少しの予兆も、少しの防備もなかった。
小林夜江を私はあっさりと床に叩き倒した。
手にしていたオールを投げ捨て、辺りをざっと見渡した後、私は足を引きずりながらヨットのキャビンに入り、救急箱を見つけて、肉がめくれ上がった自分の手首に丁寧に包帯を巻いた……
本来なら数分で終わる作業。
しかし、私はすでに脱力していたせいで、結果十五分もかかってしまった。
しかも包帯の巻き方もひどいものだった。
少し息を整えながら、私は果てしない海を見つめ、かすれた声で呟いた。
「早く戻らなきゃ!」
壊れかけた身体を引きずりながら、ヨットのハンドルの前に立ち、ナビゲーションシステムを起動し、エンジンをかける。
ダンスや、上品な令嬢のイメージとは裏腹に――
私の趣味は「おしとやか」とは正反対だった。
ダイビングが好き。
グライダーも好き。
そして、海でのドライブも好きだ……
だから、ヨットを操縦するのは私には難しいことではなかった。
今の問題は、私の身体がすでに限界に近いこと。
この最後の気力で岸にたどり着けなければ、この広い海で私を待つのは死だけだった。
でも――私は死ねない!
もう誰にも、私を殺させない!
私の眼に再び熱い炎が宿る。それが私を支え、最後の一息を繋ぎとめていた。
ついに――私は島を見つけた!
ヨットが岸についたとき、遠くから誰かが私に向かって急いで走ってくるのが見えた。
顔はよく見えなかったが――でも、私には分かる。秋山さんだ!
ヨットが岸に着いた瞬間、秋山は駆け寄ってきた。
しかし、彼の目に映ったのは、服に大きな血痕が広がり、両手首から絶えず血が滲み、額も血だらけの私の姿……
秋山が駆け寄って私を支え、叫んだ。
「宮崎さん、何があったんですか!」
ただ診療所から出て少し気分転換するだけじゃなかったのか?
どうしてこんな無残な姿に――!
蘭に知られたら、きっと自分は殺される!!!
私は辛うじて手を上げ、隅に倒れている小林夜江を指差した。
「彼女に見つかったの。」
秋山はその方向を見て、驚きの表情を浮かべる。
「小林ひるみは死んだんじゃ……どうしてまだ生きているんだ?」
そうか、秋山はまだ小林夜江の存在を知らなかった。
今、急に彼女を見て、てっきり小林ひるみだと思っただろう。
私は小林の顔をじっと見つめ……
脳裏には、先ほど彼女が言った不可解な言葉がよぎる。
とあるとんでもない考えが、ゆっくり頭をもたげてきた。
だが、その答えを掴もうとする前に、強烈な脱力感が私を襲った。
もう、限界だった。
私は意識を保てず、そのまま昏倒した。
秋山は慌てて私を抱きかかえ、診療所へと急いだ。
医者は私のひどい姿に、呆然とした。
「この子、悪者に遭ったのか?でも、おかしいな。
うちら島の人々はみんな純粋でいいやつばかりだよ、悪い人なんていないのに!」
秋山は眉をひそめ、「島の人間じゃありません」とだけ答えた。
そして、医者を真剣な目で見つめた。
「彼女のことはお願いします。私は少し外に行って、用事を済ませてきます。」
医者は軽く手を振った。
「はいよ、ここにいても役に立たんしな。」
秋山はすぐさま診療所を駆け出した。
小林ひるみを早く処理しておかないと――
宮崎麻奈の行方が漏れるかもしれないんだ!
―――
意識が朦朧とする中、私はまた、何も見えない暗い深淵に落ちていった。
だが、暗闇に触れた瞬間、私はすぐにその束縛から逃れた。
ここは、私の居場所じゃない!!!
もう、堕ちたりしない!
