数日の葛藤の末、私が出した結論。
「離婚してくれ」
「は!? 何言ってるの!?」
「娘も死に、仕事も失って、今の私には何の価値もない。そうだろう?」
「私たちは家族よ! 娘が・‥あの子が死んだからこそ、残った二人、協力し合わなくてどうするの!」
「年老いた母がいるだろう。田舎に帰って面倒を見てやれ」
「嫌よ! おいそれと帰れない。帰っても追い返されるだけ!」
「では・‥この家をやろう。一人で住むには広いから、売って新しい家を買いなさい。この家なら、そうだな、新築五軒分にはなる。老後の心配もないだろう」
「そんな話をしてるんじゃない! 我丈夫、何か企んでるのね!?」
「・‥」
「ほら、すぐ顔に出る! 私に秘密で何をしようっていうの!? ねえ、もしこのまま別れるなら、私公安に言うわ! 我丈夫が何かするから気を付けてって!」
「それはまずいな」
「でしょう!? 我丈夫が何か抱えてる、そのくらい私にだって分かります。きっと娘のため・‥私に迷惑をかけないように、別れて何かするつもりね。でも駄目、許さない。私も手伝います」
悲壮な覚悟で詰め寄ってくる。もう隠し通すのは難しい。
「ねえ、話して? 犯人は誰? 何をしようとしているの?」
「・‥周だ」
「周?」
「周銀平」
「まさか・‥そんな・‥」
「覚えているだろう。最初の党大会の日。周⽩痴めと握手をした」
「しました。我丈夫は緊張で固まって・‥まさか!」
「そうだ。あの日、入手した毛髪を大切に取ってあっただろう。あれだ」
「そんな事って・‥」
妻も、信じられないといった表情を浮かべた。しかしそれも束の間。悪事千里、周白痴の噂話は妻の耳にも届いており、私よりも深く脳内に刻み込んでいた様子。腑に落ちたという表情に変わった。小さく「殺す」とだけ言うと、「分かったわ、やりましょう」妻も覚悟を決め、張眉怒目になった。
具体的にどうするか、となると難しい。第一の問題は、実行場所。最初の握手の時と同じ、党大会が最も接近し易い。警備の人員にも、党員・党幹部にも顔見知りが多く、何より周白痴本人から認知されている。警戒は薄いだろう。
第二の問題は、暗殺方法。銃器や刃物を持って近付くのは不可能だ。持ち物検査、金属探知機ですぐに発見されてしまう。智能手机は勿論、財布に入った硬貨、身に着けた腕時計や宝飾品さえも取り上げられてしまうのだ。仮に党大会に刃物一本持ち込もうものなら、即座に取り押さえられ、死ぬまで牢獄から出られない。
第三の問題は、決行時期。三年後の党大会は、周白痴の国家主席就任十五周年になる。権力と地盤を誇示する置酒高会になるだろう。奴にとっては酒池肉林か。来賓来客も多く、その分警備は厳重になるが、顔を知られている私なら接近出来る自信がある。顔見知りの私以外に警戒を向けなければならないから、そこが狙い目で逆に好機となる。木を隠すなら森の中、暗殺者を隠すなら人混みの中。
暗殺方法が最大の難問。腹を割って妻に相談した。すると、心当たりがあるという。「詳しい事は知らないけれど・‥」そう切り出した内容は、要約すればこうだ。
妻の故郷、そのまた更に山奥。決して表に出る事はない、殺しを生業にする一家の隠れ里がある。そこには様々な殺人方法が伝わっており、中には自らの肉体を凶器と化す手段もある。噂話程度のもので、本当にそんな里があるのか、また、どのような暗殺方法があるのか、全ては謎の
千思万考。熟慮断行。妻の話を信じて隠れ里を訪ねようと決めた。好都合にも職を失い、身軽になった。家を引き払うのも、人間関係にも未練はない。虚心坦懐。妻と二人で噂を辿り、どんな小さな情報、僅かな手掛かりでもあれば赴き、丸一年の旅の果て、その里に辿り着いた。
これだけ秘匿されている里である。住民は皆、冷眼傍観。碩師名人の門を叩き、不撓不屈の精神で交渉を続け、暗殺したい対象は伝えぬまま、何とか『自らの肉体を凶器と化す手段』を伝授して貰えるところまで漕ぎ着けた。
