「うぎゃああああああああ!」
赤ん坊の泣き声が響いた。
木原修は意識が覚醒した瞬間、自分が置かれた状況を理解して愕然とした。前世では30代のサラリーマンだった男が、この世界で赤ん坊として生まれ変わったのだ。
(嘘だろ……なんだこれは……?)
修の心は大混乱していた。死んだ記憶はない。確か残業で遅くなって、終電で帰る途中だったはずだ。電車の中で居眠りをして……それなのに気がついたら赤ん坊になっている。
(夢か? これは夢なのか? それとも……)
現実を受け入れることができずにいた。しかし、今の彼にできることは泣くことだけだった。
「おお、元気な男の子だな」
「よかった……無事に生まれてきてくれて……」
周囲の大人たちの安堵の声が聞こえる。どうやら難産だったらしい。
修は心の中でパニックになりそうになったが、必死に冷静さを保とうとした。前世で培った判断力が、この異常事態でも彼を支えていた。
(落ち着け……落ち着いて状況を整理しよう)
「この子の名前は……ライナスにしよう」
父親らしき男性の声が響く。
(ライナス……? 明らかに日本の名前じゃない。ということは……ここは本当に異世界なのか?)
生まれたばかりの身体では何もできない。修……いや、ライナスは状況を受け入れるしかなかった。
(まさか本当に異世界転生なんてことが……小説やアニメの話だと思っていたのに……)
しかし、現実は現実だった。どんなに信じられなくても、今の状況を受け入れるしかない。
それから数日が経った。
ライナスは徐々にこの世界の状況を把握しようとしていたが、その度に新たな困惑に見舞われた。
まず、ここは明らかに現代日本ではない。電気はなく、照明はろうそくや何かしらの光によるものだった。不思議なことに言語は理解できたが、明らかに日本語ではない異世界の言語のようだった。
(なぜ言葉が分かるんだ? 転生の特典なのか? それとも赤ん坊の脳が自然に学習しているのか?)
理解できないことだらけで、ライナスの思考は堂々巡りを続けていた。
そして何より信じられないのは、この世界には魔法が存在するらしいことだった。
「おや、ライナスが起きてるな」
父親のハルオが部屋に入ってきた。彼は村の農民で、40代前半の体格のいい男性だった。
「この子、目がキラキラしてるね。賢そうな顔をしてる」
母親のミエが優しく微笑みかけてくる。20代後半の女性で、茶色の髪を後ろでまとめている。
ライナスは内心で複雑な気持ちになった。前世では両親を早くに亡くし、天涯孤独だった。こうして愛情を注がれるのは、人生で初めての体験だった。
(この人たちは……本当に俺の両親になるのか? いや、もうなったのか?)
現実感がまったくなかった。昨日まで30代のサラリーマンだった男が、今は赤ん坊として愛されている。
(これは夢なのか? 現実なのか? もう分からない……)
しかし日が経つにつれて、これが紛れもない現実であることを受け入れざるを得なくなった。お腹が空けば泣き、眠くなれば眠る。赤ん坊の身体の要求は待ったなしだった。
それから数ヶ月が過ぎ、ライナスは少しずつ言葉を覚え始めた。
「ばー、ばー」
「おお! ライナスが喋った!」
ハルオが喜んでいる。
実際にはライナスは既に言語を理解していたが、赤ん坊らしく振る舞う必要があった。急激に成長を見せれば怪しまれる可能性がある。
(慎重に行こう。この世界の常識を少しずつ学んでいかないと……)
ライナスは情報収集を始めた。しかし、得られる情報の一つ一つが、彼の常識を覆すものばかりだった。
この村は「タケノ村」という名前で、人口は200人程度の小さな農村だった。最寄りの街までは馬車で半日の距離がある。
そして、この世界には確実に魔法が存在した。
「ほら、ライナス。お父さんの魔法だよ」
ハルオが手のひらに小さな火を灯してみせる。
ライナスは本気で驚いた。いや、驚きを通り越して呆然とした。
(本物だ……本当に魔法が存在する世界なのか……)
頭では理解していたつもりだったが、実際に目の前で魔法を見ると衝撃は計り知れなかった。30年間の常識が根底から覆される感覚だった。
(魔法……本当に魔法なのか……トリックじゃないのか……?)
