目を使わなくても、あの馴染み深くて心地よい香りだけで、相手が誰か分かる。
深山彰人!
何の抵抗もないままトイレに引き込まれた私は、反射的にドアをしっかり閉めた。
「もう言ったでしょ、個人的に接触しないでって。」
今の状況では、私に少しのミスも許されない。
深山は美しい目を細めじっと私を見つめる。
「せっかく無事に脱出したのに、なぜまた星野宅に戻ったんだ?」
どうやら、深山も最近星野宅で起きたことを知っているらしい。
私は黙って頭を垂れた。
「私は……うっかり見つかっちゃったの。」
深山は私の肩をしっかり掴む。
「後輩ちゃん、今や僕の前でも嘘をつくようになったんだね?」
彼の声はとても優しいのに、私はまるでどこにも逃げ場がないような気持ちになった。
思わず反論したが、その声は少し裏返ってしまった。
「嘘なんてついてないよ!」
深山のやさしい瞳が、からかうように光る。
「秋山陽一、君の人だろ?」
私は本当は秋山さんとの関係を隠したかった。
だが、深山の目は私のすべての秘密を見透かしているようだった。
こんな聡明で洞察力のある人の前では、嘘なんてまったく通用しない。
私はお腹をそっと撫でながら言った。
「先輩、私は自分が何をしているか分かってるし、自分のことはちゃんと守れるよ。」
そして、微笑みながら彼の目を見返す。
「前にも言ったけど、私という駒は、必ず期待以上の価値を見せるわ。」
深山は一瞬、驚いたような表情を見せた。
以前、彼は私の兄の死を持ち出して、生きる意志を呼び覚まし、復讐心を燃やさせてくれた。
医者として、彼は誰よりもよく分かっている。あの時の私の反応は、アドレナリンが高まった一時的なものに過ぎなかった。
たとえ私が冷静で、決断力があって、毅然として見えたとしても……
アドレナリンはいつか冷めるものだ。
けれど、今の私は――明らかに熟考しきった後の自信が漂っていた!
これは、熱が冷めた後に初めてできる姿勢だ!
私たち二人が見つめ合っているその時――
突然、飛行機が揺れた。
深山はすぐさま反応し、少しも迷わず、私をしっかりと抱きしめて守ってくれた。
私は一瞬、心が揺らぐのを感じた。
彼は、咄嗟に私を守ろうとしたのだろうか?
何度か呼吸を繰り返すうちに、飛行機は徐々に安定を取り戻した。
深山は体勢を整えると、すぐに私を見下ろして心配そうに尋ねた。
「大丈夫?」
私は顔を上げて答えた。
「だい……」
残りの「じょうぶ」の言葉が、喉に詰まった。
私が急に顔を上げたため、そして深山がちょうど私を見下ろしていたため――
彼の唇が、私の額にぴったりと触れた。
頭の中の何かが、ピンと張りつめる。
たしかに、前に恥ずかしい身体検査もされたけど……
あの時の触れ合いと、今のこれはまるで違う。
私は思わず後ろに下がろうとした。
だが、その時気づいた。深山がしっかりと私の腰を掴んでいることに。
退こうとしたその瞬間、飛行機が再び揺れ、私はまた深山彰人の胸元に寄りかかってしまった。
しかも、深山がずっと頭を下げているせいで――
私の唇が、ちょうど彼の唇に触れてしまった。
唇がぶつかり合い、私は思わず目を大きく見開いた。
頭が真っ白になり、呼吸が乱れる中、私は慌てて彼の唇から離れる。
「ご、ごめん……」
なんでこんな時に飛行機が揺れるのよ!
わざと困らせようとしてるの!?
気まずくなって、私はそっと深山を見上げた。
すると、さっきまで上品で優雅で紳士的だった彼が、今は潤んだ目で悲しそうに……涙まで浮かべている!!!
彼は頭を私の肩に預けて、まるで世界一の悲劇に遭ったみたいに言った。
「後輩ちゃん、これは僕のファーストキスだよ?ちゃんと責任取ってよ。」
私は驚いた。
こんな誰にも情を注ぎそうな目をした男が、実は潔癖でファーストキスを今まで守ってきたの!?
私は少しどもりながら聞いた。
「先輩は、……今まで彼女いなかったの?」
どうしても嘘っぽく感じる!
深山はため息をつき、捨てられた子犬のような切なげな顔を見せた。
「病院で毎日忙しくて、恋愛する暇なんてなかったよ。」
私は彼の不満を感じ取った。
確かに、私が彼の立場ならそりゃ愚痴りたいよ。
お金も家柄もあって、能力もあって、しかもイケメン……なのに仕事に追われて彼女がいないなんて。
もし私が彼だったら、こんな好条件ならとっくにハーレムを築いているだろうに。
……なんだか一瞬、深山先輩がちょっと可哀想に思えてきた。
私は慌てて慰めた。
「あの……そんなに落ち込まないで。」
「落ち込まないわけないじゃん。彼女もいないのに、ファーストキスまでなくなったんだよ……」
深山は今にも泣きそうな顔で、「後輩ちゃん、君のそのどうでもいい態度、女心を弄ぶクズ男と同然じゃん」
私はそう訴えられて、しばし言葉を失った。
うっかり純粋な先輩を泣かせてしまったら、どうしたらいいの!?至急回答求む!
長い沈黙の後、私は彼の腕を引っ張った。
「あの……どうしたいの?」
深山の桃花眼が細くなった。
そして、私が何も反応する間もなく、彼は頭を下げて私の唇にキスした。
さっきのはただ唇同士が触れ合っただけで、ほとんど感覚もなかった。
でも今度は……
はっきりと、深山の薄い唇の柔らかさと温もりを感じた。
私は慌てて彼を突き放した。
「先輩、あなた……」
深山は切なげに私の言葉を遮った。
「だって、後輩ちゃん、君という男たらしは責任を取る気ないんだろ?だったら、せめて利息くらいはもらわないと。」
本当に一円も損したくない人だな。
私はしばらく気まずくなり、心の中の違和感を押し込んで、無理やり話題を変えた。
「あの……メディチとの連携には十分気をつけて。なんだか変な予感がする。」
星野は決して寛大な人間じゃない。彼は周囲の人や物に対する所有欲・支配欲がとりわけ強い。
私がその生き証人だ。
好きでもないのに、いろんな理由で、私を彼の所有物みたいに傍に置いてじわじわと苦しめる。
彼はきっと、メディチとのビジネス提携も自分のものだと思っていたはず。
なのに、最後には目の前で深山家にその案件を奪われるのを見逃した?
どう考えても怪しい!
深山は切なげに指摘した。
「後輩ちゃん、わざと話をそらしてない?」
私:「……」
そんなにわざとらしかったのかな?!
今、沈黙するしかない!
ようやく深山は遊び心を引っ込めて、気だるそうに言った。
「僕はただの医者だ、深山家のビジネスにはほとんど関わってないよ。」
私は思わず彼に白い目を向けた。
「私を使って星野侑二を陥れるときは、なんか深山家のためって言ってたくせに?」
私は容赦なく深山をトイレから追い出した。
とにかく自分は忠告した。あとは深山家が自分でどうするか、しったことではない。
深山は押し出された後、エコノミークラスへと戻っていった。
彼が座ると、青野千里が不思議そうに尋ねた。
「深山さま、どうしてそんなに長くトイレに?」
まさかボスが何か危険に遭ったのかと思って、助けに行こうとしてたのに!
深山は自分の唇をそっと撫で、思わず眉を上げて、とても愉快そうに答えた。
「ちょっと不倫してきたんだ!」