空港は人の波で賑わい、アナウンスの声が響き渡っていた。
私はVIP待合室のソファに座りながら、落ち着かない気持ちをどうにも抑えきれずにいた。もうすぐこの神川県を離れ、星野家からも逃れて、新しい人生を始める。
それなのに、胸の奥がどうしようもなくざわついていた。まるで、何か悪いことが起きる前触れのように。そんな私の様子を察した深山彰人が、美しい指先で顎を支えながら穏やかに声をかける。
「後輩ちゃん、どこか具合でも悪い?」
私は、骨壷の入ったリュックをぎゅっと胸に抱えながら、小さく首を振った。
「先輩、本当に、星野侑二はイタリアに行ったんですか?」
深山彰人は目元を細め、確信を込めた口調で答えた。
「間違いない。あいつが星野グループの海外展開のチャンスを逃すわけないよ」
星野侑二は、何年も前からイタリア市場に目をつけていた。
今回はついに、メディチ家との全面提携が決まったというなら、彼が行かない理由なんて、ないはずだった。
それでも、私の不安は拭えなかった。
手元の航空券を見る。
出発は10時、今は9時20分。あと40分で飛行機に乗れる。
――飛び立ってしまえば、心も少しは楽になるのだろうか。
思い切って心を落ち着けてから、隣に座る深山を見つめ、ずっと胸に引っかかっていた疑問を口にした。
「先輩……どうして私のために、ここまでしてくれるんですか?」
その言葉に、深山はそっと身を寄せ、私の耳元で囁くように言った。
「どうしてだと思う? 男が理由もなく、女に手を貸すと思う?」
一瞬心臓が跳ねた。私は慌てて彼から距離を取った。
すると、彼は私の髪にそっと指を絡めて笑う。
「もちろん、下心があるからに決まってるだろう?」
私はますます混乱し、顔を青ざめさせながら顔をそらす。
深山はくすっと笑った。
「冗談だよ、きみってほんと、からかい甲斐があるな」
そう言って彼は、私の髪の一房で器用に小さな輪を作り、再び余裕ある笑みで椅子にもたれた。
「僕にとって、君を助けることは“大したこと”じゃないよ。ただの少しの親切さ」
私は思わず肩の力を抜いた。
ああ、私の勘違いだったのか。よくよく考えてみれば当然だ。
深山彰人は、たとえ深山家の跡取りを辞退したとはいえ、名家の御曹司。
一方の私は、足を折られて、妊娠もしていて、さらに“毒婦”とまで呼ばれた前科者だ。そんな私に彼が心を寄せるなんて、ありえない。
急に恥ずかしくなって、視線を落としたその時――彼のスマホが鳴った。
通話に出た深山は、電話口の相手の言葉を聞いてから、突然私をまっすぐ見つめた。
その瞳には、これまで見せたことのない冷たい影が宿っていた。
「へえ……あいつもずいぶん思い切ったな」
ぼそりとそう呟いて電話を切ると、再び表情を柔らかく戻した。
けれど私は、胸騒ぎが止まらなかった。
「先輩……もしご用事があるなら、無理に見送らなくていいですよ」
「いや、君がちゃんと飛び立つところまで、見届けたいんだ」
その言葉が、どうしてか妙に引っかかった。
少し考えてから、私は立ち上がった。
「ちょっと、お手洗いに行ってきます」
すると、深山は、にこやかに左側を指さした。
「曲がったところにあるよ。気をつけてね」
四年前、彼の元で健診を受けたときもそうだった。
先輩はいつも紳士的で、優しくて、安心をくれる人だった。
「……いい人だよね」
そうつぶやいて、私はリュックを抱きながら、足を引きずって待合室をあとにした。
彼は私の背中を見送りながら、ゆっくりと椅子の肘掛けを指で叩いた。
「星野侑二の弱点は、小林ひるみや小林夜江みたいな小物じゃない……あの女こそが、やつの本当の急所か」
――この茶番はどんどん面白くなるな。
そうつぶやきながら、彼はスマホを取り出し、何かの文章を入力して、静かに送信した。
……
私が星野侑二を理解しているように、あの男も私のことを理解していた。
私が“逃げる”と知った時点で、星野はきっとすぐに気づく。
――きっと海外に逃げるつもりだろう、と。
だから彼は、自ら部下を連れて、空港へとやって来たのだ。
今手元に持っているパスポートは偽造品。普通の人間には見破れない精巧なもの。
だが、今の星野は“正気”ではなかった。彼はあらゆるコネを総動員し、空港の情報網を通じて、私の偽名と便名をすぐさま割り出したのだ。
そしてVIPラウンジに現れた彼は、一瞬で全てを理解した。
――深山彰人が私を助けていたのだと。
「てめえぇええ!!!」
星野は獣のような勢いで突進し、いきなり深山の顔面に拳を叩き込んだ。
「お前の仕業か!!」
前科者の私が、どうやって偽造パスポートなんて手に入れられる。
全部――深山彰人のせいだ!
だが、深山は殴られても動じず、口元の血を指で拭うと、にやりと意味深に笑った。
「……予想よりもずいぶん早かったね、星野社長」
彼は優雅に語る。
「イタリアの取引、今ならまだ間に合うかもしれないよ?メディチ家との件、逃すと損だよ?」
「うるさい!!」
もはや取引のことなど星野の眼中にない。
「宮崎麻奈を……どこに隠した!!」
再び拳を振り上げようとする彼の手を、深山は軽く受け止める。
「さあ、どうして僕が君に教えなきゃいけないのかな?」
「彼女は俺の妻だ!!」
その叫びに、深山は冷たく笑った。
「へえ……星野社長、まだ“妻”だって覚えてたんだ。てっきり、憎しみ合う仇敵かと」
「これは俺と彼女の問題だ。お前の出る幕じゃない!」
「でも、今彼女が信じているのは……君じゃなくて、僕だよね?」
その言葉に、侑二の怒りは頂点に達する。
「……今すぐ教えろ! 宮崎麻奈をどこへやった!!
そうしないと、ここで誓う!深山家を潰してでも――お前を絶対に許さない!!」
まさに怒号が空間を引き裂くような勢いだった。
その時だった。
一人の若い男がラウンジに駆け込んできて、深山に耳打ちする。
「……深山さま。お手洗いに行って、宮崎さんを連れて来いとのご指示でしたが……
――彼女、そこにいませんでした!」