しかし、どう見てもトリックではなかった。ハルオの手のひらから確かに炎が生まれ、温かい熱を感じることができた。
母親のミエも簡単な回復魔法を使えるようだった。ライナスが転んで膝を擦りむいた時、光る手で傷を治してくれたのだ。
「痛いの痛いの、飛んでいけー」
「うわあ……」
ライナスは心底驚いた。傷が本当に消えている。これが魔法の力なのか。
(信じられない……本当に魔法で傷が治った……こんなことが可能なのか……?)
前世の常識では絶対に考えられない現象に、ライナスの心は激しく動揺した。科学では説明できない現象が、目の前で当たり前のように起きている。
(この世界では魔法が常識なのか……だとしたら、俺は一から世界のルールを学び直さなければならない……)
1歳になった頃、ライナスにさらなる衝撃が待っていた。
ある日、一人でいる時に何気なく集中してみると、頭の中に半透明の文字が浮かんだのだ。
【名前:ライナス】
【レベル:1】
【スキル:なし】
「な……なんだこれは……?」
ライナスは愕然とした。まるでゲームの世界のような表示が現れたのだ。
(ステータス画面? まさか本当にゲームの世界みたいなシステムがあるのか?)
頭を振ってもう一度集中してみる。やはり同じ表示が現れた。これは幻覚ではない。
(レベル……スキル……本当にRPGゲームの世界みたいになっている……)
しかし、表示される情報は最低限だった。他の転生小説でよく見るような詳細なステータスや特殊能力は一切ない。
「スキルなし……ということは、何の特殊能力も持っていないということか」
ライナスは複雑な気持ちになった。転生特典のようなチート能力があることを少し期待していたが、どうやら何もないらしい。
(でも……これはこれでいいかもしれない)
ライナスは時間をかけて状況を分析した。もし強大な力を持って生まれていたら、それを隠すのは困難だったろう。普通の人間として生まれたからこそ、平穏に暮らしていける。
(今の俺には前世の記憶と経験がある。それだけでも十分なアドバンテージかもしれない)
それから数ヶ月後、ライナスはようやく歩けるようになった。
「ライナス、上手に歩けるようになったね」
「この子は本当に賢いわ。もう簡単な言葉も話せるし」
両親はライナスの成長を喜んでいた。
ライナスは村の中を歩き回りながら、この世界について更に詳しく学んでいった。そして学ぶたびに、新たな驚きと困惑が彼を襲った。
タケノ村は確かに文明レベルが低い。電気はなく、水道もない。井戸から水を汲み、薪で火を起こす生活だった。
(まるで中世ヨーロッパみたいな世界だ……でも魔法がある分、独特の発展をしているのかもしれない……)
しかし、魔法の存在がそれを補っている部分もあった。
「おお、ライナス。今度はここに来たのか」
村の鍛冶屋のガルスが声をかけてきた。50代の男性で、筋骨隆々とした体格をしている。
「この子、いつも色んなところを見て回ってるね。好奇心旺盛でいいことだ」
ガルスの仕事場では、魔法で強化された農具や簡単な武器が作られていた。
「魔法の炎で金属を溶かすんだ。普通の火よりずっと高温になるからね」
ガルスが説明してくれる。ライナスは本当に驚いた顔で見学した。
(すごい……魔法で金属を加工している……これが当たり前の世界なのか……)
この世界では魔法が技術と融合している。文明レベルは低くても、魔法があることで独特の発展を遂げているのだった。
(魔法と技術の融合……前世では考えられなかった組み合わせだ……この世界のことを理解するには、まだまだ時間がかかりそうだ……)
村を歩いていると、時々「ダンジョン」という言葉を耳にした。
「最近、山の向こうのダンジョンから魔物が出てきてるって話だな」
「街の冒険者たちが対処してくれてるから大丈夫だと思うが……」
村人たちの会話から、この世界にはダンジョンという場所があり、そこから魔物が出現することがあるらしいと分かった。
(ダンジョン……魔物……冒険者……本当にファンタジーの世界だ……)
ライナスは改めて自分が置かれた状況の異常さを実感した。
