階下からは悲鳴と騒然とした声が次々と響いてきた。
小林夜江は全身を血に染め、地面に倒れ込み、今にも息絶えそうな様子だった。
――認めざるを得ない。
小林夜江も、その姉と同じで――相当なやり手だ。
私は、彼女の策略によって、これから星野の怒りという業火に焼かれるだろう。
だから、本能的に後ずさりし、その場から逃げ出したくなった。
しかし――
星野の鋭く突き刺すような視線は、まるで足枷のように私を縛りつけ、その場に釘づけにした。微動だにできない。
星野は一歩一歩、私に向かって歩み寄り、その胸から低く押し殺した怒りの声が迸った。
「……そんなに俺と一緒にいるのが、嫌か?」
――帰ってきた早々、騒ぎを起こす。
しかも、よりにもよって夜江を狙った挑発。
それがどれだけ意図的か、明白だった。
つまりこの女は、俺に対する憎しみで動いている。
自分と深山の仲を、無理やり引き裂かれた復讐心で。
星野は、深山のあの挑発を思い出し、ますます顔を強張らせた。
その目は氷のように冷たく、こめかみに浮かぶ血管は怒りで脈打っている。
――確かに、彼は後悔していた。
かつて、生まれてくるはずだった命を自らの手で潰してしまったこと。
だからこそ、償いたかった。
だが、それは自分の心を踏みにじり、他の男と関係を持とうとする女を、好きにさせて、黙って見過ごすわけではない。
燃え上がる怒りに任せて――
「バシッ」
乾いた音とともに、私は星野に頬を打たれ、ふらつきながら床に崩れ落ちた。
唇の端から、鮮血が一筋、滴り落ちる。
彼の目には、もはや情けなど一切なかった。
無情な視線を投げかけながら、私の顎をつかんで顔を無理やり持ち上げる。
「……まったく、昔と何も変わってねぇな」
――何度も俺を欺いて、もてあそんで……
なのに俺は、またその手に落ちる。
愚かだった。少しでも心を許したのが間違いだった。
星野の体から、殺気とも取れる気配が滲み出していた。
私は焼けるような頬を押さえながら、恐怖に声を震わせる。
「わ、わたし……彼女を、突き落としたりしてない……!」
だが彼は、私の言葉など一切聞き入れようとしなかった。
乱暴に胸ぐらをつかみ、私を引きずり起こす。
私は逃げようともがいたが、彼の手は鉄のように私を拘束し、動くこともできなかった。
そして、凍てつくような視線を浴びせながら、彼は一言一言、重く言い放つ。
「……夜江に何かあったら――
お前とのあの約束は、全部なかったことにする」
全身が、凍りついた。
――星野は、いったい小林夜江をどれほど重く見ているの?
イタリア市場が関わった私たちの取引を、あっさり破棄するほどに――
彼女のことを、優先するなんて……!
絶望が、胸を締めつけた。
私は彼の腕にすがりつき、泣きそうな声で叫んだ。
「だめ、そんなの……約束破棄よ……!」
星野侑二は私を持ち上げ、その目を真正面から突きつけてきた。
「だったら……祈れ。夜江が無事であるように、心からな」
そして――
まるでゴミでも投げ捨てるように、私の体を床に叩きつけた。
私はそのまま倒れこみ、呆然としたまま彼の背中を見送るしかなかった。
彼は駆け足で階段を下りていき、倒れた小林夜江をその腕に抱き上げた。
小林夜江は弱々しく、星野侑二の胸に身を預け――涙をぽろぽろと流しながら、か細い声で言った。
「侑二……どうか、宮崎様に怒らないで……
わたし、ちょっと……ぶつかっただけなの……彼女とは、関係ないの……」
楠井海がすぐに飛び出し、憤りに満ちた口調で糾弾した。
「星野社長! さっきはっきり見ましたよ。
あの毒婦がわざと夜江様を突き落としたんです!」
小林は涙ながらに喉を詰まらせた。
「楠井さん……たぶん、見間違いじゃないかと……」
楠井はその態度に苛立ちを隠せず叫んだ。
「その毒婦はお嬢さんを殺しかけたんですよ!
