今でも、あの夜のことをはっきりと覚えている。
拘置所で過ごした最初の夜。
私は、大切な我が子を失った。毒のような暴力が胎児を奪い、身体を壊し、二度と母になれない身体にされたはずだった。
それなのに——
どうして、私……また妊娠しているの?
「……私は、もう子どもは望めないって言われたはず……」
信じられない思いで、私は深山先生を見つめた。
彼は金縁眼鏡を指で押し上げながら、静かに言った。
「君の身体はたしかに深く傷ついていた。普通なら、妊娠なんて考えられない。でも……今の状況はどうやら、医学的な“奇跡”としか説明できない。」
私は頭を抱えたくなるほど混乱した。
なぜ、このタイミングで——
殺されかけているこの瞬間に、こんな奇跡が起こるの……?
彰人はそっと私の掛け布団を整えながら、穏やかに語りかける。
「四年前を思い出したよ。あの時、君が初めて血液検査を受けた時も、HCG値は“60mlU/ml”だった。まるで……あの子が戻ってきたみたいだね。」
「……!」
私は息をのんで、検査結果の紙を見つめる。
——私の赤ちゃんが、帰ってきた……?
震える手でお腹にそっと触れる。
涙が、止められなかった。あの時、失ってしまったあの子が……
もう一度、私のところに戻ってきてくれたの?私は心を決めた。
「……私は、この子を守る。絶対に……絶対に生まれてもらう!」
だが、彰人の表情が翳る。
「でも、それは君が望んだからって……叶うとは限らない。」
彼は私の膝を指差し、切れ長い桃花眼を細めて指摘した。
「星野侑二が、その子を産ませてくれると思う?」
背筋が凍りついた。
確かに今の私は、満足に動けない身体。
そんな私に、赤ん坊なんて守れるはずもない。
「……だったら私は、ここから逃げる。神川県を出て、海外へ逃げる!
星野侑二の手が届かない場所へ!」
私の決意に、彰人は少しだけ眉を上げる。
「君一人で? 星野侑二の目をかいくぐって?」
現実は、残酷だった。私はまだ彼の手の中にいる。
「でも……やるしかないの。できるかどうかじゃなくて、やるの。」
そんな私の姿に、彰人はふっと微笑んだ。
「……なら、僕が、君に手を貸してあげる。」
「……え?」
「君みたいな美人が、クズ野郎に弄ばれるなんて、見ていられないからね。」
「でも、彼にバレたら、先生まで巻き込まれる!」
「……心配してくれるんだ?」
彼は私の耳元に顔を近づけて囁く。
その顔はまるで彫刻のように整っていて、思わず見入ってしまいそうになる。
「……私は、あなたを巻き込みたくない。」
そう呟いた私の頭を、彰人は優しく撫でた。
「大丈夫。まずは足を治そう。そして、パスポートを用意する。
少し時間はかかるけど……二週間、我慢できる?」
私は即答した。
「できる。絶対に……!」
病室を出た彰人は、廊下で待っていた若い男性に告げる。
「——彼女の“逃亡”を手伝うよ。」
「えっ、マジで?」
彰人は唇を吊り上げ、どこか悪意を含んだ微笑を浮かべた。
「……侑二が狂犬に変わっていく姿を、間近で見てみたくてね。」
―――
彰人はパスポートの手配だけでなく、星野侑二の行動予定まで調べてくれた。
あと二日で、彼は海外のイベントに出席するため、日本を離れる。
その隙をついて、逃げるチャンスをつかむ。
この子を守るために。
大丈夫、私は一人じゃない——
そう思うだけで、時間の流れも苦ではなかった。療養生活を送りながら、私は準備を進めた。
十二日目。
出発まで、あと二日。深山彰人は定期検診のため、私の病室に入ってきた。
「膝の傷は、かなり良くなってきてる。でも……骨の欠片がズレてて、もう二度と普通には歩けないかも。」
「……歩けるだけで、私はもう十分。」
監獄で生き延びるために、どれだけ自分の心を殺してきたか——
歩けるだけでも、奇跡だった。
「でも……君は、ロイヤルバレエアカデミー初のアジア人首席だったんだろう?」
「……覚えてたの?」
「もちろんさ。“
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
誰にも求められなくなった私の人生。
でも、あの輝いていた過去の自分を覚えていてくれた人が、ここにいた。
その時——
「ドンッ!!」
病室のドアが、勢いよく開け放たれた。
そこに立っていたのは、星野侑二。
血走った目で、真っ直ぐこちらを睨んでいる。彼の視線は……私の額の傷跡を見ていた。
——次の瞬間、彼は私を抱き上げ、そのまま病室の外へ連れ去ろうとする。
「おい、彼女はまだ退院できない!」
彰人が立ち塞がるが、侑二は冷たく言い放った。
「こいつは俺の女だ。」
「彼女は、私の患者でもある。」
張り詰めた空気が、激突寸前で凍りつく。
私はすぐに顔を上げ、彰人に訴えた。
「……大丈夫、もう戻るべき時だから。」
彰人はそれ以上止めず、私を黙って見送った。
そして、誰もいなくなった病室で、薄く笑みを浮かべる。
「……さて、狂犬のショータイムの始まりだ。」
―――
星野侑二は私を星野邸へ連れ戻すと、そのまま浴室に向かった。
何が始まるのかもわからないまま、私は肩に担がれたまま押し込まれる。
次の瞬間——
彼は私の顔を、水を張ったバスタブに押しつけた。
冷水が鼻から口へと流れ込み、呼吸を奪う。
頭皮が引きちぎれそうなほど強くこすられ、額が焼けるように痛む。
「やめて……お願い……!」
必死に水中でもがきながら、声を振り絞った。
「あの男と一緒にいた時、さぞかし楽しいだろうね」
「先輩とは……何もなかったの!」
「そうかよ。じゃあ、この“先輩”って呼び方はなんなんだ?」
「なら聞くけど、あんたが、小林ひるみや小林夜江といた時、私のこと考えた?」
息をつく間もなく、顔を引き上げられ、次は頬を平手打ちされた。
「お前なんか、彼女たちと同じ土俵にも立てない女だ!」
頭がぼんやりしてきた。
怒りと苦しさがどんどん湧き上がって、ついに恐怖の気持ちを覆した。
「私が関係をもったのは……過去も今もあんたしかないわよ。
体も心も、清らかだった!」
それでも、彼は私の手首を掴んで叫んだ。
「じゃああのガキは誰の子だ!あの野郎の子か!?」
——野郎の子って?
私は凍りついた。
四年前、亡くしたあの子を……
彼は、自分の子どもだとすら信じていなかった。
涙が、頬を伝って流れる。
「……ああ、そうよ。知らなかった? 私、あんたに内緒で浮気したの。」
わざと耳元で、そう囁いた。
——もう、どうにでもなれ。