾はないからこそ、私の顔立ちを引き立てる効果もあるのかもしれない。
「うん、似合うわよ、お嬢様。さすがに肌の白さが際立ちますね。あとは髪をアップにまとめて、少しだけ飾りを添えれば完璧かと」
「ありがとう、リジー。それじゃあ、髪型の方もお願いしていい?」
「もちろんです。どうぞ、椅子に座ってくださいませ」
リジーが手際よく髪を梳かしていく中、私はこれから会う侯爵の姿を頭に思い浮かべる。どんな表情で、どんな声で私に接するのだろう。冷酷な策略家と噂される彼だが、直接会わないことには本当のところは分からない。
少しでも良い印象を持ってもらえるように努力するのは、今できる数少ないことの一つだ。政略結婚とはいえ、結婚後の生活が地獄のようなものであっては困る。せめて、敵意や拒絶で始まる関係だけは避けたい。
そうしてドレスを一通り試着し、髪型のパターンもいくつか試しているうちに、気づけば日が暮れかけていた。準備は一日では終わらない。明日以降も忙しくなるだろう。私はリジーとともに部屋を片付けながら、胸の内でそっと祈る。どうか初対面が、穏やかに過ぎますように、と。
5. 邂逅:冷酷な侯爵の微笑
そして迎えた、エドワード・クラレンス侯爵の訪問日。当日は朝から屋敷中が落ち着かない雰囲気に包まれていた。使用人たちが早朝から庭の手入れを行い、廊下の絨毯にシミや埃がないか厳重にチェックする。キッチンでは豪華な昼食の支度が進められ、リビングには花が生けられる。父は一階の応接室で落ち着かない様子でうろうろしていた。
私はというと、式服に近い華やかさを持ったドレスを身につけ、リジーとともに二階の自室で待機している。あらかじめ父からは「侯爵が到着して落ち着いたら呼ぶ」と言われており、今はただその時を待つのみだ。
「お嬢様、緊張していらっしゃるご様子ですね……。大丈夫ですよ」
リジーは私の手をそっと握りしめ、励ますように微笑んでくれる。しかし、握られた指先は冷えきっている。自分でも分かるほどに手汗がにじみ、不安で頭がいっぱいだった。
「やっぱり、怖いのかもしれない……。会ったことのない相手と結婚する、という事実が……」
「大丈夫です。お嬢様は聡明で、美しく、思いやりのある方ですもの。どんなお相手だって、きっと一目で分かってくださいます。わたくしはそう信じています」
リジーの言葉が、少しだけ心を軽くする。私は深呼吸し、鏡の中の自分を見つめた。淡い水色のドレスは、私のダークブラウンの髪や瞳の色を引き立てている。メイクも派手ではなく、自然な美しさを意識して施してもらった。見た目だけなら、そこそこ人並み以上には見えるはず……と自分を奮い立たせる。
すると突然、廊下から足音が聞こえ、部屋の扉がノックされた。扉越しに声がする。
「お嬢様、旦那様がお呼びです。クラレンス侯爵がいらっしゃいました」
私は思わず息を飲む。ついに、そのときが来たのだ。リジーが私のスカートの裾を整え、私は背筋を伸ばして立ち上がる。息を落ち着かせるように、何度か深呼吸してから扉を開けた。
使用人に案内されるまま、私は階段を下りる。心臓が高鳴っているのが自分でも分かる。焦る気持ちを抑えながら、父が待つ応接室へ向かった。
扉の前に立つと、使用人が先に入室を告げ、ドアを開く。私は一歩、足を踏み出した。
「失礼いたします……」
そう口にした瞬間、部屋の中にいた一人の男性が目に飛び込んできた。黒髪を短く整え、端整な顔立ちに切れ長の瞳を持つ。まさに「美丈夫」という言葉がしっくりくる容貌だ。おそらく彼がエドワード・クラレンス……私の“婚約者”となる相手。
薄く微笑んでいるように見えたが、その瞳には鋭い光が宿っているようだった。冷徹さと知性を感じさせる眼差し。私はその視線をまともに受け、思わず言葉を失いそうになる。
「こちらこそ、初めまして。私はエドワード・クラレンスです」
穏やかな声で名乗った彼は、私に向けて丁寧に一礼した。意外なほど柔らかな声音だった。そして続けて「アマンダ・ローウェル嬢ですね?」と、私の名を確認する。
「は、はい……わたくしが、アマンダ・ローウェルです。初めまして、クラレンス侯爵」
自分でも驚くほど声が上ずっていたが、何とか返事をする。すると、彼の口元がさらに少しだけ緩んだ。
「噂に違わぬお美しさで、少々緊張してしまいます。お父上から、あなたは気品と知性を兼ね備えた女性だと伺っていましたが……光栄です、お会いできて」
そんな言葉が返ってくるなんて、思いもよらなかった。冷酷な策略家という先入観を抱いていた私は、拍子抜けしてしまうほど穏やかな対応に驚く。どこにも冷徹な雰囲気は見当たらない……いや、表面上だけかもしれないが。