「毒手?」それが秘技の名である。「毒手を得るには、並々ならぬ覚悟と、壮絶な苦行が必要になる。八割以上、その過程で命を落とす。それでもやるか?」妻は顔面蒼白になったが、私には最初から覚悟がある。命を含め、全てを失ってでも復讐を果たす覚悟だ。「やります!」一瞬の躊躇もなく。自分でも驚くほど明瞭な声で応じる。
通常、暗殺対象に合わせた毒物を調合する。例えば蜂の毒にやられた事がある相手なら、同じ毒を用意すると効果が高い。逆に、一度毒に侵されていると効果がなくなる場合もある。効き目が高いと思われる毒を二種類から三種類混合すれば、凶悪な殺人兵器が完成する。毒は全部で三十種類あるという。当然、どれもが人ひとりを瞬時に、確実に死に至らしめる猛毒である。「どの毒にする?」そう問われた私は、「全部でお願いしたい」と返答した。
「何を莫迦な。一種類で死の危険があるのだぞ。それを数種類、爪先から体内に取り込む。そこで死の可能性が八割。三十種類全部など自殺に等しい」
「ですが、三十種類なら確実ですよね? 確実に仕留められますよね?」
「当然至極」
「なら全部です」
「どれか一つ、指先から一滴でも入れば、瞬時に死ぬ猛毒だ。だから毒を取り込む前に、手首から肩までの腕全体を、各種の毒に応じた解毒薬で満たす。心臓から運ばれた血流が指先で毒化、静脈を通って心臓に戻るまでに無毒化する仕組みだ。だが確実とは言えないから八割死ぬし、仮に成功しても毒に蝕まれた部位から壊死、結局五年以内に死に至る。指先から徐々に、生きながら肉体が腐り落ちていく恐怖が分かるか?」
「無問題です」
「苦しむぞ?」
「娘の苦悩に比べれば」
「死ぬぞ?」
「もとより覚悟の上。問答無用です」
己の肉体を、命を、凶器と化す。不惜身命。どんなに苦しくとも百折不撓で断行する。娘の仇、周白痴を確実に仕留める。それまでは死ねない。死ぬわけにはいかない! 絶対に修行に耐える。何度でも死の淵から甦り、必ず最強の毒手を手に入れてみせる!
* * *
ある小雪の舞う寒い夜。厚手のプラダのコート、上質な毛皮の帽子と揃いのマフラーを身に着けた、いかにも良いところの老婦人。エスコートする老紳士も全身ゼニアで固めている。スッとしたスーツとコート、スラックスから帽子、ネクタイ、手袋に至るまで全てゼニアだ。
『周銀平 国家主席 就任十五周年 記念式典』と書かれた看板。受付を済ませた老夫婦が中へ入って行く。入口から少し進んだところで、係の者にバッグと財布、ネックレス、腕時計、スマホ、それにベルトのバックルまで外して預ける。
会場内では千人を超すパーティー客が、手に手にグラスを持ち、軽食をつまみながら歓談している。主役である周銀平のスピーチは既に終わり、人の輪から人の輪へ、ゆっくり歩を進めながら挨拶して回る。先刻入ってきた老夫婦の顔を見付け、にこやかな笑顔を浮かべて歩み寄る。
「久しぶりですな。暫く見なかったが息災か」
「はっ。大慶至極」
国の絶対君主を前に緊張しているのか。大粒の汗を浮かべ老紳士は顔を伏せる。
「確か娘さんもいたな」
「娘は来ていませんわ。故郷に帰っておりまして。久しぶりにお目通りが叶って嬉しいですわ。周
ガチガチの老紳士に代わり、老婦人が笑顔で応じる。スッと右手を差し出すと、周主席も大きな両掌で婦人の手を包む。和やかな様子に、SPの視線が外れる。
「それは残念。大変麗しく成長されて。昔の貴方のように」
「まあ、お上手ですわ。ほら我丈夫も」
下を向き体を戦慄かせる老紳士を肘で小突くと、ゼニア製の最高級手袋を外す。その下から覗く両手は皴々に干乾び、灰色というより紫に近い。尖った爪の先まで死色。握手しようと両掌を差し出した動きが止まり、一瞬ギョッとした表情になる周主席。その手の甲に、三本の赤い筋が浮かぶ。凍り付いた作り笑いを浮かべたまま、ゆっくりと、置物の彫像が倒れるようにその場に沈む。
騒然とする場内。阿鼻叫喚。SPが大慌てで老夫婦を取り押さえる。夫婦は抱き合ったまま、駆け付けた複数名の警備員の下敷きになる。満足そうな笑顔を浮かべ、瞼を閉じる夫婦の両頬には、周主席の手の甲と同じ、数条の赤い筋が刻まれていた。