目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報
ラフロイグの夜、海の音だけが残った
ラフロイグの夜、海の音だけが残った
NuitetVerre
文芸・その他純文学
2025年06月16日
公開日
589字
連載中
港町の片隅にある、小さなバー。 その夜、主人公はひとり、ラフロイグをストレートで飲んでいた。 グラスの縁に残る煙のような香り、潮風にまぎれる記憶、 そして“彼”と交わせなかった最後の言葉。 誰もいないカウンターで過ごすひとときに、物語は語られない。 ただ、残された感情だけが、夜の海のように揺れている──。

ラフロイグの夜、海の音だけが残った

港町の片隅にある、あのバーは、変わらずそこにあった。

潮風で色あせた木の扉、真鍮の取っ手は、相変わらず冷たくて、少しだけ、手に塩の匂いが残る。


ひとつきりのカウンターには誰もいない。

グラスを拭いているマスターもいなければ、笑い声も音楽もない。

ただ、窓の外の海が、ゆっくりと波を返している。


私は、その一番端の席に腰を下ろした。

“彼”がいつも先に座っていた場所の、隣だ。


カウンターに置かれた重いグラスの底に、琥珀色の液体が注がれる。

音はない。けれど、ラフロイグの香りが、空気のなかにじわりと広がっていく。


煙のように揺れるピート、潮の匂い、そして、どこか薬のような鋭さ。

それは、彼の声にも似ていた。


「お前、まだこんな酒を飲んでるのか」

昔、そう言われて笑った記憶がある。

けれど今、その言葉はもう戻ってこない。


グラスを唇に運ぶ。

口のなかに広がるのは、火のような苦味と、遠い記憶の味。


思い出すのは、あの夜のことだ。

最後に交わすはずだった言葉が、波にさらわれていった夜。


「じゃあ、またな」

彼はそう言って、振り返らなかった。

私は何も言わず、ただ潮風に目を細めた。


交わされなかった言葉は、きっとここに落ちている。

このバーの、床の、どこかに。


グラスの中のラフロイグが、最後のひと口になった。

それを飲み干すと、煙だけが、静かに喉の奥に残った。


窓の外、月が海を照らしている。

波の音だけが、静かに続いていた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?