父はそんな私たちのやり取りを見て、低い声で「……座りなさい、アマンダ」と促した。私は軽く会釈し、エドワードの斜め向かいに腰を下ろす。エドワードも再びソファに座ると、足を組みながら視線を私に向けた。
「本日はお忙しい中、お招きいただきありがとうございます。早速ではありますが、私はアマンダ嬢との婚約を心から望んでいることをお伝えしたく、こうして足を運ばせていただきました」
彼の声は静かで落ち着いていて、その中にどこか揺るぎない確信が宿っているように感じる。私は緊張しながらも、失礼のないようにと微笑みを返す。
「そう言っていただけるのは、光栄です。あの……私の方こそ、まだ何のご挨拶もできず申し訳ありません。どうかよろしくお願いいたします」
父は二人のやり取りを少し離れた場所から見守っている。顔は相変わらず厳しい表情を保っているが、エドワードの言葉遣いや態度を見て、少し安心したようにも見える。
エドワードはさらに言葉を続ける。
「私も結婚には慎重でしたが、ローウェル公爵(※ここでは父の地位を公爵と仮定)からあなたの噂を聞き、ぜひお会いしたいと思ったのです。知性と気品を兼ね備えた方は、なかなかいらっしゃらない。おまけにこれほどの美貌をお持ちとは、噂以上でしたね」
まるで口説き文句のような直接的な賛辞に、私は戸惑いを隠せなかった。普段、男性からこんな風にストレートに褒められることは滅多にない。何か裏があるのではないかと疑ってしまうくらいだ。しかし、エドワードの表情には下心らしきものは感じられない。ただ淡々と、事実を述べているようにも見える。
「もったいないお言葉です。私は……そんなに大した者ではありません」
「謙遜もお上手だ。それだけ自制心があるということならば、ますます興味が湧きますね。……アマンダ嬢、私はあなたとの結婚を真剣に考えております。この婚約を通じて、両家の関係はより良いものになるでしょう。そして、あなた個人の夢や目標があれば、微力ながら全力で支援するつもりです」
意外な言葉だった。「あなた個人の夢や目標を支援する」というのは、ただのリップサービスだろうか。それとも、本当にそう考えているのだろうか。普通の政略結婚であれば、花嫁側に自由や権利はほとんど与えられないのが常だ。夫の家に嫁ぎ、夫の家のために尽くす。それが貴族の女性に課された義務。それを当然と考える男性が多い中、エドワードの言い分は確かに珍しいと感じる。
(この人は本当に冷酷な策略家なのか……?)
頭の中で疑問が渦巻く。しかし、今初対面である以上、彼の真意を見抜くのは難しい。私はただ、「ありがとうございます……」とお礼を述べることしかできなかった。
やがて父が口を開き、正式にこの縁談を進めることを確認すると、エドワードは満足げに頷いた。
「では、挙式の日取りについては改めてご相談させていただきたいと思います。……アマンダ嬢、近いうちに私の領地へお越しになりませんか? 結婚をする以上、あなたの新たな住まいを見ていただいた方が良いでしょう」
そう言ってこちらを見つめる瞳には、どこか優しさのようなものが感じられる。それが本心かどうか分からない。けれど、私は嫌な感情を抱かなかった。むしろ、こうして笑みを向けられると、その人柄に魅了されそうになる自分がいる。
「はい……ぜひ、お伺いしたいです。よろしくお願いいたします」
そう答えながら、私は父の顔色を窺った。父は難しい表情のまま無言でいる。が、反対する様子はない。おそらく父としても、ローウェル家の将来を背負ってくれる強力な後ろ盾が欲しいはずだ。クラレンス侯爵家に嫁ぐことには賛成なのだろう。
こうして、私とエドワード・クラレンスは正式に「婚約者」として顔を合わせることになった。初対面の印象は、噂に聞くような冷酷さが表面には出ていない。それどころか、穏やかで礼儀正しく、私の心を案外すんなりと受け止めてくれるように思えた。
それでも、どこか胸の奥底にうずくのは、この結婚が“家同士の利益”を最大限に考慮した政略結婚であるという冷徹な事実。エドワードがもし、私の前で優しい仮面を被っているだけだとしたら……その真意をまだ知らない私は、今後、どのように彼と接すればいいのだろう。
(愛なき政略婚──。でも、もしかしたら、それも悪くはないのかもしれない。彼が本当に冷たくないのなら……)
そんな一抹の期待が、私の不安をほんの少しだけ和らげる。だが、この決断が私の運命を大きく変えてしまうのは間違いない。
曖昧な微笑みを浮かべるエドワード・クラレンスの横顔を眺めながら、私は心の中で静かに決意する。この人の本当の姿を、この目で確かめてみよう、と。