王立魔法学院での生活が始まって一週間が経った。
ライナスは順調に学院の環境に馴染んでいたが、ある日の夜、奇妙な出来事に遭遇することになった。
「ライナス、今日の実技の授業はどうだった?」
夕食後、マーカスが話しかけてきた。
「とても勉強になりました。でも、まだまだ上級生には敵いませんね」
「君は謙遜しすぎだよ。今日の複合魔法、先生も驚いてたじゃないか」
確かに、実技の授業でライナスが見せた火と風の複合魔法は、他の学生たちから感嘆の声を集めていた。
「そんなことないですよ」
「でも気をつけた方がいいかもしれないね」
マーカスが急に真剣な表情になる。
「気をつけるって……?」
「あまり目立ちすぎると、上級生の中には面白く思わない人もいるんだ」
「そうなんですか……」
ライナスは少し不安になった。村でも同じような経験をしたが、学院でもそうした問題があるのか。
「特に、貴族出身の学生の中には、平民の特待生を快く思わない人がいる」
「貴族と平民の対立があるんですね」
「表立ってはないけど、時々嫌がらせのようなことがあるんだ」
マーカスが小声で続ける。
「僕も最初の頃、色々あったからね」
「マーカスさんも平民出身なんですか?」
「そうだよ。商人の息子だ」
「そうだったんですね……」
「でも、あまり心配しすぎることはないよ。先生たちはちゃんと見ていてくれるから」
その夜、ライナスは部屋で一人過ごしていた。
アルベルトからもらった魔法理論の本を読んでいると、廊下から小さな物音が聞こえてきた。
(誰かいるのかな……?)
時刻は既に夜の10時を過ぎている。寮の消灯時間なので、普通なら誰も歩き回っていないはずだ。
ライナスは慎重に扉に近づき、そっと廊下を覗いてみた。
暗い廊下の向こうで、何かの影がちらついている。
(学生かな……?)
よく見ると、黒いローブを着た人物が廊下の奥に向かって歩いていく。
(あの人は……学生じゃないかもしれない)
ライナスの直感が警告を発していた。深夜に黒いローブを着て歩き回る人物は、明らかに怪しい。
(ついて行ってみよう)
ライナスは部屋を出て、その人物の後を追うことにした。
足音を立てないよう注意深く歩きながら、黒いローブの人物を追跡する。
人物は寮を出て、学院の敷地内を移動していく。目的地は図書館のようだった。
(図書館に何をしに行くんだろう……?)
図書館は夜間は閉鎖されているはずだが、その人物は何らかの方法で中に入っていく。
ライナスも図書館に近づき、窓から中の様子を覗いてみた。
暗い図書館の中で、その人物は特定の本棚に向かっている。そして、何冊かの本を取り出している。
(あれは……禁書の棚じゃないか?)
ライナスは驚いた。エレナ教授が案内してくれた時に説明された、危険な魔法書が保管されている区域だった。
(まずい……これは報告すべきかもしれない)
しかし、その時にその人物がこちらを向いた。
フードを深くかぶっているため顔は見えないが、明らかにライナスの存在に気づいている。
(見つかった……!)
