ある小雪の舞う寒い夜。厚手のプラダのコート、上質な毛皮の帽子と揃いのマフラーを身に着けた、いかにも良いところの老婦人。エスコートする老紳士も全身ゼニアで固めている。スッとしたスーツとコート、スラックスから帽子、ネクタイ、手袋に至るまで全てゼニアだ。
* * *
この国には、絶対の指導者がいる。十全十美、百下百全の
かく言う私自身も共産党員の一人である。槐門棘路には遠く及ばず、一般党員より少し力がある程度の信者に過ぎない。周主席と同じ
桂林一枝の私が後援会に入ったのは、周主席が今の地位に就くずっと前、「彼こそ次の首席候補だ」との噂が囁かれるようになる少し前の話だ。そう考えると、当時の後援会入りの条件は今より緩かったのだろうか。よく覚えていないが、当時から厳しかったような気がする。とすると、表には出なかったものの、当時から次期主席の座が内定していたのだろうか。
二十年前に生まれた娘も択言択行の余地なく、八歳の誕生日、周主席が就任した年に入会を申請した。当時の身体調査は特に厳しく、娘の交友関係や普段の生活における、ありとあらゆるものが俎上に載せられ、徹底的に洗われた末、一年後に承認された。私の時はもっと迅速だったので、やはり今よりは緩かったのだろう。
こうして、私、私の妻、私の娘、揃って周主席を熱心に支持する共産党一家になった。この国をここまで発展させ、あまねく人民に平和と豊かな暮らしを享受させる海内奇士、周銀平様! それを支持できないなど非国民である! いや、非国民という言葉では生ぬるい。国賊と呼ぶべきである!
長く共産党への忠誠を誓ってきた私は、党大会で周主席本人に何度かお目通りさせて頂いた。
二度目にお会いした際は、一度目より緊張せずに済んだ・‥というのは嘘で、やはり緊張で満足に喋れなかった。気を利かせた妻が色紙を用意していて、その場で頂いた親筆
私の熱心な信心ぶりに感化されたか、娘は私以上の共産党信者に育った。物心つく前は周主席に天真爛漫な子供の姿を見せていたが、十五歳を過ぎる頃には「化粧がまだだから待って!」などと言うようになり、功徳兼隆で清絶高妙な周主席を前にして、今にも黄色い歓声を上げんばかりであった。更に十八歳を過ぎると、今度は逆に下を向き
英雄好色と言うのだろうか。老當益壮であろうか。稀代の英雄、周主席も例に漏れない人物であった。今思い返せば、噂話は色々と聞いていた。あそこの御令嬢が周主席の愛人になったらしい、だとか、手籠めにされて泣き寝入りしたようだ、といった具合である。中には酷い噂話もあり、それは私の耳に入っても脳までは浸透していなかった。馬耳東風だったのである。
娘の二十歳の誕生日は、偶然、周主席の開催する懇親会と同じ日だった。娘はいつも以上に念入りに化粧をし、おろしたての高価な衣装を身に纏った。懇親会に出席すると知った娘に「誕生日
断れるわけがない。飲み過ぎてしまった。娘にも酒が供じられたらしく、初めて口にする大人の味に腰が抜けてしまった様子。私が覚えているのは、そこまでだ。妙に意識がぼんやりして、眩暈がするので便所へ行き、そこで嘔吐した覚えがある。しかし断片的な記憶だけで前後不覚、家に帰った道筋さえ判然としなかった。
「
翌日。深刻な表情の娘。泥塗れで、
「何も覚えてないの・‥」
泣き腫らした双眸でそう切り出す娘。そこへ妻が追い打ちをかける。
「強姦されたみたい」
「え・‥?」
脳が理解出来ない不可解な言葉。強姦?
「どこで、誰にというのは分からないわ」
「それは・‥間違いないのか?」
「ええ、私が確かめました。破瓜の跡があってね・‥」
誰だ!? いつ、誰が・‥娘にこんな事をした奴! 絶対に許さない! 殺してやる!
「私、昨日の後援会でお酒を頂いて、その後の記憶がないのよ。娘もよく覚えていないって」
そういえば私も・‥記憶が曖昧だ。後援会で飲んだところまでは覚えているのだが。その酒が悪いものだったか、度数の高い酒だったか。それで意識を失い、その後、どこかで誰かに襲われた・‥?
「今日、病院に行こうと思うの。検査して確かめないと」
「お前もそれでいいか?」
「うん・‥ごめんね爸爸 。折角の誕生日だったのに・‥」
「何を言っている! お前は何も悪くない! 酔眼朦朧を奇貨として、襲おうなどと考える輩が悪いのだ!」
もう涙も枯れ果てたのだろう。憔悴し切った様子の妻と娘。「仕事を休もうか」そう言うと、妻は「私が連れて行くから大丈夫」力なく返答。この日、妻と娘だけで病院に行かせた事を、私は一生後悔する。
「お電話です。奥様から」
退社時間三十分前の夕刻だった。部下が私の執務室まで呼びに来た。仕事中は
「分かった。こちらに回してくれ」
部屋の子機を取り上げる。
「
「どうした、そんなに慌てて。病院で何か・‥何か分かったのか?」
「違うの! 検査結果は予想通りだったわ。そうじゃなくて・‥娘が・‥あの子がね・‥」
受話器の向こうですすり泣く声。何だろう。嫌な予感がする。
「どうした、落ち着け。泣いていたら分からんだろう」
「・‥自殺したわ」
妻が出産を行った知り合いの産婦人科。そこでの検査は、昼前に終わったという。両足を台座の上に乗せ、中年男性に股間を拡げて診察されるという、未婚女性には屈辱的な検査。膣の内部には、男性の精液の残滓があった。間違いなく強姦された痕跡。少し時間はかかるが、体液を調べればDNAは判明する。但し、そのDNAが誰と一致するか、簡単には分からないだろう。もし知り合いで誰か心当たりがあるのならば、DNA検査は可能だ。というような話だった。
妻は病院から戻り、残っていた酒気と疲労からぐっすり眠った。そしてつい先ほど起きた時、娘は浴室で首を吊って死んでいた・‥妻の話を要約すれば、そういう事だ。
畜生ッ! 大事に育てた娘の純潔だけでは飽き足らず、残り長かった人生まで奪うのか! 今日この日から、私は復讐の鬼となる! 天地神明に誓って、絶対に犯人を見付け出す! 地獄の底まで追い詰めて、娘の味わった何倍、何十倍もの苦しみを与えてやるからな!