目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第5話:ヴォジャノーイ

 水から揚がった先の通路には誰もいない。いや、元々ここにいた連中が、今しがた私の通ってきた通路に逃げ込んだのだ。そしてそのまま、着底と同時に生じた船殻の破壊によって溺れた。


 艦内通路を満たしている非常灯のほかにもうひとつ。


 耳障りな、ぶつぶつと途切れるような音が断続的に響いている。私の人間としての本能に働きかけるようなそのぶつぶつ音は、原子炉が破損した際に反応するガイガーカウンターのサウンドだ。


 それも、最上級の危険度に近い。


 さすがに急性被曝ほどではないだろう。もしそうなら、今頃とっくに死んでいる。原子炉からはかなり距離が離れているが、よほど酷いことになったか、あるいは付近にあるミサイルから漏れ出したか。


 いずれにせよ、これで私の命のタイムリミットも、いよいよ短くなったわけだ。


「イリヤ、聞こえますか?」


 返事が無かった。


「……イリヤ?」


 そんなはずはない。先ほど、水中で赤い光を灯してくれたのは彼だ。彼しかいない。第二制御室の操作盤から、私の移動先を推測して導いてくれたのだ。

 放射線の恐怖すら頭から抜け落ちた。


 もしかすると、この近くには盗聴器が無かったのかもしれない。あるいは声を聞かせるためのスピーカーが無いのか。


 私は前に進んだ。先ほどまでの死屍累々の通路とは異なり、今度は無機質な艦の内部構造だけが延々と続いている。床を踏む音よりもガイガーカウンターの音の方が大きい。


 身体が寒い。両肩が、歯がかじかんでいる。


 だがそれ以上に、心臓がどきどきと脈打っていた。


「イリヤ!!」


 声は暗闇の奥まで届き、そしてすぐに返ってきた。空き缶のなかで叫んでいるような心地だった。


『……リューリクか』


 どこからか、彼の声が聞こえた。私の心臓から、安堵が血のように流れ出た。それが冷え切った身体の中心を少しだけ温めてくれた。


『凄いな、君は……よくあの道を通り抜けたものだ』

「貴方のお陰です。明かりを灯してくれたでしょう?」

『それくらいしかできないからな。だが……リューリク、気づいているか? いま君がいるのは、弾道弾発射室の真下だ』

「そうですか」

『嫌にあっさりしているな』

「貴方が健在で安心したんですよ」


 ふっ、と小さく息を吐く音がした。


『残念ながら、私はここまでのようだ……君の怒鳴り声でようやく目が覚めたが、次に目を閉じたら、もう……だめだろう』

「……」

『リューリク。私はすでに、反応弾の発射スイッチを押している。エラーメッセージのせいで実行されていないが、発射管のハッチをそちらから解放すれば、この艦の全てのミサイルが発射される。物理的に線を繋ぐだけだ。君でもできる』

「イリヤ、良いのですね?」

『むしろそれは、私が聞きたいな。リューリク、君は普通の男だろう? 今から私がやろうとしているのは取返しのつかない大虐殺だ』


 イリヤの声からは力が脱けつつあった。彼の傷ついた身体から、魂が剥がれ落ちようとしているのが分かる。


 だからだろう。今のイリヤの言葉は紛れもない本音なのだ。


『さっき……君が水のなかにいるとき、少し夢を見た。昔、読んでもらった……宝石で出来た王子の銅像が、貧しい人々のために自分の身体を燕に運ばせる物語……君は、ラースタチカみたいな男だな』

「なら、貴方は王子ですね」

『銅像の、な』


 さっきよりも深くイリヤは息を吐いた。上手い煙草を吸った時のように。



『なあ、リューリク。なぜきみは、僕の頼みを引き受けた?

 これは単なる八つ当たり。

それがいかにバカげていて、罪深いのは、きみだって分かっていただろう……?』



 ガイガーカウンターの音にイリヤの息遣いが隠される。


 だが、彼の心に芽生えた深い疑問は、私にも理解できた。


 それは私自身の疑問でもあるからだ。なぜだろう?


 ……いや、とうに答えは知っているじゃないか。



「イリヤ。私は、中身らしい中身の無い人間です。氷と雪のなかで、何も知らないまま大人になり、何も知らないまま戦場に出ました。

 志も、夢も、希望も絶望も私にはありません。全てが空虚です。

 だから、貴方が眩しかった。人間として、確かな中身のある貴方が羨ましかった。

 貴方が世界を呪うなら、私のなかもその呪いで満たします。

 もうボタンは押したんですよね? じゃあ、後は任せてください」



 しばし沈黙があった。荒い息遣いがしばらく聞こえ、それから微かな笑い声が聞こえた。




魔王ヴォジャノーイ……ぼくは、とんでもない怪物と交信していたみたいだ』




 それが、闇のなかで最後に聞いた彼の声だった。


 私はしばらく、その声の残響を耳のなかで蘇らせながら立ち竦んでいた。


 もう、身体の冷たさは感じない。ガイガーカウンターの音も気にならない。私という人間を駆動させている全てのエネルギーは、あと十数分の仕事のために捧げれば良い。それならば走れる。


 イリヤがいなくなったこの場所について語ることは、もう無い。


 私は全知全能を尽くして遺された任務を全うした。それだけだ。


 私が最期に見たのは、降り注ぐ大量の海水と、それを貫いて空へと駆け上がる、陽の光よりも眩い閃光だった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?