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第6話:「見ろ、僕たちの火だ」

 私は白い氷の上に立っていた。


 分厚い氷のうえに、細かな雪が薄く掛かっている。踏むと足裏に氷の硬い感触が伝わってきた。軍靴の鳴らす音が鈴のように響き、晴れ渡った青白い空へと昇って行った。


 そうだ。空の色が冷たい。足元の氷の方がまだしも温かみを感じる。雲ひとつなく、どこまでも、抜けるように青い。風は無いが、いつの間にか私が着ていたコートを寒気が貫いていった。


 振り返ると、そこに『ヴォジャノーイ』の巨体が横たわっていた。船体の上部が大きく抉れている。腹部にも巨大な裂け目が出来ていた。


 艦全体が赤い錆に覆われている。もう何十年、何百年と経ったかのような廃墟として、朽ちるに任せている。そのなかを覗き込む気は全く起きなかった。


 私はコートのポケットに手を突っ込みながらぶらぶらと歩きだした。ポケットのなかには何もない。本当に、着の身着のままといった感じだ。


 歩き出してすぐ、目の前に街が見えてきた。灰色のビルが無数に立ち並んでいるが、その上部はいずれも『ヴォジャノーイ』同様に朽ち果て、崩れている。私の老いた父の歯のようだった。


 街のどこかからワルツが流れている。軽妙で、気安くて、それでいてどこか皮肉なニュアンスを含んだ旋律だった。跳ねるようなピアノの音、トランペットのアイロニカルな響き、サックスは主旋律を暖かく奏でる。音源を探しても無意味だという予感があった。


 それよりも、出所の分からない音が聞こえてくるという現象が、少し私を喜ばせた。なんだか懐かしいような、胸を締め付けられるような、甘い感傷を覚えた。


 どこかから音が聞こえてくる。彼が私を導いてくれていたように。


 果たして、崩れかけの灰色の街を歩いていくと、大きな広場に出た。中央に噴水。台座の上に据えられていたであろう偉人の像は無残に倒れ、首は噴水の縁に当たったのかぽきりと折れて転がっていた。


 その、禿げた書記長像に軽く体重を預けて、灰色のコートを纏った青年がぼんやりと佇んでいた。右手の指に挟んだ煙草から細い煙がたなびいている。


 ぼうっとしていた彼は、私の足音を聞くやすぐにこちらを振り向いた。そして怜悧な細面に、雲間から差した陽光のような笑顔を浮かべた。



「やぁ来たな、ヴォジャノーイ!!」



 灰色の廃墟の街に響き渡るワルツが、行進曲風の明るい曲調に変わった。彼はワルツのような行進曲のテンポに合わせるかのように、軽やかな足取りで私の目の前までやってきた。


 きっと彼には踊っている自覚もなければ、メロディーに合わせている自覚も無いのだろう。ただ美しい水鳥のように私に歩み寄った。私の顔にも自然と笑みが浮かんだ。ワルツの旋律にヴァイオリンが、チェロが、金管が重なり、交響的に膨れ上がっていく。ティンパニの重い打音が舞曲の拍をとり、その拍に導かれるように私も一歩踏み出した。


「お待たせしました、イリヤ。任務は」


 イリヤは片手をさっと立てた。


 それから私の横に並んで、がばっと肩に腕を回してきた。


 顔と顔を近づけ、その間に煙草をすっと差し出す。嗅いだことのない香りの煙草だった。


 だが、大事なのは煙よりも、火の方だ。それが私にも直感的に分かった。




「ヴォジャノーイ、見ろ。僕たちの火だ」




 何もかもが白と灰色と青で埋め尽くされたこの空間のなかで、彼の煙草の先に宿った火だけは血のように赤かった。彼が小さな部屋のなかで流し続けていた血よりも、なお赤く、そして血には決して出せない輝度で瞬いている。まるで、燃え盛る紅玉のようだった。


 火は煙草の先端を焦がし続けているが、煙草はいつまで経っても短くならない。灰は出ているが、灰が尽きることもない。そういう火なのだ。



 ふと、それを分けてほしいと思ったその時、ポケットに突っ込んだままの左手の先に何かが当たった。



 まるで、お前も持っているんだぞ、と誰かに言われたような気がした。


「イリヤ、火を分けてもらえますか?」


 私の左ポケットから現れた煙草を、イリヤは当然といった顔で見つめた。悪戯好きの少年の表情で、口に咥えたままの煙草の先端を私に寄せた。私も、ひび割れた唇で捕らえた煙草を、彼の持つそれに近づけた。ふと、端正な顔に似つかわしくない悪戯好きな表情こそが彼の本性なのだと分かった。だからなおさらに生き辛かっただろう。


 火が燃え移る。煙が私のなかに流れこんできた。


 ワルツが消える。身体のなかを巡った煙から、無数の音が聞こえた。瓦礫やサイレン、燃え盛る火焔、悲鳴、嗚咽、轟音……いや、言葉を並べただけではきっと分からないだろう。この音は永遠に私たちだけのものだ。


 私は目を閉じてそれを味わった。


 火の交響曲がワルツを上書きして、私の身体のなかを一通り駆け巡った。私は内側から焼き焦がされ、さらに殴りつけられるような轟音に貫かれた。それでいて、煙の味はどうしようもないほどに甘いのだ。夢のように美味い煙だった。


 煙を喉で、鼻孔で、肺でひと巡りさせてから、深く吐き出す。本当の呼吸をした心地だった。煙草を離した唇は、私の恍惚とした感情を表すように歪んでいたことだろう。


 そしてまた、ワルツが戻ってきた。


 となりでイリヤが微笑んでいた。


「行こうか、ヴォジャノーイ」

「ええ、イリヤ」


 彼に腕を回されたまま、私は歩き出した。


 ワルツが鳴り響く地獄の街のなか、消えることのない火と煙を二本残したまま、どこまでも。


 どこまでも。

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