息ができない——
星野侑二に喉を締め上げられ、私は声を出すこともできなかった。ただ必死に目で訴える。
お願い、信じて……私は、あなたを誘惑なんてしてない。
けれど、その願いも虚しく、侑二の目には憎悪と嫌悪が渦巻いていた。
「もうその芝居は通用しない。お前の薄っぺらな“無垢”なんて、何度も見てきた。二度と騙されない。」
私は首を振る。
違う、本当に違うのに……!
そのとき、服の中に隠していた薬が、ぽろりと床へと落ちた。
薬を見た星野侑二が、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに冷酷な光を宿し、低く問いただした。
「……薬を取りに来た、だと?」
私は観念し、小さくうなずいた。
「……そうか。お前も、死ぬのは怖いんだな。」
その言葉とともに——
彼は私の身体を思い切り地面へと叩きつけた。
「ぐっ……!」
全身を貫く激痛。
骨が砕けたかのように、あちこちが軋み、痺れ、熱を持つ。
彼は無言でネクタイを解き、ベッドから降りる。
私はその姿が怖くて、身を小さく丸め、うつむいたまま息を殺す。
視線を合わせれば、また「演技だ」と罵られる——
彼の怒りを煽るのが怖かった。そんな私を見て、侑二は嘲るように鼻を鳴らす。
「生きたいなら……俺に一生懸命お願いでもしてみろ。」
身体がビクリと震える。
——懇願する?
それで命が助かるなら……でも、ほんとに彼が許してくれるの?
……だけど、懇願しなければ、今度こそ本当に死ぬ。
私は、生きなきゃいけない。
「……お願いです、星野社長。少しだけ、薬をください……」
震える声で、這い寄るように彼の足元に頭を垂れる。
——惨めな姿だった。
だが、生きるためには、これしかなかった。そんな私を見下ろす侑二の表情が、さらに険しくなる。
彼は私の顎を掴み、唇を歪めた。
「生きるためなら、ここまで下劣になれるのか。いや……お前は最初からそうだったんだな。生まれついての卑しさだ。」
私は涙を堪えながら答えた。
「……はい、社長の言うとおりです。私は、生まれつき……下劣なんです。」
そう……本当はわかっていた。
彼がずっと愛していたのは、あの小林ひるみ。
それでも私は、彼にしがみついた。
愛されたくて、全部を捧げた。
愚かで、恥ずかしくて、惨めで。私は——罪人で、そして、自ら望んで堕ちた女だった。
その言葉を聞いた侑二は、さらに顔を歪めて怒鳴った。
「薬を持って、とっとと消え失せろ!!」
「……はい。」
私は地面に手をつき、這うように薬を拾い、ベッドに置かれたパジャマを着る。
逃げるように扉へと向かう間、背後から何かが砕ける音が響いた。
「ガンッ!」
驚いて振り返ると、侑二が鏡に拳を叩きつけていた。
血を滴らせる拳。狂ったような目。
——まるで怒りに我を忘れた野獣のようだった。私と目が合ったその瞬間——
「さっさと消えろ!!!」
その声に、私は我に返り、全力でその場から逃げ出した。
―――
不運というのは、決して一つだけでは終わらない。
やっとのことで部屋を出た私は、廊下で小林夜江にばったり出くわした。
彼女の視線が、私の着ているパジャマに注がれた瞬間、怒りが爆発した。
「やっぱり……侑二を誘惑したんでしょ!!」
「……違うわ。」
私は疲れ切っていて、もう彼女に対して反論する気力すらなかった。
だが夜江は私のパジャマを乱暴に掴んだ。
「これは……私が侑二に買った服よ!! 見ればわかるでしょ、あんたが着る資格なんてない!!」
……なるほど、そういう関係か。
私は、ただ驚いた。
彼女が星野侑二にそんな“親密な贈り物”をしているとは——
「宮崎麻奈、あんたは昔からそう。いい家に生まれて、男にチヤホヤされて、それでも侑二には愛されなかった。今じゃただの犯罪者、侑二があんたなんか好きになるわけないでしょ!」
地面に突き飛ばされた私は、彼女を見上げながら呟いた。
(……小林ひるみも、昔、同じことを言ってた。)
『私が侑二の初恋なの。あの人が好きなのは私だけ。あなたがどれだけ頑張っても、無駄よ。』
立ち上がった私は、夜江の前に立ち、冷静に問いかける。
「……星野侑二のこと、好きなの?」
彼女は、躊躇うことなくうなずいた。
「そうよ。侑二は私のもの!」
「でも、私はまだ……彼の妻よ。」
「侑二は、いずれあなたと離婚する。絶対に。」
「そうかもしれない。……でも“今は”まだ、していない。」
その一言が、夜江の怒りに火をつけた。
だが私は、怯まない。
「君のような醜い性格で、星野家の女主人になれると思ってるの?」
その言葉を最後に、私は彼女のそばを離れた。
背後から突き刺さるような視線。
殺意が、空気を切り裂くほどだった。
——そして、物陰から楠井海が現れる。
「……あの女は、始末しないといけませんね。」
夜江は唇を噛みしめ、低く呟いた。
「今のうちに……誰にもバレずに、消してやるのよ。」
「地下室は人気もなく、主屋からも遠い。あそこなら、何が起きても誰も気づきません。」
「彼女の傷はすでに重症。あの程度の薬じゃ、どうせ長くはもたないわ。」
二人は、私を静かに殺す計画を立てていた——
―――
私は、地下室へ戻った。
長い距離を歩いた膝からは、またしても血がにじみ出ていた。
薬を塗り、壁にもたれかかる。
(……傷が癒えたら、必ず……両親の遺骨を取り戻して、この場所から逃げなきゃ)
その思いだけで、生き延びていた。
けれど、異変はすぐに現れた。
以前、刑務所で骨を折ったとき、粗悪な薬でも数週間で回復していた。
だが今、最高級の薬を使っているのに、傷は悪化し、発熱とめまいが止まらない。
……おかしい。
私は薬を取り出し、手のひらに少し出して匂いを嗅いだ。
「——匂いが違う……これ……毒だ……!」
私の目に、すべてがはっきりと映った。
星野侑二は、最初から——
私を殺すために、骨壺の話を餌にして星野邸へおびき寄せた。
凌辱し、踏みにじり、最後は薬で——静かに、確実に——殺すつもりだったのだ。
私は叫びたかった。
悔しくて、情けなくて、惨めで。でも——
まだ死にたくない!
這ってでも生き延びてみせる!
崩れそうな身体で、地下室を飛び出し、主屋へと向かった。
その姿を、ちょうど車から降りた星野侑二が、目にしてしまう。
私の前に、彼の足が止まった。
全身が泥と血にまみれ、髪は濡れそぼり、顔に貼りついていた。
——まるで地獄から這い上がってきた亡霊のようだった。
彼の目が揺れた。その視線が、私に釘付けになる。
私は、真っ赤に染まった目で、彼を見上げて叫んだ。
「——星野侑二!
来世があるなら……私は絶対に、あなたなんかを愛したりしない!!」