それなのに、まだ庇うんですか!」
小林は力なく目を伏せた。
「私……侑二に、困ってほしくないの……」
楠井海は歯ぎしりしながら、なおも訴えた。
「星野社長! あの女は以前、ひるみ様を死に追いやった張本人ですよ!
今度は夜江様まで殺そうとしているのに、まだ庇うんですか!」
小林は恐怖を浮かべ、身体を震わせる。
「……あの人、今も……私を殺そうとしてるの?」
「その毒婦は、あなたが死ぬのを心から望んでますよ!」
小林はすっかり怯えきって星野の腕をつかみ、泣き叫んだ。
「侑二……私、死にたくない……!」
その感情が激しすぎたせいか――
小林はそう言うやいなや、口から血を吐いて、完全に意識を失ってしまった。
「夜江様っ! お願いです、無事でいてください!」
星野は腕の中で気を失った小林夜江を見下ろし、その顔色はさらに暗くなった。
ゆっくりと顔を上げ、冷え切った視線で階上の麻奈を睨みつけた。
そして、歯を噛み締めながら命じた。
「彼女を……寝室に閉じ込めろ」
命令を受けた楠井はすぐに二人の使用人を呼びつけ、鬼のような形相で私に向かってくる。
私は慌てて立ち上がり、恐怖に満ちた声で叫んだ。
「来ないで! 自分で行くから!」
楠井海は冷笑を浮かべながらも、すぐさま歩み寄って私の髪を掴んだ。
「だったら、こっちでご案内しようか!」
そして使用人たちとともに、私は乱暴に寝室へと引きずられていった。
星野は私が階段の向こうに消えるのを見届けると、隣の使用人に向かって命じた。
「何をしてる。早く車を用意しろ、病院に行くんだ」
―――
急診室の外、星野は額に手を押し当て、沈痛な面持ちで立ち尽くしていた。
彼は小林ひるみには、一つの命の借りがある。
あの時、守ることができなかったせいで、彼女を死なせた。
今度こそ――彼女のただ一人の肉親・小林夜江だけは、必ず守らねばならない。
しばらくして、救急室の扉が開いた。
小林夜江は担架の上で虚ろに横たわり、数人の看護師に囲まれて運び出された。
主治医の佐藤先生が厳しい表情で星野侑二に歩み寄り、低く報告した。
「小林様の容体は非常に悪いです。複数箇所の骨折が確認されました。
最も深刻なのは……今後、妊娠はほぼ不可能でしょう」
担架の上の小林夜江はその言葉を聞いた瞬間、絶望に打ちひしがれて泣き崩れた。
「先生……私、もう……自分の赤ちゃんを産めないの……?」
佐藤は顔を曇らせた。
「小林様……子宮に深刻な損傷があります。私たちにも、どうすることもできません……」
小林は半身を起こし、震える声で叫んだ。
「女として……愛する人に子どもを授けられないなら、生きてる意味なんてないっ!」
その瞬間――
誰もが油断していた隙を突き、彼女は担架から飛び降り、開いた窓へと走り出す。
医師と看護師たちは慌てて駆け寄り、飛び降り自殺を食い止めようとした。
星野侑二もすぐに駆け寄り、窓の縁にしがみつく彼女を引き戻した。
「やめろ、夜江! 落ち着け!」
小林は窓枠を掴んだまま、声を張り上げて泣き叫ぶ。
「私……もう女として欠陥品なのよ! 誰も、私なんかを欲しがらないっ!」
今にも飛び降りようとする彼女を、星野は力づくで引き寄せ、きっぱりと言い切った。
「これから先、俺が養う」
その言葉に、小林夜江の瞳の奥で、ほんの一瞬だけ得意げに光がちらついた。
彼女はそのまま星野の胸にしがみつき、涙に濡れたまま、なおも悲劇のヒロインを演じ続けた。
「私とお姉ちゃんの夢は……いつか自分の子どもを育てることだったの。
だけど、宮崎麻奈が……あなたとお姉ちゃんの赤ちゃんを殺して……今度は私の未来まで奪って……!」
彼女のすすり泣きは、命が燃え尽きそうなほど切迫していた。
星野は、崩れ落ちそうな彼女を抱きしめながら、かみ締めるように言い放った。
「俺は……必ずあいつに、償わせてやる――おまえの前で!」