不意に聞こえた軽やかな笑い声が、
教室の後ろ、窓際に座る春人は、顔を上げるだけで室内の全体を見渡せる。
笑い声は春人の対角線上から発せられていた。
そこでは、数人の女子が席に座って雑談をしていた。
四月から同じ高校一年生となった彼女達の輪の中に、春人は見慣れた女子の姿を見つける。
あるいは、いまだに見慣れない幼馴染の姿を。
春人はすぐに視線を手元のスマートフォンに戻した。
おおきな画面の中では、世間を賑わせる話題がひしめいている。
政治、芸能、娯楽、事件――。
『増加するミューテイション犯罪。住民からは不安の声も』
ふと視界に入ったおおきな見出し。
それは春人の気持ちに暗い影を落とした。
画面上で指を滑らせ、その見出しを見なかったことにしても、《ミューテイション》という単語は次々と現れる。
『ミューテイション犯罪の取り締まり強化を施策として掲げ……』
『有名俳優の弟がミューテイション。取材班は真偽を確かめるべく……』
『ミューテイションを題材にした過激な対戦ゲームについて、発売前からすでに賛否が飛び交い……』
春人はちいさく溜息をつき、スマートフォンの画面をホームに戻した。
「なにを見ているの?」
突然、春人の真横から声が降ってきた。
春人は肩を跳ね上げ、ガタン、とおおきく椅子を鳴らす。
高校一年生になって約三ヶ月。幼馴染とその恋人以外とは滅多に話さない春人にとって、《教室の中でクラスメイトに話しかけられる》ことほど意外なことはなかった。
「あっ、ごめん。驚かせた?」
声の主も春人の反応にやや驚いた様子で、気遣いの言葉をかけてくる。
春人は視線を動かし、隣を見上げた。
「……
「うん。こうして話をするのは初めてだね、小峰君」
アーモンド状の目を喜ばしげに細める女子は、クラスメイトの
彼女は春人と対象的に明るい性格で、男女関係なく周りの生徒達とすぐに馴染める気さくさを兼ね備えている。
しかし、その陽気さが春人自身に向けられることは今までなかった。
だからこそ春人は、今後も必要以上に話しかけられることはないだろうと考えていた。
ところが、恵美香は今、春人の隣に立っている。
彼女の方から春人に話しかけてきている。
「いつも休み時間にスマートフォンを見ているよね? なにを見ているの? SNS? ゲーム?」
「SNS、ですけど……」
「クラスメイトなんだから敬語じゃなくていいよ」
恵美香は赤茶色の癖毛を揺らして愛らしく笑う。
そのあまりに愛想のよい雰囲気に、春人は余計な警戒心を抱いてしまった。
クラスメイトが意味もなく自分に話しかけてくるはずがない。
春人は
「そんなに警戒しないで。今のはちょっとした雑談! ほんとうは小峰君にね、手伝ってほしいことがあるんだ」
「手伝ってほしいこと?」
「荷物運びというか、備品整理? とにかく、すぐに終わるから!」
恵美香の楽しげな声はよく通る。
そのため、春人はすでに教室中の注目を集めていた。
――なぜ秋野恵美香は、小峰春人に話しかけているんだ?
そのような疑問を含む視線を春人は肌で感じた。
おそらく、対角線上にいる幼馴染にも見られていることだろう。
段々といたたまれない心地になった春人は、警戒心を残しつつ、おもむろに頷いた。
「わかりました。お手伝いします」
「敬語じゃなくていいってば」
恵美香は周囲の視線など気にした様子もなく、朗らかに笑うと踵を返した。
「それじゃあ、私についてきて」
軽やかな足取りで教室を出ていく恵美香。
春人は暫しぼんやりと恵美香の背中を見つめていた。
すると、廊下に出た恵美香が春人の方を振り返り、笑顔のまま「早く、早く」と彼を手招いた。
そこでようやく春人は席から立ち、おそるおそる恵美香のあとを追いかけた。
その際に、彼は右手をズボンのポケットに押し込む。
あまり行儀のよい行為ではないが、黒い右手を出したまま歩くとそれはそれで不要な注目を浴びてしまうため、春人はいつもそのようにしていた。
春人がついてくる仕草を見せたことで恵美香も満足したのか、彼女は満面の笑みを浮かべると再び歩き出した。
恵美香は廊下の喧騒をスイスイと通り抜け、階段近くの空き教室へと入っていく。
予備として残されているその教室は授業で使われることがほとんどなく、もっぱら昼時の溜まり場として生徒達に利用されている。
しかし、授業と授業の間の短い休み時間にそこへ訪れる者はいないようで、さきほどまで春人達のいた教室と比べたら閑散としていた。
扉をくぐっただけで喧騒が一気に遠退き、ふたりきりという現状を浮き彫りにさせる。
春人は自分達以外に誰もいない空間を見回した。
『手伝ってほしいことがある』と恵美香は言ったが、その手伝いとはなにか、春人は検討もついていなかった。
運び出すような荷物もなければ、整理するための備品もない。
そもそも、その程度の手伝いであれば春人でなくてもよいはずなのだ。
恵美香に声をかけられるのが、春人でなければならなかった理由。
――まさか、《ミューテイションの能力》を必要としている?
嫌な予感が脳裏をよぎった直後、窓辺で立ち止まった恵美香が春人の方に振り返った。