港町の片隅にある、あのバーは、変わらずそこにあった。
潮風で色あせた木の扉、真鍮の取っ手は、相変わらず冷たくて、少しだけ、手に塩の匂いが残る。
ひとつきりのカウンターには誰もいない。
グラスを拭いているマスターもいなければ、笑い声も音楽もない。
ただ、窓の外の海が、ゆっくりと波を返している。
私は、その一番端の席に腰を下ろした。
“彼”がいつも先に座っていた場所の、隣だ。
カウンターに置かれた重いグラスの底に、琥珀色の液体が注がれる。
音はない。けれど、ラフロイグの香りが、空気のなかにじわりと広がっていく。
煙のように揺れるピート、潮の匂い、そして、どこか薬のような鋭さ。
それは、彼の声にも似ていた。
「お前、まだこんな酒を飲んでるのか」
昔、そう言われて笑った記憶がある。
けれど今、その言葉はもう戻ってこない。
グラスを唇に運ぶ。
口のなかに広がるのは、火のような苦味と、遠い記憶の味。
思い出すのは、あの夜のことだ。
最後に交わすはずだった言葉が、波にさらわれていった夜。
「じゃあ、またな」
彼はそう言って、振り返らなかった。
私は何も言わず、ただ潮風に目を細めた。
交わされなかった言葉は、きっとここに落ちている。
このバーの、床の、どこかに。
グラスの中のラフロイグが、最後のひと口になった。
それを飲み干すと、煙だけが、静かに喉の奥に残った。
窓の外、月が海を照らしている。
波の音だけが、静かに続いていた。