「……そんな…」
私は目を見開き、全身が衝撃で固まった。深く刻まれる言葉が、鼓動を打つ心臓に直接響いてくる。
「だから君は、あれほど早く刑務所を出られたんだよ」
深山彰人の唇が、かすかに震えた。
「それは……お兄さんのおかげだ」
まるで鉄槌のようなその言葉に、思考は粉々に砕けた。
今までずっと、星野が小林ひるみの死に関する確たる証拠を掴めなかったから――
仕方なく私を釈放したのだと思い込んでいた。
だが真実は違った。
私の兄が、自らの命を代償に、私に刑務所から生きて出る機会を掴ませてくれていたのだ。
「ぐっ……!」
嗚咽が喉を突き破る。涙が一気に溢れ出し、止めようもなく頬を伝った。深山は静かにハンカチを取り出し、私の頬をそっと拭う。その優しい動作とは裏腹に、次に囁かれた言葉はさらに残酷だった。
「どうして今もまだ、お兄さんの遺体が見つからないか、わかるか?」
「借金取りに公海へ連れ去られたんだ」
「切り刻まれて、サメの餌にされた。だから……骨すら残っていない」
彼の指が私の涙の跡を撫でる。
「身代わりに死んでまで君を牢から救い出した兄がいるのに、君は死のうだなんて言えるのか?」
深山の言葉は鋭い刃となって、私の心臓をズタズタに引き裂いた。
お兄さん……
大学入試試験で首席合格、スタンフォード史上最年少の教授――
輝かしい星のような人生を歩んできた、誰よりも私を愛してくれた兄。
どんなトラブルを起こしても、真っ先に私をかばい、全ての非難を一身に受けてくれた。
「たとえ空が落ちてきても、麻奈に安全な場所は作ってやるさ。」
そう言って私の頭を撫で、ただただ幸せでいてほしいと願ってくれた兄。
あれほど誇り高かった兄さんが、わがままな私のために、星野侑二に何度も頭を下げた。私を少しでも大切にしてほしいと、哀願した。
そして私が宮崎グループを賭けにして、星野のために星野グループの支配権を取り戻す手助けをした時も。
一言の非難もなく、陰で全ての障害を取り除いてくれた。
星野に式場で見捨てられた時、真っ先に私をかばい、世間の冷たい視線から守ってくれたのも兄さんだった。
世界で一番、最高のお兄さんが――
このどうしようもない妹のために、骨すら残らぬ最期を遂げた。
「……ああ」
砕けた心の奥底から、暗い感情が噴き上がり、一瞬にして膨張した。
「……ふぅ」
傷だらけの手をゆっくりと上げ、涙を拭い去る。そして深山をまっすぐ見据え、一句ずつ、言葉を噛みしめるように言った。
「……前のお話、続けましょう」
全ては星野侑二のせいだ。
あの男が両親を死に追いやり、兄を殺した。
どうして、あの悪魔を生かしておける?
血で血を償わせる――必ず。
たった今まで死の淵にいた私の目に、活気が灯るのを、深山は見逃さなかった。その瞳の奥に、複雑な感情が一瞬よぎる。
人を生へと縛りつけるのは――
希望だけではない。
憎悪もまた、強力な錨となるのだ。
深山の賭けは……勝った。
―――
矢尾翔が星野侑二の病室へ駆け込んだ時、社長の仕事用スマートフォンが執拗に鳴り続けていた。
(まずい……社長の私物に触れるなんて、絶対に嫌がるのに……!)
ベッド上の星野を見やる。
「社長の容体じゃ、当分意識は戻りそうにありません……」
躊躇い続けた末、矢尾は危険を承知でスマホに手を伸ばした。しかし掴んだ瞬間、致命的な事実を思い知る。
(これ、パスワードがかかってる……!開かないじゃないか!)
鳴り続ける端末を前に、ただただ呆然と立ち尽くす矢尾。その時――
「……お前、そこで何をしている?」
冷たい声が病室に響いた。矢尾は飛び上がるほど驚き、スマホを落としそうになる。
「す、すみません!医師から連絡がありまして、社長のスマホが鳴りっぱなしだと……!」
星野侑二の目が鋭く光る。
「お前の任務は、彼女の監視だ」
矢尾は恐る恐る答えた。
「宮崎様はまだ昏睡状態です。逃げられるはずが……ご心配には及びません」
だが星野の表情は不安に歪み、部下の言葉など全く耳に入っていない。点滴を自ら引き抜くと、ベッドから降りて病室を出て行った。
一分も経たないうちに、星野は私の病室に現れた。私はまだ昏睡中だった。兄の死の真相を知り、心身ともに限界を迎えていたのだ。深山もそれ以上は何も言えず、見守るしかなかった。
私の無事な姿を確認すると、星野はかすかに安堵の息を吐いた。
(……よかった。逃げてはいなかった)
ゆっくりと歩み寄り、血痕が乾いた椅子に腰を下ろす。遅れて駆けつけた矢尾が、小声で付け加えた。
「病院の外も警備が厳重です。仮に宮崎様が目を覚ましても、脱走は不可能です!」
矢尾には、社長の心配が過剰に思えた。彼は震える手でスマホを差し出しながら言う。
「先ほどからずっと、着信がありまして……」
星野が端末を受け取る。表示された着信履歴は「浅田信」の名で埋め尽くされていた。眉を顰め、苛立たしげに浅田信に電話をかける。
『星野社長!ついに連絡が取れました!
深山グループが突然、私の対立候補である徳田栄治を支援すると言い出したんです!今回の県知事選挙、何とかご助力を!』
浅田信が神川県知事の座を得たのは、星野グループによる秘密裏の資金提供が大きかった。神川県のトップ企業である深山グループは、これまで政界には一切干渉せず、ウォール街でのビジネスにだけ専念してきた。この突然の動きに、星野は異常な気配を感じ取る。
(何を企んでいる……?)
思考が巡るその時――
病室のドアが開いた。
星野が顔を上げると、マスクをした医師が入ってくる。白衣という簡素な服で、さらに顔の半分も隠れているのに、全身から漂う気品と知性は隠しようもない。
(……深山彰人だ。入ってこられたか)
星野は一瞬で医師の正体を見抜いた。病院の外を厳重に警備しているのに、どうやって侵入できた?
(目的は、人を奪いに来たのか……?)
それを思うと、殺気が全身を包む。ゆっくりと立ち上がった星野は、帝王のような威圧感で深山へ歩み寄る。
すると深山は、優雅に細長い指を上げた。マスクをそっと外すと、星野に向けて、いつもの穏やかな微笑みを浮かべて言った。
「星野社長――取引をしましょうか?」