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第59話 ちょっと不倫してきた


目を使わなくても、あの馴染み深くて心地よい香りだけで、相手が誰か分かる。


深山彰人!


何の抵抗もないままトイレに引き込まれた私は、反射的にドアをしっかり閉めた。

「もう言ったでしょ、個人的に接触しないでって。」


今の状況では、私に少しのミスも許されない。


深山は美しい目を細めじっと私を見つめる。

「せっかく無事に脱出したのに、なぜまた星野宅に戻ったんだ?」


どうやら、深山も最近星野宅で起きたことを知っているらしい。


私は黙って頭を垂れた。

「私は……うっかり見つかっちゃったの。」


深山は私の肩をしっかり掴む。

「後輩ちゃん、今や僕の前でも嘘をつくようになったんだね?」


彼の声はとても優しいのに、私はまるでどこにも逃げ場がないような気持ちになった。

思わず反論したが、その声は少し裏返ってしまった。

「嘘なんてついてないよ!」


深山のやさしい瞳が、からかうように光る。

「秋山陽一、君の人だろ?」


私は本当は秋山さんとの関係を隠したかった。

だが、深山の目は私のすべての秘密を見透かしているようだった。

こんな聡明で洞察力のある人の前では、嘘なんてまったく通用しない。


私はお腹をそっと撫でながら言った。

「先輩、私は自分が何をしているか分かってるし、自分のことはちゃんと守れるよ。」

そして、微笑みながら彼の目を見返す。

「前にも言ったけど、私という駒は、必ず期待以上の価値を見せるわ。」


深山は一瞬、驚いたような表情を見せた。


以前、彼は私の兄の死を持ち出して、生きる意志を呼び覚まし、復讐心を燃やさせてくれた。

医者として、彼は誰よりもよく分かっている。あの時の私の反応は、アドレナリンが高まった一時的なものに過ぎなかった。

たとえ私が冷静で、決断力があって、毅然として見えたとしても……

アドレナリンはいつか冷めるものだ。

けれど、今の私は――明らかに熟考しきった後の自信が漂っていた!

これは、熱が冷めた後に初めてできる姿勢だ!


私たち二人が見つめ合っているその時――

突然、飛行機が揺れた。

深山はすぐさま反応し、少しも迷わず、私をしっかりと抱きしめて守ってくれた。


私は一瞬、心が揺らぐのを感じた。

彼は、咄嗟に私を守ろうとしたのだろうか?


何度か呼吸を繰り返すうちに、飛行機は徐々に安定を取り戻した。


深山は体勢を整えると、すぐに私を見下ろして心配そうに尋ねた。

「大丈夫?」


私は顔を上げて答えた。

「だい……」

残りの「じょうぶ」の言葉が、喉に詰まった。


私が急に顔を上げたため、そして深山がちょうど私を見下ろしていたため――

彼の唇が、私の額にぴったりと触れた。


頭の中の何かが、ピンと張りつめる。

たしかに、前に恥ずかしい身体検査もされたけど……

あの時の触れ合いと、今のこれはまるで違う。


私は思わず後ろに下がろうとした。

だが、その時気づいた。深山がしっかりと私の腰を掴んでいることに。


退こうとしたその瞬間、飛行機が再び揺れ、私はまた深山彰人の胸元に寄りかかってしまった。

しかも、深山がずっと頭を下げているせいで――

私の唇が、ちょうど彼の唇に触れてしまった。


唇がぶつかり合い、私は思わず目を大きく見開いた。

頭が真っ白になり、呼吸が乱れる中、私は慌てて彼の唇から離れる。

「ご、ごめん……」


なんでこんな時に飛行機が揺れるのよ!

わざと困らせようとしてるの!?


気まずくなって、私はそっと深山を見上げた。

すると、さっきまで上品で優雅で紳士的だった彼が、今は潤んだ目で悲しそうに……涙まで浮かべている!!!


