——星野侑二、この悪魔を愛してしまったせいで。
私は、地獄に突き落とされた。
全てを失った。
家族も、誇りも、潔白も、命すら——星野侑二に怒鳴りつけたその瞬間、限界を迎えた身体が崩れ落ちた。
意識が遠のき、私はそのまま気を失った。
「……麻奈!」
星野侑二は慌てて私の元へ駆け寄り、抱き上げる。
「車を回せ! 病院だ!」
怒号が響き、彼は私を抱えたまま車に乗り込み、叫ぶように命じた。
「急げ! 一刻も早く!!」
邸宅の門の影から、その光景を見ていた楠井海が、素早く携帯を取り出す。
「……失敗しました。あの女、脚が潰れてるってのに、這って星野社長の前まで……!」
なぜ……地下室で、静かに死んでくれなかった!
なぜ、また生き延びようとするんだ——!
―――
病院では、私への応急処置が急ピッチで進められていた。
だが、容態はあまりにも悪かった。
医師は苦い顔をしながら、星野侑二に詰め寄る。
「なぜ、今まで放置していたんです!? 傷は壊死寸前で、すでに高熱による炎症を起こしています!」
「……軽い怪我のはずだったのに。」
侑二は信じられないといった様子で、握り締めた拳を震わせる。
「薬も渡していたはずだ!」
医師は怒りを抑えきれず、さらに声を上げた。
「あと少し遅れていれば、脚を切断するしかなかったんです! それでも“軽い”と?」
侑二は衝撃に言葉を失う。
(……薬は確かに渡した。なぜ……)
「本当に“薬”でしたか?」
医師が疑うように言ったその時、病室の扉が開き、小林夜江が駆け込んできた。
「侑二っ!」
彼女の声に、医師はそれ以上口を挟まず、引き下がった。
夜江はちらりと私を見やり、すぐに顔を歪めると、あからさまに私を非難し始めた。
「この女……本当に悪知恵が働くわね。わざと薬を使わずに、わざと傷を悪化させて、侑二の同情を引こうとしてるんだわ!」
星野侑二の目に、冷たい光が宿る。
——そうだ。
宮崎麻奈は、昔からそういう女だった。
同情を誘い、弱者を演じ、男を操る——さっき一瞬でも「助けなければ」と思った自分が、馬鹿だった。
夜江はその様子を見て安心したように微笑み、医師に向かって言った。
「ここは私たちで看ますので、もうお下がりください。」
医師は軽く頷き、病室をあとにした。
星野侑二の視線が再び私に戻ると、夜江は彼の肩に身を寄せながら、潤んだ瞳で呟いた。
「侑二……本当は言いたくなかったけど、実は……この前、あの女に脅されたの。」
「……脅された?」
侑二が鋭い目を向けると、夜江は震える声で続ける。
「“私は正式に結婚した妻。あなたはただの代用品”って……しかも……“姉みたいに殺されたいのか”って……」
その言葉に、侑二のこめかみに怒りの血管が浮かぶ。
「そんなこと……絶対にさせない。」
「ずっと……私のこと、守ってくれるよね?」
「……ああ。」
夜江は満足そうに微笑み、侑二の肩に顔を埋めた。
―――
騒がしい。耳元が、うるさい。
私はうっすらと目を開けた。
見えたのは——小林夜江が、侑二の肩に甘える姿。
……そうか。
やっぱり、私なんて、最初から「邪魔者」だったんだ。あの人にとって、小林ひるみは“永遠の初恋”。
その妹なら、受け入れて当然か。私はただの……邪魔者で、都合の良い“憎しみの対象”。
何も取り戻せなかった。
何も、守れなかった。
(……もう、いいや。)
心の中が空っぽになるのを感じながら、私は声を絞り出した。
「……星野社長。離婚届、いつ出します?」
その言葉に、侑二が振り返る。
夜江を乱暴に払いのけ、私の喉を掴む。
「死んでも、俺のそばから逃がさない。離婚だと? 寝言は墓の中で言え!」
夜江の顔が曇り、私を睨みつける。
私は、そんな二人を見ながら、虚ろな笑みを浮かべた。
「それで……私を殺したいんでしょ?」
「黙れ!」
侑二の怒りが爆発し、手に力がこもる。
私は抵抗しなかった。
死ぬことが、むしろ解放だと思った。
——でも、殺したいならなぜ?
なぜ、私を病院に運んだの?
その答えを考える気力もないまま、意識が再び薄れかけたその時——
「ここは病院です。患者の休息を妨げる行為は、固く禁じられています。」
凛とした声が、病室に響いた。
扉の向こうから現れたのは、金縁メガネに白衣姿の品のある青年。
——
神川県・深山家の長男。
跡継ぎの座を捨て、医師として生きる道を選んだ人。
「彼女は、今は私の患者です。外で待ってもらえますか?」
侑二は睨みつけながらも、渋々病室を出ていく。
夜江も黙って後を追った。私はぼんやりと深山彰人を見つめた。
「……放っておいてよ。もう、死にたいの。」
彼は静かに眼鏡を押し上げながら、優しい口調で語りかけた。
「君、自分の体の状態……わかってる?」
その声は、かつて高校の先輩だったころと変わらない。
高校時代は、あまり親しい仲ではなかった。名前を知っている程度で、
ところが、四年前、彼は私の妊婦検診を担当してくれた。
彼は、当時から優しく、礼儀正しく——
特にその桃花のような瞳が印象的。
彼の桃花眼は、誰を見てもまるで深い愛情を注ぐような目をしている。
私は目を細め、彼の質問に答えた。
「星野侑二は私の命を狙っている。あの塗り薬の中に、毒を仕込まれていた……」
神川県の誰もが知っていることだろう。
あの星野が私を刑務所に送り込んだことは。
そして、私が南区刑務所から這い上がり、星野の家に行ったことも、きっと皆知っているはずだ。
星野との悪縁は、もう隠す必要もない。
深山彰人は一枚の検査結果を手渡す。
「血中HCG値が……60mlU/ml。」
私は、時が止まったように固まった。
——HCG。妊娠を示す数値。
その意味を知っていた。
そして、60という数字が何を示すのかも——手が震え、無意識のうちにその紙を握りしめた。
私は——
またしも妊娠していた。