ライナスは慌てて身を隠したが、時既に遅し。黒いローブの人物が図書館から出てきた。
「そこにいるのは誰だ?」
低い男の声が響く。
ライナスは逃げるべきか、正直に出てくるべきか迷った。
「隠れても無駄だ。魔法で感知している」
観念したライナスは、物陰から出てきた。
「あなたは……?」
黒いローブの人物は、ライナスを見て少し驚いたようだった。
「子供……? こんな時間に何をしている?」
「あの……トイレに行こうとして……」
ライナスは咄嗟に嘘をついた。
「トイレは寮の中にあるだろう」
「道に迷ってしまって……」
「ふむ……」
人物はライナスをじっと見つめている。その視線に、ライナスは恐怖を感じた。
「君は新入生の特待生だな」
「はい……」
「噂は聞いている。7歳で複合魔法を使えるという……」
人物がゆっくりとライナスに近づいてくる。
「興味深い才能だ」
その時、別の方向から足音が聞こえてきた。
「誰かいるのか?」
聞き覚えのある声だった。アルベルトだ。
黒いローブの人物は舌打ちをして、素早く姿を消した。魔法による瞬間移動のようだった。
「ライナス君? こんな時間にどうしたんだ?」
アルベルトが駆け寄ってくる。
「アルベルトさん……」
ライナスは安堵した。
「怪しい人がいたんです」
「怪しい人?」
ライナスは先ほどの出来事を詳しく説明した。
「黒いローブを着て、禁書の棚から本を取り出していました」
アルベルトの表情が深刻になった。
「それは……重大な問題だね」
「報告した方がいいでしょうか?」
「そうだね。でも、まず私が調べてみよう」
アルベルトが図書館の中を確認する。禁書の棚を調べると、確かに何冊かの本が抜き取られていた。
「本当に盗まれているようだ」
「どんな本ですか?」
「『闇魔法大全』『禁呪の詳説』『魂操作の理論』……どれも危険な内容の本だ」
アルベルトが重々しく言う。
「これらの知識が悪用されれば、大変なことになる」
「すぐに先生たちに知らせましょう」
「そうだね。でも、君のことは内緒にしておこう」
「内緒に?」
「あまり事件に関わっていると思われると、君が狙われる可能性がある」
アルベルトの配慮に、ライナスは感謝した。
「分かりました」
「それと、しばらくの間は夜間の一人歩きは控えるように」
「はい」
翌朝、学院内は大騒ぎになっていた。
「禁書が盗まれたって本当?」
「誰がそんなことを……」
「内部の犯行かもしれないね」
学生たちの間で様々な憶測が飛び交っている。
「ライナス、昨夜は何か聞こえなかった?」
マーカスが心配そうに聞いてくる。
「いえ、よく眠っていたので……」
ライナスは嘘をつくことに心が痛んだが、アルベルトの助言に従うことにした。
「それにしても、誰が禁書なんて盗むんだろうね」
「悪い魔法使いかもしれません」
「黒魔法使いってやつ?」
「そうかもしれませんね」
午前の授業中、マクシミリアン院長が緊急集会を開いた。
「学生諸君、昨夜重大な事件が発生しました」
院長の声が講堂に響く。
「図書館の禁書区画から、数冊の危険な魔法書が盗まれました」
学生たちがざわめく。
「この件について、何か知っている者がいれば直ちに申し出てください」
「また、しばらくの間は夜間の外出を禁止します」
院長の発表に、学生たちは緊張した表情を見せた。
「犯人が捕まるまで、警備を強化いたします」
集会の後、ライナスはアルベルトの研究室を訪れた。
「院長先生には報告されたんですか?」
「ああ。ただし、君が目撃したという事実は伏せておいた」
「ありがとうございます」
「それより、気になることがある」
アルベルトが深刻な表情を見せる。
「あの犯人は、君のことを知っていたようだね」
「はい……特待生だということを……」
「それだけではない。君の能力について詳しく知っているようだった」
ライナスは不安になった。
「まさか、僕が狙われているんでしょうか?」
「可能性はある。君の特殊な才能に目をつけている者がいるかもしれない」
「どうしたらいいでしょうか?」
「まず、絶対に一人で行動しないこと」
アルベルトが指示を出す。
「授業以外の時間は、なるべく私と一緒にいるように」
「はい」
「それと、『魔法理論解析』の使用は当分控えよう」
「分かりました」
その日の午後、実技の授業中に新たな問題が発生した。
「ライナス、少し手加減してもらえるかな?」
上級生のロバートという貴族の学生が、嫌味たっぷりに言ってきた。
「手加減……?」
「君の魔法が優秀なのは分かるが、あまり目立ちすぎると周りが困るんだ」
ロバートは3年生で、貴族出身の学生たちのリーダー格だった。
「すみません、そんなつもりは……」
「平民の分際で調子に乗るなよ」
ロバートが小声で脅すように言う。
「特に君みたいな田舎者は、身の程を弁えるべきだ」