彼は頭を私の肩に預けて、まるで世界一の悲劇に遭ったみたいに言った。

「後輩ちゃん、これは僕のファーストキスだよ?ちゃんと責任取ってよ。」


私は驚いた。


こんな誰にも情を注ぎそうな目をした男が、実は潔癖でファーストキスを今まで守ってきたの!?


私は少しどもりながら聞いた。

「先輩は、……今まで彼女いなかったの?」

どうしても嘘っぽく感じる!


深山はため息をつき、捨てられた子犬のような切なげな顔を見せた。

「病院で毎日忙しくて、恋愛する暇なんてなかったよ。」


私は彼の不満を感じ取った。

確かに、私が彼の立場ならそりゃ愚痴りたいよ。

お金も家柄もあって、能力もあって、しかもイケメン……なのに仕事に追われて彼女がいないなんて。

もし私が彼だったら、こんな好条件ならとっくにハーレムを築いているだろうに。


……なんだか一瞬、深山先輩がちょっと可哀想に思えてきた。


私は慌てて慰めた。

「あの……そんなに落ち込まないで。」


「落ち込まないわけないじゃん。彼女もいないのに、ファーストキスまでなくなったんだよ……」

深山は今にも泣きそうな顔で、「後輩ちゃん、君のそのどうでもいい態度、女心を弄ぶクズ男と同然じゃん」


私はそう訴えられて、しばし言葉を失った。

うっかり純粋な先輩を泣かせてしまったら、どうしたらいいの!?至急回答求む!


長い沈黙の後、私は彼の腕を引っ張った。

「あの……どうしたいの?」


深山の桃花眼が細くなった。

そして、私が何も反応する間もなく、彼は頭を下げて私の唇にキスした。

さっきのはただ唇同士が触れ合っただけで、ほとんど感覚もなかった。


でも今度は……

はっきりと、深山の薄い唇の柔らかさと温もりを感じた。


私は慌てて彼を突き放した。

「先輩、あなた……」


深山は切なげに私の言葉を遮った。

「だって、後輩ちゃん、君という男たらしは責任を取る気ないんだろ?だったら、せめて利息くらいはもらわないと。」


本当に一円も損したくない人だな。


私はしばらく気まずくなり、心の中の違和感を押し込んで、無理やり話題を変えた。

「あの……メディチとの連携には十分気をつけて。なんだか変な予感がする。」


星野は決して寛大な人間じゃない。彼は周囲の人や物に対する所有欲・支配欲がとりわけ強い。

私がその生き証人だ。

好きでもないのに、いろんな理由で、私を彼の所有物みたいに傍に置いてじわじわと苦しめる。


彼はきっと、メディチとのビジネス提携も自分のものだと思っていたはず。

なのに、最後には目の前で深山家にその案件を奪われるのを見逃した?

どう考えても怪しい!


深山は切なげに指摘した。

「後輩ちゃん、わざと話をそらしてない?」


私:「……」

そんなにわざとらしかったのかな?!

今、沈黙するしかない!


ようやく深山は遊び心を引っ込めて、気だるそうに言った。

「僕はただの医者だ、深山家のビジネスにはほとんど関わってないよ。」


私は思わず彼に白い目を向けた。

「私を使って星野侑二を陥れるときは、なんか深山家のためって言ってたくせに?」


私は容赦なく深山をトイレから追い出した。

とにかく自分は忠告した。あとは深山家が自分でどうするか、しったことではない。


深山は押し出された後、エコノミークラスへと戻っていった。


彼が座ると、青野千里が不思議そうに尋ねた。

「深山さま、どうしてそんなに長くトイレに?」

まさかボスが何か危険に遭ったのかと思って、助けに行こうとしてたのに!


深山は自分の唇をそっと撫で、思わず眉を上げて、とても愉快そうに答えた。

「ちょっと不倫してきたんだ!」


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