ふっ、と照明が消えた。
予備電源の不気味な赤い光さえ消えて、今や私の片手にある懐中電灯の光だけだ。
同志イリヤの声も聞こえない。
真っ暗な洞窟に、ひとり置き去りにされたような心地だった。
私は、自分が死ぬことについてはある程度飲み込めていると思う。
しかし、この孤独はこたえた。
周囲には死の気配が満ちている。転がっている死体よりむしろ、何の音も聞こえないことの方が、より強く死を意識させた。
私の両肩に、死んだ戦友たちの手が這い上がってくるのを感じた。ずしりと身体が重くなった。重々しい死の影が私の呼吸を荒くさせる。不思議だ。自分の死に対してある程度客観視できていると思っていた。もはやいつ死んだとておかしくない状況だというのに、死ぬこと以上に孤独を恐れている。
(いや、それはそうかもしれない。でも……)
焦りで震える手を鎮めながら、私は長く短い二十秒間を走り切った。回路を接続するのと同時に電気が戻り、赤い非常灯が再び灯った。
私はふと後ろを振り返った。そこに誰かが立っていないかという根源的恐怖がそうさせたのだ。大丈夫、みんな寝ている。
『リューリク、どうだ』
同志イリヤの声が聞こえた。それだけで、私にのしかかっていた黒い雲は掻き消された。
「成功です、同志イリヤ」
ハッチ横のボタンを押すと、重々しい音と共にロックが解除され扉が開いた。私はその先に足を踏み入れた。
だが、その瞬間、靴が水を踏んだ。驚いて下を見ると、床一面に海水が広がっていた。
「同志イリヤ、浸水しています!」
『……』
「ここは、そうか。恐らく着底した時に空いた穴から入った水ですね。下には船殻と小さな倉庫ぐらいしか無かったはずです」
『ここまでか、同志リューリク』
私がいまいるのは、恐らくメインブリッジのほぼ真下であろう。目の前にもうひとつハッチがあるが、同志イリヤの証言から察するに、あれを開いたら『ヴォジャノーイ』に圧し掛かっている水が一気に流れ込んでくる。
現に、そちらのハッチからは微かに水が噴き出していた。向こう側からの圧力を受けて少し膨らんでいる。ここにいれば遅かれ早かれ海水の噴出に巻き込まれて溺れるだろう。
「同志イリヤ、聞こえますか?」
『ああ……聞こえて、いる』
「イリヤ?」
『なに、心配しないでくれ……ちょっと煙草を探していた。せめて一服と思ったが……血で濡れていて、ダメだな』
「煙草! 潜水艦で!?」
急に大声を出したものだから、スピーカーの向こうでガタンと椅子の揺れる音が聞こえた。
『急に大声を出すな! まったく、少し目が覚めたぞ……』
「ああ、いや、本当に驚きまして」
『そうか。君ら下級船員にはすまないが、艦長室の隣に小さな喫煙スペースがあってだな。時々そこで吸わせてもらっていた』
「そいつはとんでもない特権だ。恨みますよ」
『君も吸うのか?』
「海に出るたびに禁煙してますがね」
『銘柄は?』
「水兵が手に入れられるものなんて、『
『酷いのを吸ってるな……身体を壊すぞ』
「仕方ないでしょう。イリヤこそどうなんです?」
『言ったら反革命罪で死刑になりそうだ……実は、共和国産のやつをな』
「はぁ、上層部で共和国の嗜好品が出回ってるって噂、本当だったんですね。幻滅しましたよ」
『仕方ない。我々だって人間ということさ。惜しいな、君がこっちに来られたら、向こうの煙草を吸わせてやれたんだが……』
「……イリヤ、第二制御室の位置はどこですか?」
『艦の後部、艦長室と弾道弾発射室の近くだ。もっとも、今は完全に水没しているがね』
「そうか、残念です。一度、直接お会いしたかったのですが」
『この状況では無理だな』
「ええ。ですが、発射室まではたどり着けますよ」
『なんだと?』
話しているうちに、身体の奥から力が漲ってくるのを感じた。いや、覚悟ができたと言うべきか。
防毒マスクはつけたまま、上着とシャツを脱ぐ。艦内の冷暖房はすでに死んでいるので、刺すような冷気に鳥肌が立った。
だが、これから行く先を考えれば、春のそよ風みたいなものだ。
『リューリク、何をする気だ』
「最下部の船殻には緊急時に使用する非常通路があります。運が良ければ、そこを泳いで艦の後部に出られるはずです」
