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第19話 月が太陽の光を盗んだ


星野は、傷口が裂けるのも構わず、一気に立ち上がった。血走った目で低く唸るように叫んだ。

「やっぱり……あいつが大人しくしてるわけがない!」

自分はいったん病院で怪我の処置を受けていただけなのに、深山彰人のやつは――なんと、その隙に麻奈の部屋に忍び込んだ。

これは――挑発だ!


星野は怒りのあまり、血で染まったスーツを掴み、乱暴に羽織ると病室を出ていった。

矢尾翔は顔面蒼白で慌てて追いかけながら叫んだ。

「社長、まだ治療が終わっていません!」

だが星野侑二は、まるで何も聞こえていないかのように、一度も振り返ることなく病室の外へと消えていった。


病院からクラウデーホテルまでは、通常なら車で30分。

だが星野は、アクセルを踏み込んでその時間を強引に半減した。

わずか15分後――車はホテル前に停まり、

星野は躊躇いなく車を降りると、まっすぐにエレベーターへ向かう。

そして、最上階に到着。


エレベーターの扉が開いた瞬間、彼の視界に映ったのは――

廊下の壁に気だるくも優雅にもたれかかる深山彰人の姿だった。

高貴さと気だるさを同時に纏うその立ち姿。


深山は星野侑二の登場に気づくと、腕時計を見やりながら、少し驚いたように言った。

「星野社長、まさか車を飛ばして来たのか?」

その声は柔らかく、穏やか。

だが、星野侑二にとっては、ひどく耳障りだった。


次の瞬間、彼はすでに深山彰人に向かって拳を振り上げる。

だが、深山は軽やかに身をかわし、すぐさま星野の手首を取って抑え込んだ。

「社長さん、怪我してるなら、無理しないことよ。」


そして、軽く手を捻るようにして、深山はあっさり星野を突き放す。

スーツの袖を整えながら、彼は眉をひそめ、言った。

「今のあなたじゃ、僕の相手にはならない。」


今日、最初星野侑二を見た瞬間――医者である深山は彼の怪我にすぐ気づいていた。

深山は一歩踏み出し、あの穏やかな笑みを浮かべながら言う。

「さすがは“男の中の男”だね。

あんな大怪我してるのに、治療もせずに駆けつけるなんて……。

僕が“麻奈ちゃん”を奪うのが、そんなに心配だったんですか?」


その言葉に、星野は瞬時に怒りを爆発させる。

彼は深山の襟元を掴み、低く唸る。

「彼女に二度と近づくな……!」

「助けてあげただけよ。彼女の怪我の処置をね。」


深山は、わざと星野の負傷した肩を握り、軽く力を込めながら続けた。

「これでやっと、あなたにも彼女の気持ちが分かったでしょ。

生きた心地がしないくらいの痛みってやつ。」


星野は睨み返しながら吐き捨てた。

「……わざと、俺にバレるようにしたな。」

深山は狭く切れ長の桃花眼を細め、まったく怯む様子も見せず、そのまま目を合わせてくる。

「さすがは星野社長。やっぱり何をしても、お見通しですね。」


深山と星野。

白と黒。

静と動。


互いに譲らぬ視線を交わし、両者ともに一歩も引かない。

星野の背中の傷は、無理な動きで再び裂け、黒いスーツはすでに血を吸い尽くし、赤い血がぽたぽたと床に滴っていく。

白い大理石の床に、赤い血の花が咲いた。


それを見て深山はあくまで穏やかに、皮肉めいた声で言った。

「清掃員の方々、大変だな。

これほどの血痕――落とすのに苦労しそう。」


星野はさらに一歩踏み込み、低い声で問い詰めた。

「……お前は、一体何が目的だ!」

前はすでに、矢尾翔に命じて深山彰人と宮崎麻奈の関係を調べさせていた。


しかし、何も怪しいところは見つからなかった。

だが――信じられるはずがない。

男が、理由もなく女にここまで尽くすなど――あるわけがない。

深山が麻奈に近づく理由が、純粋な善意じゃない、きっと――裏がある!


「へえ、僕の目的、まだ分からないか?」

深山は星野を鋭く睨みつけた。

「昔、もし宮崎麻奈があなたに夢中じゃなかったら、他の誰も入り込む余地がなかったら――

あなたが、彼女を手に入れられると思う?」


その言葉に、星野侑二の全身から殺気が冷たく放たれた。

やはり……深山の狙いは麻奈だ!


