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第5話:妊娠していた


——星野侑二、この悪魔を愛してしまったせいで。

私は、地獄に突き落とされた。

全てを失った。

家族も、誇りも、潔白も、命すら——星野侑二に怒鳴りつけたその瞬間、限界を迎えた身体が崩れ落ちた。

意識が遠のき、私はそのまま気を失った。


「……麻奈!」

星野侑二は慌てて私の元へ駆け寄り、抱き上げる。

「車を回せ! 病院だ!」

怒号が響き、彼は私を抱えたまま車に乗り込み、叫ぶように命じた。

「急げ! 一刻も早く!!」

邸宅の門の影から、その光景を見ていた楠井海が、素早く携帯を取り出す。

「……失敗しました。あの女、脚が潰れてるってのに、這って星野社長の前まで……!」

なぜ……地下室で、静かに死んでくれなかった!

なぜ、また生き延びようとするんだ——!


―――

病院では、私への応急処置が急ピッチで進められていた。

だが、容態はあまりにも悪かった。

医師は苦い顔をしながら、星野侑二に詰め寄る。


「なぜ、今まで放置していたんです!? 傷は壊死寸前で、すでに高熱による炎症を起こしています!」

「……軽い怪我のはずだったのに。」

侑二は信じられないといった様子で、握り締めた拳を震わせる。

「薬も渡していたはずだ!」

医師は怒りを抑えきれず、さらに声を上げた。

「あと少し遅れていれば、脚を切断するしかなかったんです! それでも“軽い”と?」

侑二は衝撃に言葉を失う。

(……薬は確かに渡した。なぜ……)

「本当に“薬”でしたか?」

医師が疑うように言ったその時、病室の扉が開き、小林夜江が駆け込んできた。

「侑二っ!」

彼女の声に、医師はそれ以上口を挟まず、引き下がった。


夜江はちらりと私を見やり、すぐに顔を歪めると、あからさまに私を非難し始めた。

「この女……本当に悪知恵が働くわね。わざと薬を使わずに、わざと傷を悪化させて、侑二の同情を引こうとしてるんだわ!」

星野侑二の目に、冷たい光が宿る。

——そうだ。

宮崎麻奈は、昔からそういう女だった。

同情を誘い、弱者を演じ、男を操る——さっき一瞬でも「助けなければ」と思った自分が、馬鹿だった。

夜江はその様子を見て安心したように微笑み、医師に向かって言った。

「ここは私たちで看ますので、もうお下がりください。」

医師は軽く頷き、病室をあとにした。


星野侑二の視線が再び私に戻ると、夜江は彼の肩に身を寄せながら、潤んだ瞳で呟いた。

「侑二……本当は言いたくなかったけど、実は……この前、あの女に脅されたの。」

「……脅された?」

侑二が鋭い目を向けると、夜江は震える声で続ける。

「“私は正式に結婚した妻。あなたはただの代用品”って……しかも……“姉みたいに殺されたいのか”って……」

その言葉に、侑二のこめかみに怒りの血管が浮かぶ。

「そんなこと……絶対にさせない。」

「ずっと……私のこと、守ってくれるよね?」

「……ああ。」

夜江は満足そうに微笑み、侑二の肩に顔を埋めた。


―――

騒がしい。耳元が、うるさい。

私はうっすらと目を開けた。

見えたのは——小林夜江が、侑二の肩に甘える姿。

……そうか。

やっぱり、私なんて、最初から「邪魔者」だったんだ。あの人にとって、小林ひるみは“永遠の初恋”。

その妹なら、受け入れて当然か。私はただの……邪魔者で、都合の良い“憎しみの対象”。

何も取り戻せなかった。

何も、守れなかった。

(……もう、いいや。)


心の中が空っぽになるのを感じながら、私は声を絞り出した。

「……星野社長。離婚届、いつ出します?」

その言葉に、侑二が振り返る。

夜江を乱暴に払いのけ、私の喉を掴む。

「死んでも、俺のそばから逃がさない。離婚だと? 寝言は墓の中で言え!」


夜江の顔が曇り、私を睨みつける。

私は、そんな二人を見ながら、虚ろな笑みを浮かべた。

「それで……私を殺したいんでしょ?」

「黙れ!」

侑二の怒りが爆発し、手に力がこもる。

私は抵抗しなかった。

死ぬことが、むしろ解放だと思った。


——でも、殺したいならなぜ?

なぜ、私を病院に運んだの?

その答えを考える気力もないまま、意識が再び薄れかけたその時——


「ここは病院です。患者の休息を妨げる行為は、固く禁じられています。」

凛とした声が、病室に響いた。

扉の向こうから現れたのは、金縁メガネに白衣姿の品のある青年。

——深山彰人みやまあきと

神川県・深山家の長男。

跡継ぎの座を捨て、医師として生きる道を選んだ人。

「彼女は、今は私の患者です。外で待ってもらえますか?」

侑二は睨みつけながらも、渋々病室を出ていく。

夜江も黙って後を追った。私はぼんやりと深山彰人を見つめた。


「……放っておいてよ。もう、死にたいの。」

彼は静かに眼鏡を押し上げながら、優しい口調で語りかけた。

「君、自分の体の状態……わかってる?」

その声は、かつて高校の先輩だったころと変わらない。

高校時代は、あまり親しい仲ではなかった。名前を知っている程度で、


ところが、四年前、彼は私の妊婦検診を担当してくれた。

彼は、当時から優しく、礼儀正しく——

特にその桃花のような瞳が印象的。

彼の桃花眼は、誰を見てもまるで深い愛情を注ぐような目をしている。


私は目を細め、彼の質問に答えた。

「星野侑二は私の命を狙っている。あの塗り薬の中に、毒を仕込まれていた……」

神川県の誰もが知っていることだろう。

あの星野が私を刑務所に送り込んだことは。

そして、私が南区刑務所から這い上がり、星野の家に行ったことも、きっと皆知っているはずだ。

星野との悪縁は、もう隠す必要もない。


深山彰人は一枚の検査結果を手渡す。

「血中HCG値が……60mlU/ml。」

私は、時が止まったように固まった。

——HCG。妊娠を示す数値。

その意味を知っていた。

そして、60という数字が何を示すのかも——手が震え、無意識のうちにその紙を握りしめた。

私は——

またしも妊娠していた。


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