ライナスは怒りを感じたが、ここで感情的になるのは得策ではない。
「気をつけます」
「それでいい」
しかし、ロバートの嫌がらせはそれだけでは終わらなかった。
実技の練習中、ライナスが魔法を発動しようとした時、何者かが妨害魔法をかけてきた。
「あれ……?」
ライナスの魔法が不安定になり、制御を失いそうになる。
慌てて魔法を停止したが、危うく事故になるところだった。
「大丈夫かい、ライナス?」
教授が心配そうに駆け寄ってくる。
「はい、大丈夫です」
「魔力の流れが乱れていたようだが……体調が悪いのかな?」
「少し疲れているかもしれません」
「それでは今日は見学にしておこう」
ライナスは納得できなかった。明らかに誰かが妨害したのだ。
周囲を見回すと、ロバートが薄い笑みを浮かべているのが見えた。
(あいつか……)
しかし、証拠はない。告発したところで信じてもらえるだろうか。
授業後、マーカスが心配そうに話しかけてきた。
「ライナス、本当に大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「でも、明らかに魔法が妨害されてたよね」
マーカスも気づいていたのか。
「妨害……?」
「僕にも見えたよ。誰かが意図的に君の魔法を乱したんだ」
「そんなことが……」
「恐らくロバート達の仕業だね」
マーカスが憤慨している。
「あいつらは平民の特待生が気に入らないんだ」
「そうなんですか……」
「でも、先生に言っても証拠がないから難しいかもね」
ライナスは困った状況に置かれていることを理解した。
その夜、アルベルトの研究室でこの件について相談した。
「妨害魔法をかけられたのか……」
「はい。明らかに意図的でした」
「それは問題だね」
アルベルトが考え込む。
「貴族と平民の対立は、この学院の古い問題なんだ」
「昔からあることなんですね」
「そうだ。特に才能のある平民が現れると、既得権益を脅かされると感じる貴族がいる」
「僕はそんなつもりはないんですが……」
「君に悪意がなくても、相手にはそう見えるんだ」
アルベルトが続ける。
「しかし、妨害魔法は一線を越えている。下手をすれば大怪我に繋がりかねない」
「どうしたらいいでしょうか?」
「まず、証拠を集めることだ」
「証拠……」
「妨害魔法の痕跡を記録できれば、告発することができる」
アルベルトが新しい魔道具を取り出す。
「これは魔法記録器だ。魔法の痕跡を記録することができる」
「そんな便利な道具があるんですね」
「私が研究用に作ったものだ。これを使って、次に妨害された時の証拠を押さえよう」
「分かりました」
翌日の実技の授業で、ライナスは魔法記録器を隠し持って参加した。
案の定、ロバート達が再び妨害してきた。
今度はより巧妙で、ライナスの魔法が暴走しそうになる。
しかし、ライナスは前世の知識とこれまでの経験を活かして、何とか制御を保った。
そして、魔法記録器がしっかりと妨害魔法の証拠を記録していた。
「よし、これで証拠は十分だ」
授業後、アルベルトが記録を確認した。
「明確に妨害魔法の痕跡が残っている」
「これで告発できますね」
「そうだ。院長に報告しよう」
しかし、その時新たな問題が発生した。
「ライナス君、ちょっと来てもらえるかな」
エレナ教授が深刻な表情で現れた。
「はい」
「君について、少し話があるんだ」
エレナ教授の研究室に向かう途中、ライナスは不安になった。
(まさか、何かバレてしまったのだろうか……)
研究室に着くと、エレナ教授以外にも数名の教授がいた。
「座ってください」
「はい……」
「ライナス君、君の魔法について少し質問があります」
「質問……?」
「君の魔法は確かに優秀ですが、時々常識では説明できない現象が起きています」
ライナスの心臓が早鐘を打った。
「どのような現象でしょうか……?」
「魔法の効率が異常に高いこと、複合魔法の制御が完璧すぎること、そして……」
エレナ教授が続ける。
「まるで魔法の構造を完全に理解しているかのような精密さです」
(まずい……『魔法理論解析』のことを疑われている……?)
「どこで、そのような技術を学んだのですか?」
「師匠のアルベルト先生に教わりました」
「アルベルト先生の指導だけで、そこまでの技術が身につくでしょうか?」
教授たちの質問は徐々に厳しくなってきた。
「正直に答えてください。君には何か特殊な能力があるのではありませんか?」
ライナスは絶体絶命の状況に追い込まれていた。
転生者としての秘密と、『魔法理論解析』のスキル。
どちらも絶対に知られてはいけない秘密だったが、教授たちの疑いは確信に近づいているようだった。
(どうすればいいんだ……)
ライナスの新たな試練が始まろうとしていた。
王立魔法学院の闇は、想像以上に深く、複雑だった。
そして、その闇はライナスを確実に飲み込もうとしていた……