(魔物が実在する世界……危険もあるということか……この村は比較的安全な場所のようだが、油断はできないな……)
2歳になった頃、ライナスは村の子供たちと遊ぶようになった。
「ライナスくん、一緒に遊ぼう!」
同年代のタロウやハナといった子供たちが声をかけてくる。
ライナスは内心では30代の大人だったが、子供らしく振る舞う必要があった。
「うん! 遊ぼう!」
「今日は森で木の実を取りに行こう!」
「でも、森は危険だから村の近くだけだよ」
子供たちは無邪気に遊びの計画を立てている。ライナスは彼らを見ていて、複雑な気持ちになった。
(彼らは本当の子供だ。俺だけが大人の魂を持っている……この違和感にいつか慣れる日が来るのだろうか……)
しかし、子供として生きていく以上、彼らとの関係は重要だった。ライナスは慎重に、しかし自然に子供たちの輪に入っていった。
「森って怖くないの?」
「大丈夫だよ! 村の近くだから魔物は出ないから」
「魔物って本当にいるの?」
「うん! お父さんが言ってた!」
子供たちの会話から、この世界では魔物の存在が常識として認識されていることが分かった。
(子供でさえ魔物のことを知っている……この世界では本当に魔物が日常的な脅威なのか……)
ライナスは改めて、この世界の危険性について考えを巡らせた。平和に見える村でも、常に危険と隣り合わせなのかもしれない。
(俺も将来は魔物と戦うことになるのだろうか……今はまだ子供だが、いずれは……)
3歳になった頃、ライナスはようやくこの世界の生活に少しずつ慣れ始めていた。
しかし、完全に順応したわけではない。毎日のように新しい発見があり、その度に前世との違いに戸惑うことが多かった。
「ライナス、今日は市場に行くよ」
ミエが声をかけてきた。
「市場?」
「隣の村で市場が開かれるの。色んな物が売ってるのよ」
ライナスは興味を示した。この世界の経済システムや社会構造について学ぶ良い機会だった。
市場では、ライナスは更なる驚きを体験することになった。
「魔法で保存された食べ物」
「魔法で作られた道具」
「魔物の素材から作られた装備品」
どれもこれも、前世では考えられないものばかりだった。
(この世界では魔法が経済の基盤になっている……前世の常識はまったく通用しないな……)
魔法使いが魔法で作った品物を売り、冒険者が魔物から得た素材を売買している。完全に異世界の経済システムだった。
「ライナス、あまりキョロキョロしちゃダメよ」
「ごめんなさい……」
ライナスは子供らしく謝ったが、内心では情報収集に必死だった。
(この世界のルールを理解しなければ……俺もいずれはこの社会で生きていかなければならないのだから……)
4歳になった頃、ライナスは言葉もかなり上達し、両親との会話も自然にできるようになっていた。
「ライナス、魔法を覚えてみたいかい?」
ハルオが聞いてきた。
「魔法? 僕にもできるの?」
「やってみなければ分からないが、君なら覚えられるかもしれない」
ライナスの心は躍った。魔法を実際に使えるようになるかもしれない。
(魔法……前世では夢でしかなかったものが、この世界では現実だ……)
しかし同時に、不安もあった。
(俺にはスキルがない……魔法を覚えることはできるのだろうか……?)
ステータス画面を確認してみる。
【名前:ライナス】
【レベル:1】
【スキル:なし】
相変わらず何も変わっていない。
(レベルも上がっていないし、スキルも身についていない……このシステムはいったいどういう仕組みなんだ……?)
「どうしたんだい、ライナス? 難しい顔をして」
「ううん、何でもない。魔法、やってみたい!」
ライナスは素直に答えた。
(とりあえず挑戦してみよう。やってみなければ分からない)
こうして、ライナスの魔法修行が始まることになった。
しかし、彼はまだ知らなかった。この世界での生活が、彼にとってどれほど困難で、同時にどれほど可能性に満ちたものになるのかを。
(まだまだ分からないことだらけだ……でも、少しずつでも前進していこう)
ライナスは決意を新たにした。前世の経験と、この世界で得た新しい知識を活かして、この異世界で生き抜いていくのだと。