『無茶だ。水温が何度だと思っている? いや、そうでなくても、距離や物理的障害が……』
「死んで元々です。訓練で鍛えたので息は続くかと。二分経って通信が無ければ、作戦は失敗です。すみません」
『っ、待て! リューリク!!』
イリヤの止める声も聞かず、私は防毒マスク越しに思い切り空気を吸い込んでからそれを毟り取った。左手にマスクを固く握り締めたまま、眼下の暗い水のなかに飛び込んだ。
予期していたことだが、身体に水を浸した瞬間、全身を刺されるような痛みが走った。身体中に突き立てられた氷のナイフが筋肉繊維をずたずたに断裂させ、それどころか意識すらも奪いそうになる。せっかく溜めた酸素が口から洩れていきそうになった。
だが、私の頭のなかには、小さな部屋のなかで血を流しながら蹲る、美しい灰色の鳥の姿が見えていた。
(まだ死にたくないな)
水のなかで私は少しだけ笑みを浮かべた。そして、空いた右手で艦内の構造物を掴みながら、記憶を頼りに前へと進んでいく。
当然だが水没部にも死体が浮かんでいた。ゴーグルも何もつけておらず、そもそも照明がほぼ全て消えているため、何となく輪郭が見える程度である。死体に恐怖を覚える余地がない。
恐らく何度か、水を掻く手でついでに殴ってしまっているが、すまないと思うしかない。
死骸のほかにも無数の漂流物が浮かんでいて、時折ごつごつと身体にぶつかる。反乱防止のため刃物の類は包丁ぐらいしか無いはずだが、事故の際に割れた部品があるかもしれない。
何より怖いのは、突起物にズボンが引っ掛かって動きが止まることだった。視界の自由もきかないなかで、それらを回避するのは困難極まりない。
ただ、頭のなかでいくら考えようと、一度踏み込んだ以上あとは進むしかない。
先ほど工事をしていた時と同じように、孤独に包まれながら私は進み続けた。ただし、可能な限り速く。
体内のあらゆる器官が酸素を奪い合っている。心臓が早鐘をうち、身体の活動を少しでも活性化させようとする。被弾すればお終いの潜水艦で、潜水訓練など果たして意味があるのかと思っていたが、まさかこのような形で活きるとは想像もしなかった。
だが潜って息を止めるだけならともかく、動き続け、なおかつ記憶もあいまいな通路を文字通り手探りで進んでいくのは予想以上に困難だった。しかも水温の低さは容赦なく体力を削ぎ落していく。
最初は楽な死に方を考えていた私が、死ぬより苦しいことをやっているような気がする。
それにも関わらず、今の私は正体不明のエネルギーによって突き動かされている。
(馬鹿。余計なことを考えるな)
頭を使えば酸素を使う。
分かっているが、頭蓋から飛び出せない脳味噌は、その分必死になって思考を暴れさせる。
進む手が止まった。
一度止まると、冷たさが筋肉を縛り付けようとする。
(……すまない)
その時、視界の向こうに赤い光が見えた。紛れ込んだ深海魚かと埒も無い考えが一瞬浮かんだが、どう考えても人工の光だ。
迷う余地など無い。
むしろ、進むべき何かが示されたことに、私の全機能が引き寄せられた。
まるで磁石に吸い寄せられるかのように、私は残った全ての力を振り絞って前に進んだ。浮かんだ死体を蹴り飛ばし、時に力を失った腕や脚に絡みつかれながら、それを振りほどき、踏みつけ、ただひたすら前に。
非常灯の光が霞みかけた目に突き刺さる。矢印が真上を向いていた。回転式のハンドルがある。手で触れると皮膚が張りつきそうなほど冷たかったが、仮に腕ごと捥げ落ちるとしても回すしかない。
本当に間一髪だった。
私は巣を追い出されたモグラのように、水から飛び出した。
そしてうっかり大きく息を吸い込んでしまった。
三回呼吸して、ようやく脳味噌にまともに酸素がまわってから、有毒ガスを吸い込んだ可能性に思いが至った。慌てて防毒マスクを着けようとするが、濡れているせいで指に絡みつき、うまくつけられない。水から出た後もまだ酸欠に悶えることになった。
気づいた。
もし致死性のガスが発生しているなら、最初の一呼吸の時点で気管が焼けているはずだ。
「……ガスが、無い?」
恐る恐る息を吸ってみる。
やはり、急に咳き込むようなことはなかった。
……ああ、だが気づいてしまった。