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第27話 取引をしよう


「……そんな…」


私は目を見開き、全身が衝撃で固まった。深く刻まれる言葉が、鼓動を打つ心臓に直接響いてくる。


「だから君は、あれほど早く刑務所を出られたんだよ」

深山彰人の唇が、かすかに震えた。

「それは……お兄さんのおかげだ」


まるで鉄槌のようなその言葉に、思考は粉々に砕けた。

今までずっと、星野が小林ひるみの死に関する確たる証拠を掴めなかったから――

仕方なく私を釈放したのだと思い込んでいた。

だが真実は違った。

私の兄が、自らの命を代償に、私に刑務所から生きて出る機会を掴ませてくれていたのだ。


「ぐっ……!」


嗚咽が喉を突き破る。涙が一気に溢れ出し、止めようもなく頬を伝った。深山は静かにハンカチを取り出し、私の頬をそっと拭う。その優しい動作とは裏腹に、次に囁かれた言葉はさらに残酷だった。


「どうして今もまだ、お兄さんの遺体が見つからないか、わかるか?」

「借金取りに公海へ連れ去られたんだ」

「切り刻まれて、サメの餌にされた。だから……骨すら残っていない」


彼の指が私の涙の跡を撫でる。

「身代わりに死んでまで君を牢から救い出した兄がいるのに、君は死のうだなんて言えるのか?」

深山の言葉は鋭い刃となって、私の心臓をズタズタに引き裂いた。


お兄さん……

大学入試試験で首席合格、スタンフォード史上最年少の教授――

輝かしい星のような人生を歩んできた、誰よりも私を愛してくれた兄。


どんなトラブルを起こしても、真っ先に私をかばい、全ての非難を一身に受けてくれた。

「たとえ空が落ちてきても、麻奈に安全な場所は作ってやるさ。」

そう言って私の頭を撫で、ただただ幸せでいてほしいと願ってくれた兄。


あれほど誇り高かった兄さんが、わがままな私のために、星野侑二に何度も頭を下げた。私を少しでも大切にしてほしいと、哀願した。


そして私が宮崎グループを賭けにして、星野のために星野グループの支配権を取り戻す手助けをした時も。

一言の非難もなく、陰で全ての障害を取り除いてくれた。


星野に式場で見捨てられた時、真っ先に私をかばい、世間の冷たい視線から守ってくれたのも兄さんだった。


世界で一番、最高のお兄さんが――

このどうしようもない妹のために、骨すら残らぬ最期を遂げた。


「……ああ」

砕けた心の奥底から、暗い感情が噴き上がり、一瞬にして膨張した。


「……ふぅ」

傷だらけの手をゆっくりと上げ、涙を拭い去る。そして深山をまっすぐ見据え、一句ずつ、言葉を噛みしめるように言った。


「……前のお話、続けましょう」


全ては星野侑二のせいだ。

あの男が両親を死に追いやり、兄を殺した。

どうして、あの悪魔を生かしておける?

血で血を償わせる――必ず。


たった今まで死の淵にいた私の目に、活気が灯るのを、深山は見逃さなかった。その瞳の奥に、複雑な感情が一瞬よぎる。


人を生へと縛りつけるのは――

希望だけではない。

憎悪もまた、強力な錨となるのだ。


深山の賭けは……勝った。


―――


矢尾翔が星野侑二の病室へ駆け込んだ時、社長の仕事用スマートフォンが執拗に鳴り続けていた。

(まずい……社長の私物に触れるなんて、絶対に嫌がるのに……!)

ベッド上の星野を見やる。

「社長の容体じゃ、当分意識は戻りそうにありません……」


躊躇い続けた末、矢尾は危険を承知でスマホに手を伸ばした。しかし掴んだ瞬間、致命的な事実を思い知る。

(これ、パスワードがかかってる……!開かないじゃないか!)

鳴り続ける端末を前に、ただただ呆然と立ち尽くす矢尾。その時――


「……お前、そこで何をしている?」

冷たい声が病室に響いた。矢尾は飛び上がるほど驚き、スマホを落としそうになる。


「す、すみません!医師から連絡がありまして、社長のスマホが鳴りっぱなしだと……!」


星野侑二の目が鋭く光る。

「お前の任務は、彼女の監視だ」

矢尾は恐る恐る答えた。

「宮崎様はまだ昏睡状態です。逃げられるはずが……ご心配には及びません」


だが星野の表情は不安に歪み、部下の言葉など全く耳に入っていない。点滴を自ら引き抜くと、ベッドから降りて病室を出て行った。


一分も経たないうちに、星野は私の病室に現れた。私はまだ昏睡中だった。兄の死の真相を知り、心身ともに限界を迎えていたのだ。深山もそれ以上は何も言えず、見守るしかなかった。


私の無事な姿を確認すると、星野はかすかに安堵の息を吐いた。

(……よかった。逃げてはいなかった)


ゆっくりと歩み寄り、血痕が乾いた椅子に腰を下ろす。遅れて駆けつけた矢尾が、小声で付け加えた。

「病院の外も警備が厳重です。仮に宮崎様が目を覚ましても、脱走は不可能です!」


矢尾には、社長の心配が過剰に思えた。彼は震える手でスマホを差し出しながら言う。

「先ほどからずっと、着信がありまして……」


星野が端末を受け取る。表示された着信履歴は「浅田信」の名で埋め尽くされていた。眉を顰め、苛立たしげに浅田信に電話をかける。


『星野社長!ついに連絡が取れました!

深山グループが突然、私の対立候補である徳田栄治を支援すると言い出したんです!今回の県知事選挙、何とかご助力を!』


浅田信が神川県知事の座を得たのは、星野グループによる秘密裏の資金提供が大きかった。神川県のトップ企業である深山グループは、これまで政界には一切干渉せず、ウォール街でのビジネスにだけ専念してきた。この突然の動きに、星野は異常な気配を感じ取る。

(何を企んでいる……?)


思考が巡るその時――

病室のドアが開いた。

星野が顔を上げると、マスクをした医師が入ってくる。白衣という簡素な服で、さらに顔の半分も隠れているのに、全身から漂う気品と知性は隠しようもない。

(……深山彰人だ。入ってこられたか)


星野は一瞬で医師の正体を見抜いた。病院の外を厳重に警備しているのに、どうやって侵入できた?

(目的は、人を奪いに来たのか……?)


それを思うと、殺気が全身を包む。ゆっくりと立ち上がった星野は、帝王のような威圧感で深山へ歩み寄る。

すると深山は、優雅に細長い指を上げた。マスクをそっと外すと、星野に向けて、いつもの穏やかな微笑みを浮かべて言った。


「星野社長――取引をしましょうか?」


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