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第25話 胸の痛み


神川県北。丘と川が交わる場所にひっそりと佇むインクレガーデンは、俗世から隔絶された神秘的な古代荘園のようだった。


寝室は豪華でありながら静寂に包まれている。

天井から吊り下げられたシャンデリアが放つ柔らかな光が、ソファに腰かける優雅な男を照らし出す。

深山彰人はだらりとソファに腰かけ、カップの取っ手をそっと弄んでいた。


星野の前で少しからかっただけなのに。

まさか彼が、慌てふためいて後輩ちゃんを志津県から神川県へ連れ戻すとは。

深山の口元がほんのり緩んだ。


「やはり、男には競い合う相手がいないとね」

星野は明らかに、自分が後輩ちゃんを奪うのを恐れている。

そうして星野が自分への警戒心を強めれば、後輩ちゃんへの態度も自然と柔らかくなるだろう。

彼女も「この狂人」に命を狙われる恐怖から解放されるというわけだ。


深山は首をかしげ、揶揄の口調込めて呟いた。

「まさか後輩ちゃんの言う通り、俺って本当に善人なのか?」

貴公子のような身のこなしでゆっくりと立ち上がると、カップを手にフロア窓へ歩み寄り、昇りゆく朝日を眺めた。


「一週間以上も休んでいたし、そろそろ病院に顔を出さないとな」

今の彼の本職は医者だ。

その役割を完璧に演じきらねばならない。


深山が着替えようとしたその時、青野千里が慌てて部屋に飛び込んできた。

彼はゆっくりとまぶたを上げ、青野を一瞥する。

「そんな慌てようじゃ、へ送り返して礼儀作法を叩き直させる必要があるな。」


キャンプでの惨めな記憶が蘇り、青野は思わず震え上がった。

次の瞬間、生まれ変わったかのように落ち着いた様子で、深山の余裕ぶりを真似てゆっくりと口を開いた。

「深山さま、緊急事態です」

平静を装いながらも、内容は深刻だ。


深山のまぶたがわずかにピクリと動いたが、優雅な表情に変わりはない。紅茶を一口含んで言った。

「神川県で、一体どんな大事が起きると言うんだ?」

全てを掌握しているかのような、悠然たる態度だった。


しかし青野の平静は一秒とも持たず、次に声は思わず甲高くなった。

「宮崎様が病院に運ばれ、生死の境を彷徨っているとの報告です!」


深山の手が突然震えた。

カップが手から滑り落ち、床に「ガシャン」と鋭い音を立てた。

飛び散った液体が、彼の真っ白なシャツに消えない染みを刻んだ。

常に平静を保つこの男の顔に、明らかな動揺が走るのは珍しいことだった。

常に崩さない好青年の仮面を剥ぎ取り、深山の目つきが一瞬で鋭くなった。


「詳細を話せ」

普段の穏やかな口調は消え、青野にもわかるほどの焦りが混じっている。

青野はボスの反応が予想以上に激しいことに少し驚いたが、素早く状況を説明した。


「つい先ほど星野宅からの情報です。宮崎様が何か過ちを犯したようです」

「星野が最も寵愛している小林夜江を階段から突き落としたとか」

「それを聞いた星野が逆上して、宮崎様を苛め始めたと」

「昨夜、星野宅の庭で星野に虐げられ、全身血まみれになった宮崎様を目撃した者がいるとのことです」

「その後、何があったのかは定かではありませんが、星野に傷を負わせてご自身は…自ら命を絶たれたようです」

「今は星野の手配で病院へ搬送されましたが…どうやら最後の息を引き取る寸前だとか」


深山の表情はますます曇っていく。

青野の言葉は、一つ一つが同じ事実を指し示していた。

彼の……作戦が裏目に出たのだ!!!

彼の挑発で星野が後輩ちゃんを奪われる危機感を抱き、彼女を大切にするだろうと予想していた。

しかしあの狂人め、後輩ちゃんの命そのものを弄ぼうとは!


深山はすぐさまクローゼットへ、適当に上着を掴むと足早に外へ向かった。

青野が後を追いかける。

「深山さま、お気持ちはわかりますが、宮崎様が搬送された病院には星野社長が警備員を厳重に配置しています。このままではお入れ頂けません」


星野宅からなら深山の勤務病院の方が近いはずだ。

それなのに星野は、わざわざ遠くの私立病院を選んだ。

これは明らかにボスを警戒しての措置だ。


深山の瞳に、嘲笑の色が揺らめいた。

「それで俺を止められると思っているのか?」

神川県に、彼が入りたいと思って入れない場所などない。

厳重警備など、取るに足らないものだ!

彼は強行突破してでも入ってみせる!!!


―――

一時間後。

深山彰人は警備厳重な私立病院へ無事侵入した。


病院の廊下の一角。

マスクをした青野が密やかに深山の元へ近づき、書類の束を手渡した。

「宮崎様の主治医から入手しました」

深山は検査報告書を受け取ると、細長い桃色眼を細めて内容を走り読みした。


全身に広がる打撲傷。

重度の脳震盪。

かすかな生命徴候。

後輩ちゃんは、一体どんな拷問を受けたというのか!!!


深山の指が微かに震えながらページをめくる。

「裂傷」「流産」という文字が飛び込んできた。

彼の美しい瞳に、一瞬で殺気が走る。


三ヶ月前、病院で後輩ちゃんと再会した時、妊娠が判明していなければ、彼女はとっくに……

お腹の命が、彼女に生きる希望を与えていたのだ。

しかしその希望を、星野侑二はまたもや無情に踏み潰した。


深山は報告書を握りしめ、青野へ命じた。

「病室の守備を引き離せ」

青野が命令を執行しようとする時、ふと思い出したように振り返って言った。

「以前、何かあってもそれは宮崎様の不運だとおっしゃっていましたよね?」

ではなぜ今……二人はここにいるのだろう?


深山が、胸中に渦巻く様々な異常な感情を、たった一言にまとめた。

「彼女は……一応俺の駒だからな。」

青野はこの答えにどこか違和感を覚えつつも、それ以上は詮索せず、すぐに病室の前へ走り、ドアをノックした。


矢尾翔がドアを開けた。

「お呼びでしょうか、先生?」

青野は真剣な口調で口実を作った。

「星野社長はまだ意識が戻りませんが、お持ちの携帯電話が鳴り続けております。矢尾秘書に対応をお願いできませんか?」


矢尾は躊躇した。

社長は意識を失う前に、宮崎様から絶対に目を離すなと命じていた。

しかし通常、重大な事態でなければ、社長へ執拗に電話をかける者などいない。

社長の秘書として、矢尾は迷わず職務を選択し、星野侑二の病室へ急いだ。


矢尾が去るやいなや、深山が私の病室へ入った。

目に入ったのは、厚い包帯で頭部を覆われ、体中に医療設備のコードが繋がれた私の姿だった。

計器に表示される数値と、規則的な電子音は、私の命が崩壊の瀬戸際にあることを告げている……


検査結果を見た深山は、私の容体が悪いことを想像していた。

しかしこの光景を直に目にすると、やはり強烈な衝撃を受けた。

彼の心臓が、糸で締め付けられるように激しく痛んだ。


深山はベッドへ近づくと、無意識に私の手を取ろうとした。

驚いたことに、私の手には無数の傷跡があり、いくつかは骨まで達し、肉が剥き出しになっている。見るに耐えない惨状だった!


深山の余裕が、この瞬間に完全に崩れ去った。

彼は自分の胸に手を当てた。

なぜ……こんなにも胸が痛むのか!!!


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