星野は、傷口が裂けるのも構わず、一気に立ち上がった。血走った目で低く唸るように叫んだ。
「やっぱり……あいつが大人しくしてるわけがない!」
自分はいったん病院で怪我の処置を受けていただけなのに、深山彰人のやつは――なんと、その隙に麻奈の部屋に忍び込んだ。
これは――挑発だ!
星野は怒りのあまり、血で染まったスーツを掴み、乱暴に羽織ると病室を出ていった。
矢尾翔は顔面蒼白で慌てて追いかけながら叫んだ。
「社長、まだ治療が終わっていません!」
だが星野侑二は、まるで何も聞こえていないかのように、一度も振り返ることなく病室の外へと消えていった。
病院からクラウデーホテルまでは、通常なら車で30分。
だが星野は、アクセルを踏み込んでその時間を強引に半減した。
わずか15分後――車はホテル前に停まり、
星野は躊躇いなく車を降りると、まっすぐにエレベーターへ向かう。
そして、最上階に到着。
エレベーターの扉が開いた瞬間、彼の視界に映ったのは――
廊下の壁に気だるくも優雅にもたれかかる深山彰人の姿だった。
高貴さと気だるさを同時に纏うその立ち姿。
深山は星野侑二の登場に気づくと、腕時計を見やりながら、少し驚いたように言った。
「星野社長、まさか車を飛ばして来たのか?」
その声は柔らかく、穏やか。
だが、星野侑二にとっては、ひどく耳障りだった。
次の瞬間、彼はすでに深山彰人に向かって拳を振り上げる。
だが、深山は軽やかに身をかわし、すぐさま星野の手首を取って抑え込んだ。
「社長さん、怪我してるなら、無理しないことよ。」
そして、軽く手を捻るようにして、深山はあっさり星野を突き放す。
スーツの袖を整えながら、彼は眉をひそめ、言った。
「今のあなたじゃ、僕の相手にはならない。」
今日、最初星野侑二を見た瞬間――医者である深山は彼の怪我にすぐ気づいていた。
深山は一歩踏み出し、あの穏やかな笑みを浮かべながら言う。
「さすがは“男の中の男”だね。
あんな大怪我してるのに、治療もせずに駆けつけるなんて……。
僕が“麻奈ちゃん”を奪うのが、そんなに心配だったんですか?」
その言葉に、星野は瞬時に怒りを爆発させる。
彼は深山の襟元を掴み、低く唸る。
「彼女に二度と近づくな……!」
「助けてあげただけよ。彼女の怪我の処置をね。」
深山は、わざと星野の負傷した肩を握り、軽く力を込めながら続けた。
「これでやっと、あなたにも彼女の気持ちが分かったでしょ。
生きた心地がしないくらいの痛みってやつ。」
星野は睨み返しながら吐き捨てた。
「……わざと、俺にバレるようにしたな。」
深山は狭く切れ長の桃花眼を細め、まったく怯む様子も見せず、そのまま目を合わせてくる。
「さすがは星野社長。やっぱり何をしても、お見通しですね。」
深山と星野。
白と黒。
静と動。
互いに譲らぬ視線を交わし、両者ともに一歩も引かない。
星野の背中の傷は、無理な動きで再び裂け、黒いスーツはすでに血を吸い尽くし、赤い血がぽたぽたと床に滴っていく。
白い大理石の床に、赤い血の花が咲いた。
それを見て深山はあくまで穏やかに、皮肉めいた声で言った。
「清掃員の方々、大変だな。
これほどの血痕――落とすのに苦労しそう。」
星野はさらに一歩踏み込み、低い声で問い詰めた。
「……お前は、一体何が目的だ!」
前はすでに、矢尾翔に命じて深山彰人と宮崎麻奈の関係を調べさせていた。
しかし、何も怪しいところは見つからなかった。
だが――信じられるはずがない。
男が、理由もなく女にここまで尽くすなど――あるわけがない。
深山が麻奈に近づく理由が、純粋な善意じゃない、きっと――裏がある!
「へえ、僕の目的、まだ分からないか?」
深山は星野を鋭く睨みつけた。
「昔、もし宮崎麻奈があなたに夢中じゃなかったら、他の誰も入り込む余地がなかったら――
あなたが、彼女を手に入れられると思う?」
その言葉に、星野侑二の全身から殺気が冷たく放たれた。
やはり……深山の狙いは麻奈だ!