私は全力で暗闇から這い上がり、ゆっくりと目を開いた。
目にはもう迷いはなかった。ただ、決意だけがあった。
ベッドの横に座る秋山を見て、私は口を開いた。
「私は復讐する!」
秋山は反論しようとした。
だが、私は真剣な表情で言い続けた。
「秋山さん、私の頭は今までで一番はっきりしている。自分が何をすべきか!」
秋山は黙り込んだ。
なぜなら、私の今の目は、以前よりずっと強く、誰にも止められないほどの決意が宿っていたからだ。
疑いようもない。たとえ彼が私を海外に送っても、私は必ず戻ってくるだろう。
秋山は眉をひそめ、重い声で言った。
「分かっているのか?この道を選べば、どうなるか――」
私は沈痛な表情で、涙を浮かべて言った。
「私の母さんも父さんも、兄さんも、彼に殺された。今度は蘭さん、そしておばあちゃんまで……私は絶対に復讐する!命を賭けても!」
秋山は私のお腹に視線を向けた。
「でも、君は妊娠しているんだぞ!」
私はお腹に手を当てて、静かに言った。
「きっとこの子も私を誇りに思ってくれる!」
それに……
お腹の子は、いざという時、私にとって隠しの切り札になる!
生き延びるためなら、私は全ての誇りも羞恥も捨ててきた。
これからは復讐のために――同じくすべてを賭けられる!
私は苦しそうに手を伸ばし、秋山の腕を掴んだ。その目には懇願がこもっていた。
「秋山さん、蘭さんは私に素晴らしい未来を用意してくれたけど……でも、蘭さんだってきっと、私自身の未来を自分で選ぶことを望んでる!」
秋山は長い沈黙の後、深く息をついた。
そして、彼の目にも決意が宿った。
「分かった、一緒にやろう。」
秋山はずっと蘭の遺志に従おうとしてきた。
だが、それが本当に自分の望むことか?
いや――
彼もまた何もかも顧みず、愛する人と自分の子のために復讐したかったのだ。
今、秋山ははっきりと感じていた。私はもう以前のように、衝動だけで復讐を望んでいるのではない、と。
今の私は、復讐をこの人生唯一の道と決めている!
ところで、秋山はふと疑問を抱いた。
「小林ひるみと出会って、一体何があったんだ……」
それほどまでに、人が変わる出来事があっただろうか?
秋山はそれ以上言わなかったが、私はその意味を理解した。
私は沈んだ目で答えた。
「私は、本当の死を経験したの。」
死が、私に本当にやりたいことを教えてくれた!
秋山は驚いた。
「小林ひるみが、お前を殺そうとしたのか?!」
私は皮肉を込めて言った。
「そうよ。私が死ねば、星野侑二が自分のものになると――そう思ってる。」
なんて馬鹿げた理屈。
そして私は訂正した。
「それに、彼女は小林ひるみじゃない。妹の小林夜江よ……」
だが秋山は即座に否定した。
「妹?そんなはずはない!」
私は疑わしげに秋山を見た。
「なぜそう言い切れるの?」
秋山は真剣に説明した。
「昔、奥様(星野侑二の母)に頼まれて小林ひるみを調べたが、兄弟姉妹はいなかったはずだ!」
それは私も当時調べた結果と同じだった。
兄弟姉妹のいない人間に、なぜ突然実の妹が現れる?
私は小林夜江に関する不審な点を思い返した。
「確かに彼女は謎が多いし、私にも強い悪意を持ってる。」
秋山は自ら提案した。
「では、俺がもう一度調べよう。」
私は身を起こして今一番の心配事を訊いた。
「彼女はちゃんと閉じ込めたの?」
秋山は力強くうなずいた。
「はい。もう星野侑二に連絡することはできない。」
だが私は楽観できなかった。
「でも、誰かが彼女の行方不明に気付いたら、きっとこの島を調べにくるだろう……その時、私の居場所もバレるかも。」
秋山は暫く黙り込み、私の意見を聞いた。
「どうしたい?」
私は真剣に秋山さんを見つめ、冷たい笑みを浮かべた。
「星野侑二は狂ったように私を探してるんでしょ?だったら、私は自分の価値を最大限に発揮するわ!」
星野侑二――
今度はもう、逃げない!
私が自分の足で、あなたのところへ――赴く!!!