水から揚がった先の通路には誰もいない。いや、元々ここにいた連中が、今しがた私の通ってきた通路に逃げ込んだのだ。そしてそのまま、着底と同時に生じた船殻の破壊によって溺れた。
艦内通路を満たしている非常灯のほかにもうひとつ。
耳障りな、ぶつぶつと途切れるような音が断続的に響いている。私の人間としての本能に働きかけるようなそのぶつぶつ音は、原子炉が破損した際に反応するガイガーカウンターのサウンドだ。
それも、最上級の危険度に近い。
さすがに急性被曝ほどではないだろう。もしそうなら、今頃とっくに死んでいる。原子炉からはかなり距離が離れているが、よほど酷いことになったか、あるいは付近にあるミサイルから漏れ出したか。
いずれにせよ、これで私の命のタイムリミットも、いよいよ短くなったわけだ。
「イリヤ、聞こえますか?」
返事が無かった。
「……イリヤ?」
そんなはずはない。先ほど、水中で赤い光を灯してくれたのは彼だ。彼しかいない。第二制御室の操作盤から、私の移動先を推測して導いてくれたのだ。
放射線の恐怖すら頭から抜け落ちた。
もしかすると、この近くには盗聴器が無かったのかもしれない。あるいは声を聞かせるためのスピーカーが無いのか。
私は前に進んだ。先ほどまでの死屍累々の通路とは異なり、今度は無機質な艦の内部構造だけが延々と続いている。床を踏む音よりもガイガーカウンターの音の方が大きい。
身体が寒い。両肩が、歯がかじかんでいる。
だがそれ以上に、心臓がどきどきと脈打っていた。
「イリヤ!!」
声は暗闇の奥まで届き、そしてすぐに返ってきた。空き缶のなかで叫んでいるような心地だった。
『……リューリクか』
どこからか、彼の声が聞こえた。私の心臓から、安堵が血のように流れ出た。それが冷え切った身体の中心を少しだけ温めてくれた。
『凄いな、君は……よくあの道を通り抜けたものだ』
「貴方のお陰です。明かりを灯してくれたでしょう?」
『それくらいしかできないからな。だが……リューリク、気づいているか? いま君がいるのは、弾道弾発射室の真下だ』
「そうですか」
『嫌にあっさりしているな』
「貴方が健在で安心したんですよ」
ふっ、と小さく息を吐く音がした。
『残念ながら、私はここまでのようだ……君の怒鳴り声でようやく目が覚めたが、次に目を閉じたら、もう……だめだろう』
「……」
『リューリク。私はすでに、反応弾の発射スイッチを押している。エラーメッセージのせいで実行されていないが、発射管のハッチをそちらから解放すれば、この艦の全てのミサイルが発射される。物理的に線を繋ぐだけだ。君でもできる』
「イリヤ、良いのですね?」
『むしろそれは、私が聞きたいな。リューリク、君は普通の男だろう? 今から私がやろうとしているのは取返しのつかない大虐殺だ』
イリヤの声からは力が脱けつつあった。彼の傷ついた身体から、魂が剥がれ落ちようとしているのが分かる。
だからだろう。今のイリヤの言葉は紛れもない本音なのだ。
『さっき……君が水のなかにいるとき、少し夢を見た。昔、読んでもらった……宝石で出来た王子の銅像が、貧しい人々のために自分の身体を燕に運ばせる物語……君は、
「なら、貴方は王子ですね」
『銅像の、な』
さっきよりも深くイリヤは息を吐いた。上手い煙草を吸った時のように。
『なあ、リューリク。なぜきみは、僕の頼みを引き受けた?
これは単なる八つ当たり。
それがいかにバカげていて、罪深いのは、きみだって分かっていただろう……?』
ガイガーカウンターの音にイリヤの息遣いが隠される。
だが、彼の心に芽生えた深い疑問は、私にも理解できた。
それは私自身の疑問でもあるからだ。なぜだろう?
……いや、とうに答えは知っているじゃないか。
「イリヤ。私は、中身らしい中身の無い人間です。氷と雪のなかで、何も知らないまま大人になり、何も知らないまま戦場に出ました。
志も、夢も、希望も絶望も私にはありません。全てが空虚です。
だから、貴方が眩しかった。人間として、確かな中身のある貴方が羨ましかった。
貴方が世界を呪うなら、私のなかもその呪いで満たします。
もうボタンは押したんですよね? じゃあ、後は任せてください」
しばし沈黙があった。荒い息遣いがしばらく聞こえ、それから微かな笑い声が聞こえた。
『
それが、闇のなかで最後に聞いた彼の声だった。
私はしばらく、その声の残響を耳のなかで蘇らせながら立ち竦んでいた。
もう、身体の冷たさは感じない。ガイガーカウンターの音も気にならない。私という人間を駆動させている全てのエネルギーは、あと十数分の仕事のために捧げれば良い。それならば走れる。
イリヤがいなくなったこの場所について語ることは、もう無い。
私は全知全能を尽くして遺された任務を全うした。それだけだ。
私が最期に見たのは、降り注ぐ大量の海水と、それを貫いて空へと駆け上がる、陽の光よりも眩い閃光だった。