星野は鋭い目線で睨み返し、ひとことずつ噛み締めるように言い放った。
「……今でも同じだ、誰にも割って入る余地なんてない。」
深山はほんのり眉を上げ、微笑の中に皮肉を含ませて言った。
「それなら、なんで命懸けでここまで飛ばして来たの?
そんなに焦って……全く余裕ないのに、よくも強がるね。」
星野がどれほど焦っていたか、手に取るようにわかっていた。
深山は星野の肩から手を離し、ハンカチを取り出すと、ゆっくりと手のひらについた血を拭き取りながら、意味深な眼差しを投げた。
「……賭けてみない? 今回は、彼女がどちらを選ぶか。」
「彼女は俺のものだ! 誰にも奪わせない!!」
星野は怒気を滲ませて吠えた。
だが深山は淡々と、「僕はそう思わない」とだけ残し、もう何も言わずに背を向け、血のついたハンカチをゴミ箱へ放り込み、そのままスイートルームの廊下へと歩いて行った。
星野は拳を握りしめ、壁に叩きつけた。
手が破れ、血がにじんでも、彼はまったく気づいていなかった。
(麻奈は、俺のものだ――誰にも奪わせない!!)
星野は東側のプレジデンシャルスイートへと足を運び、カードキーを取り出した……
が、手が止まった。
視線を落とすと、床には自分が歩いた跡をなぞるように、点々と血が滴っていた。
しばし考えた後――彼はカードキーをそっと引っ込めた。
今のこんなみじめな姿、彼女には見せられない。
―――
一方で、スイートルームに戻った深山彰人。
青野千里は複雑な表情で彼を見て言った。
「深山様、最初は“ただ見物するだけ”って話でしたよね?
なんでわざわざ星野社長を挑発したんですか?」
こっそり宮崎様の怪我を手当てするだけならまだしも――
わざと星野社長に知られたなんて、それはもはや露骨な挑発だ!
本気で恐ろしかったのだ。
もし星野侑二が本気でキレていたら、うちのボスがどうなるか分からなかった。
だが深山はソファにゆったりと座り、気だるげに言った。
「僕なりに、後輩ちゃんに少しでも“猶予”もらってほしいね。」
青野は思わず顔をしかめた。
「ボスが星野社長と真っ向勝負したら、それは麻奈さんの命を削るようなものですよ。
あれは“執行猶予”どころか、“死亡フラグ”が立ちます!」
深山彰人は笑みを浮かべたまま言う。
「これまで、彼と対等に渡り合える人間なんていなかった。
だからこそ、彼はやりたい放題だった。
でも、今は違う。僕というライバルがいるから。」
宮崎麻奈と手を組んだ以上――彼女を“駒”として活かす。
その“駒”が、役割を果たす前に、星野に踏み潰されては意味がない。
星野の心に住み着いたあの“初恋”――それは、過去に固執した幻想、儚い月光。
星野は知らないだろう。
月は、自ら光を放つことはない。
太陽の光を盗んで、あたかも輝いているように見せているだけ――
彼が心酔しているのは、実のところ太陽の光なのだ。
深山の目がふと陰り、誰にも読み取れないような陰影を宿す。
「今の僕にできることは……太陽を、もう一度、輝かせることだ。」
その意味不明な言葉に、青野は首をかしげる。
「つまり……深山様、本気で宮崎様のこと、好きなんですか?」
深山は指先でそっと目尻に触れながら、どこか気の抜けた様子で答えた。
「美人を嫌うやつ、この世にいる?
男なら、好きになるのも当然だろう?」
青野は小さくため息をついた。
ボスは一見優しく見えるが、本質は誰よりも冷淡で非情。
その気のないような口調がすべてを物語っている。
ボスの心の中にはきっと――宮崎様どころか、女の影一つすら宿っていないだろう。
(本当に、宮崎様は不運だ。最初は星野侑二と関わってしまい、今度はうちのボスにロックオンされるとは。)
青野は思わず同情の念を抱きつつ、そっと言った。
「……深山様、本当に、今回の挑発は裏目に出たりしませんよね?
結果、宮崎様を危険に晒すだけなんてことは……」
――星野侑二、あの狂人は、常識が通じる相手じゃない。
深山彰人は唇の端をゆるやかに上げた。
その笑みには、少しの温度もなかった。
「そうなったら……
それは彼女の運が、悪かっただけさ。」