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第3話 お前、俺を誘惑してるのか?


——小林ひるみは、死んだはずじゃなかったの?

けれど今、彼女は確かに私の目の前に、生きて立っていた。


衝撃で思考が停止している私に、容赦のない平手打ちが飛んできた。

「ッ……!」

身体のバランスを崩し、私は無残にも石畳の上へと倒れ込む。


痛みに呻きながら顔を上げると、彼女の目には狂気のような怨念が渦巻いていた。

「刑務所で四年過ごしたくらいで、殺人の罪が消えると思ってるの?

あんたが奪った、私の姉の命は、一生かかっても償いきれない!」


この女……小林ひるみじゃない?妹——小林夜江こばやしよるえだって?

でも、ひるみは孤児だったと聞いていたはず……!


夜江の視線が、私の血まみれの膝に落ちる。

そして次の瞬間——

履いていたヒールで、容赦なくその膝を踏みつけた。


「ぐああああッ!!」

全身を貫く激痛に、思わず絶叫が漏れる。

夜江はその叫びすら楽しむように、ぐりぐりと膝を踏みつけてくる。

「神川県の名だたる名門お嬢様は、ダンスが上手くて、男どもを虜にしてたんですってねぇ? でも……その足、もう使い物にならないんじゃない?」


……もうダメだ。

出所してからずっと、痛みと屈辱の連続。

限界だった。目の前が暗くなってきたとき、ぼんやりと見えた。

——星野侑二がこちらに歩いてくる。


彼は地面に転がる私を見て、眉をしかめた。

一瞬、読み取れないような複雑な感情がその目に宿る。

しかしすぐに視線を夜江に移した。

夜江は途端に涙ぐみ、可憐な演技を始める。

「……彼女の顔を見たら、姉のことを思い出して……つい、手が……」


さっきまでの凶悪さなどまるでなかった。

あの“かわいそうな被害者”を演じる姿——まさに昔の小林ひるみのよう。星野侑二の声は、氷のように冷たい。


「……こんな人間、生きてる価値もない。」

夜江は安堵したようにうなずき、涙混じりの声で訴えた。

「侑二が手を出したおかげで、こいつに宮崎家の後ろ盾があっても、罰から逃れられなかった……でも、姉は命を落としたのに、この女はたった四年なんて……!」


星野侑二の視線が、再び私に落ちる。

静かに歩み寄り、私の前に立ち、上から見下ろすように言った。

「安心しろ……そう簡単には許さない。」

夜江は期待に満ちた目を輝かせる。

「侑二……どうやって罰を?」


星野侑二は無言で腰を屈め、私の顎を掴んで顔を無理やり上に向けさせた。

目を逸らすことも許されず、私は彼の視線とぶつかる。

その唇が、残酷な角度を描いた。

「……そばに置いて、ゆっくり苦しませてやる。」

まるで地獄から下された、絶望の宣告だった。

——身体が、恐怖で震える。

限界だった。

精神も肉体も、もう耐えられなかった。

意識が闇に呑まれ、私はそのまま気を失った。

……


星野侑二は私を放り出すと、冷ややかに命じた。

「地下室に放り込め。」

楠井海が静かに頷き、使用人たちを呼びつけ、私をずるずると引きずっていった。


夜江は悔しげに侑二の背後へ近づいた。

「こんな女、危険よ……いつか侑二まで傷つけるわ!」

「……そんな度胸はない。」

彼は自信満々にそう言い放つ。

「でも、あいつは……姉を殺したのよ?」

「……奴が一番大切にしていたものは、今俺が握っている。」

そう言い残し、振り返ることもなく立ち去った。

夜江はその背中を睨みつけながら、唇を噛みしめた。

「どうして……あの女、監獄で死ななかったのよ……!」


―――

ザザ……という不気味な音とともに、私はうっすらと目を開けた。

そこは……薄暗く、じめじめした地下室。

空気は腐臭に満ち、まるで墓穴の中に放り込まれたかのようだった。目が慣れてくると、鋭い痛みが膝から、そして……足から。

——足を見た瞬間、私は絶叫した。

「ひっ……!!」

黒くて大きなネズミが、私のすねを食いちぎろうとしていた。


私は震える腕でそれを払いのけ、なんとか身を起こす。

暗い電灯の下、血まみれの膝と、何箇所も噛み千切られた脛が目に映る。

このままじゃ、命さえ危うい——


だけど、私はまだ死んではいけない。

両親の弔いも済んでいない。

兄の遺体も見つかっていない。

そして——私はまだ、自分の無実を証明していない。私は生きなければならない。

自分にそう言い聞かせ、私は立ち上がった。


星野侑二は、私が逃げるとは思っていないのだろう。地下室の扉は開いていた。

私は壁伝いに這いながら、やっとの思いで外へ出た。

ここは星野邸の裏庭。廃棄されて久しい場所。

主屋までは距離があるが、幸い、裏道を知っていた。本来なら十分もかからない道のりを、私は三十分かけて進んだ。

そして、主屋の脇からこっそり中に入り込む。


四年経ったというのに、邸内は何も変わっていなかった。

まるで……私だけがいなかった時間が、存在しなかったかのように。私は足を引きずりながら、侑二の寝室へ向かった。

部屋の色調は、相変わらずの黒とグレー。

冷たくて、息苦しくて、まるで生気のない場所。私は迷うことなく、ベッド脇の引き出しを開ける。

そこには、かつて私が用意した救急箱が——

星野侑二の古傷のため、私が揃えた薬が、まだそのまま残っていた。

あんなに私を憎んでいるはずなのに、処分すらしていないなんて……

ただ、使う機会がなかっただけなのかもしれないかしら……


私は薬箱を持ち、静かに部屋を出ようとした。

だが、姿見の前を通ったとき、目に映ったのはボロボロに傷ついた自分の姿。

破れた服では、ほとんど肌を隠せていなかった。私は躊躇いながら、クローゼットへ向かい、侑二のシャツを一枚羽織った。

そのとき——

部屋のドアが、音を立てて開いた。

……星野侑二が、戻ってきた。


彼の視線が、鋭い刃のように私の体を斬りつける。

私はとっさに身をすくめ、慌てて言葉をつむいだ。

「わ、私は……服を探していただけで……!」

だが、侑二は一言も返さず、無言で歩み寄る。

そのまま、私の手首を掴み——

勢いよく、ベッドに叩きつけた。

「ビリッ」と嫌な音がして、着たばかりのシャツが裂ける。


冷たい指が、私の鎖骨をなぞる。

全身が無意識に震える。

そのとき、彼の指が喉元を掴んだ。


「……まだ足りなかったようだな。俺の寝室に忍び込んで、俺を……誘惑するなんてな。」

——その声は、まるで氷の刃だった。


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