星野は鋭い目線で睨み返し、ひとことずつ噛み締めるように言い放った。

「……今でも同じだ、誰にも割って入る余地なんてない。」


深山はほんのり眉を上げ、微笑の中に皮肉を含ませて言った。

「それなら、なんで命懸けでここまで飛ばして来たの?

そんなに焦って……全く余裕ないのに、よくも強がるね。」

星野がどれほど焦っていたか、手に取るようにわかっていた。


深山は星野の肩から手を離し、ハンカチを取り出すと、ゆっくりと手のひらについた血を拭き取りながら、意味深な眼差しを投げた。

「……賭けてみない? 今回は、彼女がどちらを選ぶか。」


「彼女は俺のものだ! 誰にも奪わせない!!」

星野は怒気を滲ませて吠えた。


だが深山は淡々と、「僕はそう思わない」とだけ残し、もう何も言わずに背を向け、血のついたハンカチをゴミ箱へ放り込み、そのままスイートルームの廊下へと歩いて行った。


星野は拳を握りしめ、壁に叩きつけた。

手が破れ、血がにじんでも、彼はまったく気づいていなかった。


(麻奈は、俺のものだ――誰にも奪わせない!!)


星野は東側のプレジデンシャルスイートへと足を運び、カードキーを取り出した……

が、手が止まった。


視線を落とすと、床には自分が歩いた跡をなぞるように、点々と血が滴っていた。

しばし考えた後――彼はカードキーをそっと引っ込めた。

今のこんなみじめな姿、彼女には見せられない。


―――

一方で、スイートルームに戻った深山彰人。

青野千里は複雑な表情で彼を見て言った。


「深山様、最初は“ただ見物するだけ”って話でしたよね?

なんでわざわざ星野社長を挑発したんですか?」


こっそり宮崎様の怪我を手当てするだけならまだしも――

わざと星野社長に知られたなんて、それはもはや露骨な挑発だ!

本気で恐ろしかったのだ。

もし星野侑二が本気でキレていたら、うちのボスがどうなるか分からなかった。


だが深山はソファにゆったりと座り、気だるげに言った。

「僕なりに、後輩ちゃんに少しでも“猶予”もらってほしいね。」


青野は思わず顔をしかめた。

「ボスが星野社長と真っ向勝負したら、それは麻奈さんの命を削るようなものですよ。

あれは“執行猶予”どころか、“死亡フラグ”が立ちます!」


深山彰人は笑みを浮かべたまま言う。

「これまで、彼と対等に渡り合える人間なんていなかった。

だからこそ、彼はやりたい放題だった。

でも、今は違う。僕というライバルがいるから。」


宮崎麻奈と手を組んだ以上――彼女を“駒”として活かす。

その“駒”が、役割を果たす前に、星野に踏み潰されては意味がない。


星野の心に住み着いたあの“初恋”――それは、過去に固執した幻想、儚い月光。

星野は知らないだろう。

月は、自ら光を放つことはない。

太陽の光を盗んで、あたかも輝いているように見せているだけ――

彼が心酔しているのは、実のところ太陽の光なのだ。


深山の目がふと陰り、誰にも読み取れないような陰影を宿す。

「今の僕にできることは……太陽を、もう一度、輝かせることだ。」

その意味不明な言葉に、青野は首をかしげる。

「つまり……深山様、本気で宮崎様のこと、好きなんですか?」


深山は指先でそっと目尻に触れながら、どこか気の抜けた様子で答えた。

「美人を嫌うやつ、この世にいる?

男なら、好きになるのも当然だろう?」


青野は小さくため息をついた。

ボスは一見優しく見えるが、本質は誰よりも冷淡で非情。

その気のないような口調がすべてを物語っている。

ボスの心の中にはきっと――宮崎様どころか、女の影一つすら宿っていないだろう。


(本当に、宮崎様は不運だ。最初は星野侑二と関わってしまい、今度はうちのボスにロックオンされるとは。)


青野は思わず同情の念を抱きつつ、そっと言った。

「……深山様、本当に、今回の挑発は裏目に出たりしませんよね?

結果、宮崎様を危険に晒すだけなんてことは……」

――星野侑二、あの狂人は、常識が通じる相手じゃない。


深山彰人は唇の端をゆるやかに上げた。

その笑みには、少しの温度もなかった。


「そうなったら……

それは彼女の運が、悪かっただけさ。」



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