私は骨壺を盗み出したあと、星野侑二の書斎の前を通りかかったとき、ちょうど小林夜江の言葉を耳にした。
──やっぱり、小林ひるみも星野侑二の子を妊娠していたんだ。
だから、彼があんなにも私を傷つけ、死ぬことまで望んでいたのは、ただ小林ひるみのためだけじゃなかった。
彼女との子どもも一緒に失ったから――。
……じゃあ、私のお腹の子は?
私の子は、死んで当然だとでも?
悔しさと悲しみで拳を握りしめる。でも、今は感情に流されてる場合じゃない。
今すべきなのは、私のこのお腹の命を守ること――
星野侑二、この悪魔から逃げることだけ。
―――
午前七時。
時間を見計らうと、星野侑二はもう空港へ向かったはずだ。
私はぐずぐずしていられない。
父母の遺灰を抱えて、足を引きずりながら地下室を出た。
この地下室は、星野侑二が私を苦しめるために押し込んだ場所。
だけど今は、その存在が私の脱出を助けてくれた。
裏庭の裏門を抜け、細道に出ると、深山彰人が車を停めて待っていた。
彼は穏やかな笑みを浮かべながら降りてきて、私の腕の中にある遺灰を見て言う。
「……無事にご両親を取り戻せたみたいだね。」
私は遺灰を見下ろして、ほろ苦く笑った。
「星野侑二は、私が遺灰を持って逃げるなんて、きっと思ってなかったのよ。」
あの男の過信が、私の隙になっただけ。
深山が眉を上げる。
「そりゃそうだ。神川県中の人間が思ってたよ。“宮崎家のお嬢様は、星野侑二に惚れ込んでる”って。あんたが彼の元を離れるわけがないってさ。」
……星野侑二も、そう思ってたんだ。
だから、遺灰を私の部屋に置いたんだ。きっと奪おうなんて思いもしてなかった。
私は車に乗り込んで、星野邸を最後に見つめた。
かつては、心の底から願っていた場所。
星野侑二と一緒に、ここで一生暮らすことを夢見ていた。けれど今、ここは地獄のような場所にしか見えない。
私は声を出さずに涙を流しながら、お腹をそっと撫でた。
「……もう、ママはあんたしか愛さない。」
この子と一緒に、新しい人生へ――
痛みも、苦しみもない未来へ。
涙を拭って、私は深山を見上げた。
「彰人先輩、行こう。」
彼は助手席に用意していたヒヤシンスの花束を差し出し、優しい目で微笑んだ。
「……うん、新しい人生へ出発だ。」
―――
一方その頃、星野侑二は空港へ向かう車中にいた。
昨日、宮崎麻奈を邸に連れ戻したはいいものの、どこか引っかかる感覚があった。
彼はこめかみを押さえながら、助手席の矢尾翔に訊ねる。
「……宮崎麻奈と深山彰人、いつ知り合った?」
矢尾翔は手帳を取り出して答える。
「4年前、宮崎お嬢様が妊娠した時に、深山先生が担当医でした。」
「深山彰人は……産科医じゃなかったはずだが?」
「当時は人手が足りず、一時的に産科の応援をされてたそうです。」
その瞬間、星野侑二の中で、ある疑念が一気に膨らんだ。
……まさか……あの子は……深山彰人との子……?
「……上等だ。
いいだろう。調べろ。徹底的にな。」
星野侑二は奥歯を噛みしめた。
「了解しました!」
矢尾翔が緊張しながら頷く。
「ところで、メディチ家との連絡は?」
「予定どおり手配済みです。ただ……気をつけてください。前回も彼ら、媚薬を盛ってきたでしょう?」
「今の俺は、4年前の俺じゃない。」
「でも……あの時は、宮崎お嬢様が助けてくれなければ――」
「……何?今、なんて言った……?」
星野侑二の顔色が一変した。
「え? いや、その……宮崎お嬢様が解毒してくれたって……」
「嘘だ……ひるみだったはずだ……!
ひるみが身を出して俺の解毒剤になった」
あの噓つきの宮崎麻奈じゃないんだ!
星野侑二は矢尾翔の襟を掴み、怒鳴る。
「お前、それ……本当か!?あいつは当時イタリアにいなかっただろう!」
「本当です!あの時、宮崎麻奈さまは社長についてイタリアまで密かに同行していて、終わった後、わざわざ別室に身を隠してたんです……あの一件で、宮崎麻奈さまが妊娠したんじゃないですか?……」
その言葉に、星野侑二の世界が崩れた。
「……嘘だ……」
あの子は、俺の子……?
あの時、セックスしたのはひるみ自身だってひるみに言われたのに、ひるみがなぜ嘘をつく?
「社長、僕本当のことを言っています。見てください。
これは当時僕が宮崎麻奈さまに取っておいたホテル部屋です。」
まだ信じ切っていない星野の顔を見て、矢尾は携帯から部屋の予約記録を彼に見せた。
その瞬間、星野の全身の力が抜けていく。
麻奈はずっと、俺のことだけを想って――
……俺は、何をしたのだ?
俺たちの子も、麻奈のすべても、踏みにじって?
「……いや……だめだ……」
叫ぶように運転手に向かって命じた。
「戻れ!今すぐ戻るんだ!!」
「でも、メディチ家との約束は……」
「戻れと言ったんだッ!!!」
***
星野侑二は邸に戻ると、楠井海を連れて地下室へ向かった。
だが中に入った瞬間、彼は言葉を失った。
ここは――もはや人が住める場所じゃない。
悪臭と湿気、暗闇、そしてどこかに残る血の匂い。
床には最近ついたばかりの血痕まである。
「……彼女を、ここに住まわせたのか?」
「はい、社長の指示どおりに……」
「彼女はどこだ!?姿が見えない!」
「……また主屋に忍び込んで、社長を誘惑してるのでは?」
主屋に戻った彼は、真っ先に自室を探す。
いない。
隣室へ行き、鍵を開けた。
そして……骨壷がないことに気づいた。
そのところに、一枚の紙だけが残されていた。
『あなたを愛してしまったことは、私の人生の最大の後悔です。』
その一文を見た瞬間、星野侑二の膝が崩れ落ちた。
彼女は……本気で、自分から離れたのだ。
自分と、すべての関係を断ち切った。
「逃げる気か……?」
彼は紙を握りつぶし、血のように真っ赤な目で叫んだ。
「……宮崎麻奈を見つけ出せ!連れ戻せ!!」