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第6話:逃亡へのカウントダウン


今でも、あの夜のことをはっきりと覚えている。

拘置所で過ごした最初の夜。

私は、大切な我が子を失った。毒のような暴力が胎児を奪い、身体を壊し、二度と母になれない身体にされたはずだった。

それなのに——

どうして、私……また妊娠しているの?


「……私は、もう子どもは望めないって言われたはず……」

信じられない思いで、私は深山先生を見つめた。

彼は金縁眼鏡を指で押し上げながら、静かに言った。

「君の身体はたしかに深く傷ついていた。普通なら、妊娠なんて考えられない。でも……今の状況はどうやら、医学的な“奇跡”としか説明できない。」

私は頭を抱えたくなるほど混乱した。

なぜ、このタイミングで——

殺されかけているこの瞬間に、こんな奇跡が起こるの……?


彰人はそっと私の掛け布団を整えながら、穏やかに語りかける。

「四年前を思い出したよ。あの時、君が初めて血液検査を受けた時も、HCG値は“60mlU/ml”だった。まるで……あの子が戻ってきたみたいだね。」

「……!」

私は息をのんで、検査結果の紙を見つめる。

——私の赤ちゃんが、帰ってきた……?


震える手でお腹にそっと触れる。

涙が、止められなかった。あの時、失ってしまったあの子が……

もう一度、私のところに戻ってきてくれたの?私は心を決めた。

「……私は、この子を守る。絶対に……絶対に生まれてもらう!」

だが、彰人の表情が翳る。

「でも、それは君が望んだからって……叶うとは限らない。」

彼は私の膝を指差し、切れ長い桃花眼を細めて指摘した。

「星野侑二が、その子を産ませてくれると思う?」


背筋が凍りついた。

確かに今の私は、満足に動けない身体。

そんな私に、赤ん坊なんて守れるはずもない。

「……だったら私は、ここから逃げる。神川県を出て、海外へ逃げる!

星野侑二の手が届かない場所へ!」


私の決意に、彰人は少しだけ眉を上げる。

「君一人で? 星野侑二の目をかいくぐって?」

現実は、残酷だった。私はまだ彼の手の中にいる。

「でも……やるしかないの。できるかどうかじゃなくて、やるの。」


そんな私の姿に、彰人はふっと微笑んだ。

「……なら、僕が、君に手を貸してあげる。」

「……え?」

「君みたいな美人が、クズ野郎に弄ばれるなんて、見ていられないからね。」

「でも、彼にバレたら、先生まで巻き込まれる!」

「……心配してくれるんだ?」

彼は私の耳元に顔を近づけて囁く。

その顔はまるで彫刻のように整っていて、思わず見入ってしまいそうになる。


「……私は、あなたを巻き込みたくない。」

そう呟いた私の頭を、彰人は優しく撫でた。

「大丈夫。まずは足を治そう。そして、パスポートを用意する。

少し時間はかかるけど……二週間、我慢できる?」

私は即答した。

「できる。絶対に……!」


病室を出た彰人は、廊下で待っていた若い男性に告げる。

「——彼女の“逃亡”を手伝うよ。」

「えっ、マジで?」

彰人は唇を吊り上げ、どこか悪意を含んだ微笑を浮かべた。

「……侑二が狂犬に変わっていく姿を、間近で見てみたくてね。」


―――

彰人はパスポートの手配だけでなく、星野侑二の行動予定まで調べてくれた。

あと二日で、彼は海外のイベントに出席するため、日本を離れる。

その隙をついて、逃げるチャンスをつかむ。

この子を守るために。

大丈夫、私は一人じゃない——

そう思うだけで、時間の流れも苦ではなかった。療養生活を送りながら、私は準備を進めた。


十二日目。

出発まで、あと二日。深山彰人は定期検診のため、私の病室に入ってきた。

「膝の傷は、かなり良くなってきてる。でも……骨の欠片がズレてて、もう二度と普通には歩けないかも。」

「……歩けるだけで、私はもう十分。」

監獄で生き延びるために、どれだけ自分の心を殺してきたか——

歩けるだけでも、奇跡だった。


「でも……君は、ロイヤルバレエアカデミー初のアジア人首席だったんだろう?」

「……覚えてたの?」

「もちろんさ。“傾城けいせいの踊り子”。——そう呼ばれていた君のこと、忘れるわけがない。」

その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。

誰にも求められなくなった私の人生。

でも、あの輝いていた過去の自分を覚えていてくれた人が、ここにいた。


その時——

「ドンッ!!」

病室のドアが、勢いよく開け放たれた。

そこに立っていたのは、星野侑二。

血走った目で、真っ直ぐこちらを睨んでいる。彼の視線は……私の額の傷跡を見ていた。

——次の瞬間、彼は私を抱き上げ、そのまま病室の外へ連れ去ろうとする。


「おい、彼女はまだ退院できない!」

彰人が立ち塞がるが、侑二は冷たく言い放った。

「こいつは俺の女だ。」

「彼女は、私の患者でもある。」

張り詰めた空気が、激突寸前で凍りつく。


私はすぐに顔を上げ、彰人に訴えた。

「……大丈夫、もう戻るべき時だから。」

彰人はそれ以上止めず、私を黙って見送った。


そして、誰もいなくなった病室で、薄く笑みを浮かべる。

「……さて、狂犬のショータイムの始まりだ。」


―――

星野侑二は私を星野邸へ連れ戻すと、そのまま浴室に向かった。

何が始まるのかもわからないまま、私は肩に担がれたまま押し込まれる。

次の瞬間——

彼は私の顔を、水を張ったバスタブに押しつけた。

冷水が鼻から口へと流れ込み、呼吸を奪う。

頭皮が引きちぎれそうなほど強くこすられ、額が焼けるように痛む。


「やめて……お願い……!」

必死に水中でもがきながら、声を振り絞った。

「あの男と一緒にいた時、さぞかし楽しいだろうね」

「先輩とは……何もなかったの!」

「そうかよ。じゃあ、この“先輩”って呼び方はなんなんだ?」

「なら聞くけど、あんたが、小林ひるみや小林夜江といた時、私のこと考えた?」

息をつく間もなく、顔を引き上げられ、次は頬を平手打ちされた。

「お前なんか、彼女たちと同じ土俵にも立てない女だ!」


頭がぼんやりしてきた。

怒りと苦しさがどんどん湧き上がって、ついに恐怖の気持ちを覆した。

「私が関係をもったのは……過去も今もあんたしかないわよ。

体も心も、清らかだった!」


それでも、彼は私の手首を掴んで叫んだ。

「じゃああのガキは誰の子だ!あの野郎の子か!?」

——野郎の子って?

私は凍りついた。

四年前、亡くしたあの子を……

彼は、自分の子どもだとすら信じていなかった。


涙が、頬を伝って流れる。

「……ああ、そうよ。知らなかった? 私、あんたに内緒で浮気したの。」

わざと耳元で、そう囁いた。

——もう、どうにでもなれ。


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