「ごめんね。手伝ってほしいことがある……っていうのは、ウソなんだ」
謝罪に反して恵美香の表情は柔らかく、悪びれた雰囲気は感じられない。
「ほんとうは、小峰君に聞いてほしいことがあったの」
春人は密かに身構えた。
よくないことを言われるに違いない、と彼は考えたからだ。
それは春人が《ミューテイション》だからこそ思い浮かんだ懸念である。
すると恵美香はゆっくりと身体を折り曲げ、辞儀の姿勢を取って言った。
「私、秋野恵美香は小峰春人君のことが好きです。私と付き合ってください」
静かな教室の中に恵美香の言葉が残留する。
春人は完全に虚をつかれた顔になり、呆然と恵美香を見つめた。
――告白をされた。
それを理解してなお、春人は現実味を得られず困惑してしまう。
動揺よりも先に、疑問がわいた。
「えぇと、僕? 同姓同名の間違いじゃなくて?」
「きみだよ、きみ。間違いなく――右手の黒い、小峰春人君」
身体を起こした恵美香はニコリと笑い、春人の目をまっすぐに見る。
「ミューテイションのあなたが好き」
春人はますます困惑した。
告白をされたという現実味は、まだわいてこない。
胸中で膨らむ疑問が興奮を押し退け、告白をされた理由を探す。
そして、その疑問は自然と春人の口からこぼれ落ちた。
「ミューテイションを好きになる理由がわからない」
「なぜ? ミューテイションを好きになってはいけない理由もわからないよ」
「それは、だって……」
モゴモゴと口の中で言葉を濁す春人。
彼の煮え切らない態度を見た恵美香は、顎に手を当ててすこし考える素振りを見せると、
「私、小峰君の顔が好みなんだよね!」
溌剌とした声で言い切った。
「格好いいわけではないけど、バランスも悪くないその素朴な造形。けっこう好きなの」
「褒めているの? 貶しているの?」
「褒めているんだよ!」
恵美香はコテンと小首を傾げ、春人の顔を覗き込む。
間近に近づいた恵美香の愛らしい顔。
さすがに春人も突然の接近に動揺し、今度こそ胸を高鳴らせた。
慌てて春人は一歩下がり、恵美香から距離を取る。
「ごめん。僕は誰かと付き合うつもりはないんだ」
そしてすぐに、恵美香の告白を断った。
彼女に好意を持たれていること自体に悪い気がしないのは事実だ。
けれど、春人の中では喜びよりも困惑、不安の方が勝った。
それらはすべて、春人自身が《ミューテイション》であるという引け目から来る感情であった。
「ふーん。そっか……」
はたして恵美香は落ち込む様子を見せなかった。
まるで、初めから断られることを知っていたかのような反応だった。
「じゃあ、友達から始めよう!」
再び恵美香は溌剌と宣言し、ポカンとする春人に右手を差し出した。
「よろしくね、小峰君!」
春人は戸惑いの視線を恵美香の手に向ける。
彼はズボンのポケットから右手を出さなかった。
その春人の態度に恵美香はハッとした表情を浮かべ、すぐさま右手を引っ込める。
「握手はイヤだった?」
「イヤというか……あまり右手で人に触りたくないんだ」
俯きがちに春人は告げる。
真っ黒な右手。ミューテイションの証。
そのようなものを人目に晒したり、まして誰かと接触することに春人は使いたくなかったのだ。
春人は気まずさを抱いて恵美香から視線を逸らす。
そのせいで彼は、恵美香の次の行動を察知できなかった。
不意に、ふわりと甘いシャンプーの香りが春人の鼻孔を擽った。
同時に春人は温もりに包まれた。
なにが起きたのか、彼は理解できなかった。
自身の背中に回された両手に力が込められ、豊満な胸の柔らかな感触が自身の胸元に広がったとき――彼は、恵美香に抱きしめられたことに気付いた。
ドクン、と心臓がおおきく跳ねる。
跳ねたなんてものではない。心臓が意志を持ち、胸骨を思いきり強く叩いたのではないかというほどの衝撃が、春人の胸中に走った。
「これからよろしくね、小峰君っ」
恵美香の声と、吐息が、春人の耳を撫でる。
春人がなにもできずに硬直している間に、恵美香は春人から身体を離した。
そして彼女は、動かない春人を見て首を傾ける。
「もしかして……小峰君、照れている?」
「……照れないわけがないでしょ」
春人は掠れた声を絞り出し、真っ赤に染まった顔を左手で擦った。
「秋野さん、そういうのはあまりよくないかと」
「友達としてハグをしただけだよ。友好の証。たぶん海外ではよくあること!」
「ここは日本だから、軽率なハグは控えてほしい」
強い口調で春人が言うと、恵美香は嬉しそうに表情を綻ばせた。
「んふふ。小峰君も純粋な男子高校生だね。ちょっと安心した」
彼女はそのように言うと春人の横を通り抜けた。
「それじゃあ、私は先に教室に帰るね」
春人はなにも言えずに恵美香の姿を見送る。
すると恵美香は教室を出る直前、春人の方を振り返った。
「早く小峰君も、私のことを好きになってね!」
極上の笑みを浮かべて春人に手を降る恵美香。
満開の花を連想させるその愛らしい笑顔を、春人は不覚にも『かわいい』と思ってしまった。
恵美香は軽やかな足取りで教室から出ていく。
その足音は、すぐに喧騒の中に呑まれて消えた。
あとに取り残されたのは春人だけだ。