深山は部下の報告を聞いた後、呆然とした表情を浮かべた。
つい先ほど、彼は電話で星野侑二がイタリアへは向かっておらず、正気を失ったように宮崎麻奈を探していると知ったばかりだった。
なら、星野がこっちの思惑に気づき、空港へ来るのは時間の問題。
それを読んでいた深山は、麻奈が逃げ切れるよう時間を稼ぐため、VIP待合室に留まり星野を迎え撃つことにした。
一方で、彼の部下である青野千里には、トイレに行った麻奈を見つけ、密かに空港の外へ連れ出すよう指示を出していた。
──だが、宮崎麻奈の姿は、どこにもなかった。
深山の顔から、あの優雅で穏やかな表情が消える。
彼は青野に冷たく睨みを向け、低く命じた。
「じゃあ、今すぐ探せ」
しかし──
深山も、星野も、双方の人間を総動員して空港を隅々まで探し、監視カメラをもチェックしたが──
宮崎麻奈は、まるで人間ごと霧散したように、痕跡一つ残していなかった。
ーーー
「深山先輩は、いい人だ」
だから、これ以上、巻き込んではいけなかった。
もし星野が、深山こそが自分を海外逃亡させようとしていたと知れば──
あの男の執念深さからして、深山家の御曹司であろうと、報復は免れない。
私は、賭けられない。あの男の狂気の限界なんて。
だから、自分で消えるしかなかった。
偽造パスポートを使って飛行機に乗るだけが、神川県を出る方法じゃない。
――“白タク”がある。これは、刑務所にいた頃、とある女囚が教えてくれた情報だった。
免許を持たず、タクシー会社にも登録せず、個人で客を拾って金を稼ぐドライバーたち。
――その中には、もちろん危険な者がいるかもしれない。
今、私は危険を承知で、その“白タク”に乗っている。
運転手は脂ぎった中年男。バックミラー越しにいやらしい目を向けてきた。
「お嬢ちゃん、一人? このあとちょっと、いいとこ寄ってかない?」
これも“白タク”のリスクだ。
あの女囚も、白タクに乗って人気のない道で襲われ、正当防衛の末に運転手を殺して服役したという。
今の私も──同じ状況だ。
私はゆっくり顔を上げて、奇妙な笑みを浮かべた。
「ねえ、おじさん、ちゃんと運転してね? 私のパパとママが酔っちゃうから」
「は? お前のパパとママ? 車にいるのは俺たちだけだろ?」
「ここにいるよ」
私は胸に抱えたバックパックを軽く撫でる。
「ちゃんと一緒に乗ってきたんだよ、骨になってね」
それを聞くと、運転手の顔色が一気に引きつった。
「な、なんだと……?」
「ねえ、おじさん。久井霞って聞いたことある? 三年前、運転手を殺した女の人だよ」
運転手は明らかに表情が変わった。名は知っているに違いない。
「お前……知ってんのか……?」
「もちろんさ。彼女とは三年間、同じ部屋だったの」
前髪を指先で遊ばせながら私は微笑んだ。
「警察ってほんとに無能よね。私が殺したって証拠、結局見つけられなかったんだよ?」
――刑務所での四年間、私は学んだ。
生き延びたければ、従順であること。
けれど、牙を剥く覚悟もなければ、底辺で踏みにじられるだけ。
かつて散々いじめられた私のように、
誰にも愛されず、誰にも守られず、誰からも殴られるだけの存在だった。
ーーーー
星野は、空港で宮崎麻奈を見つけることができなかった。
そして、その怒りの矛先は、深山へと向けられた。
「全部、お前のせいだッ!!」
深山はふっと笑う。
「そんな芝居、僕には通用しませんよ、星野社長。神川県の人間はみんな知ってます。あんたが宮崎さんを刑務所に送り、彼女の両親を死に追いやり、兄も殺したってことをね」
「……それは、事故だった!!」
「ずいぶんと“事故”が多いですね。うっかりと彼女の家族を全滅したわけか?」
星野のこめかみに青筋が浮かぶ。
だが、深山は一歩踏み出し、冷えた瞳で言い放つ。
「……それに、彼女の脚、もう二度と踊れないんですよ」
「ウソだ!」
星野は叫んだ。
「あいつが脚を失うなんて、ありえない!」
彼女は、自分の脚を誰よりも大切にしていた。命をかけて守るはずだ。
──踊れないってありえない。
深山は無言で一冊の診断書を星野の胸元に叩きつけた。
星野はその紙束を開き、読み進めるたびに顔色が変わる。
複数回の骨折痕──
粉砕骨折──
脚の内部が完全に破壊されている──
星野は震える手で資料を握りしめ、血の気の引いた顔で叫んだ。
「これは違う……違う……これは麻奈の診断書なんかじゃない!!」
深山の口元が緩む。
「本当かどうか、知りたいなら――自分で刑務所まで調べに行けばいいじゃないですか」
目の前の男の微笑みは、まるで刃のように優しく、星野の胸を刺した。
「……でも――星野社長には、そこまでする度胸、ないんじゃないですか?」
ーーーー
星野は、そのまま南区刑務所に現れた。
刑務所の所長は、彼を笑顔で迎える。
「いやぁ、星野社長がいらっしゃるとは。やはり、彼女のことを特別に──」
「どうでもいい」
星野は冷たく遮った。
「宮崎麻奈に関する記録、すべて見せろ」
「もちろんですとも!」
所長は嬉々として資料を準備した。
星野社長が彼女を憎んでいたのは、刑務所中に知れ渡っていた。
証拠がないまま牢屋に突っ込まれた挙句、受刑中も「特別な扱い」を受けるよう命じられていたくらいだ。
やがて、所長がモニターを操作し、一つの映像を映し出す。
それは、麻奈が初めて刑務所に入った日の記録だった。
画面の中、宮崎麻奈は痩せていて、それでも凛としていて──
星野の記憶にある、気高く、美しかった彼女の姿のままだった。今は、自分を見るなり、麻奈が怯えて体が震えだす……
そして、映像が進む。
真っ暗な独房。
無力に隅で膝を抱える麻奈。そこへ現れた数人の女囚。
「星野社長からのご命令よ。しっかりご挨拶しなきゃね」
麻奈が震えながら訴える。
「お願い、お腹の子だけは……やめて……!」
けれど、彼女の叫びなど関係ないとばかりに、女囚たちは容赦なく彼女の腹を踏みつけた。
星野は、息を呑んだまま立ち上がった。
画面の中、麻奈は血まみれになり、胎児は彼女の体から──冷たい、命のない塊となって流れ出た。