『我がヴォジャノーイは人民連邦の切り札のひとつだ。それが、何もしないまま沈んだとあっては、党と書記長の威光、ひいては人民全ての革命の成果を無に帰すことになる。これは、必ず成し遂げなければならない仕事だ』
そういうものなのか。と、私は思った。
そして言われるがままに前部区画から旅立った。
後部の発射管まで約100
通路に枕木のように並んだ死骸をまたぎながら、私は赤い非常灯に照らされた艦内を慎重に歩いた。
あちこち破損していて、突起物が壁から突き出ている。それに防毒マスクが引っ掛かって外れたりすれば、すぐに戦友たちの仲間入りだ。
「政治将校殿。自分は通常魚雷の操作はできますが、弾道弾を扱ったことはありません」
『心配しなくて良い、同志リューリク。君にやってほしいのは、第二制御室と弾道弾発射室の電力回線を復旧することだ。それなら君にもできるだろう……本来なら私自身が行うべきだが、残念ながら制御室から出られない状況だ』
「水没しているのでありますか?」
『それもある。もうハッチが開きそうにない。第一……』
政治将校殿は言葉を区切った。深く溜息をついたが、そのなかにわずかに呻くような音が混ざっている。
さっきもそうだったが、どこか傷を庇うような話し方だ。
「政治将校殿、どこか負傷されたのですか?」
『……ああ。水圧というのは恐ろしいな。噴き出した水で、左手が飛ばされた。鎮痛剤を打ったが、ふふ……あまり良い気分にはなれない』
なるほど、それで動けないのか。合点がいった。
『大丈夫だ、同志リューリク。片手でもコンソールの操作ぐらいはできるさ』
鉄の政治将校の口から出たとは思えない軽口だった。
私の頭のなかには、出航直前に見た灰色の水鳥のような彼の姿が焼き付いている。いっそ神秘的にさえ映ったあの青年将校が、スピーカーの向こうで血を流している。
そして、血とともに命を流しながら、なおも任務を達成しようとしている。
私みたいな人間とは、何もかも隔絶した存在。
「政治将校殿、聞こえますか?」
『ああ、聞こえている。いま君がいるのは』
「水兵の食堂です……ひどいな、何もかも滅茶苦茶に散らばってる」
『あの衝撃だ。艦が真っ二つにならなかっただけ上出来だろう。我が連邦の技術力の賜物だな』
そう言う割に、政治将校殿の口調はあまり誇らしげではなかった。どこか突き放したような皮肉な色が混ざっていた。
「つかぬことをお伺いしますが、政治将校殿はずっと首都にお住まいで?」
『君がそれを知ってどうなる?』
おお、と少し感動した。
イメージのなかの政治将校らしい、冷たい言い方だ。
「出過ぎたことを言いました」
『全くだ。長生きしたければ、私の前で個人情報の話など……』
くっくっくっ、と食堂の音楽プレイヤーから笑い声が漏れた。そこにもスピーカーがあるのかと少し驚いた。恐らく盗聴器も同じ場所にあるのだろう。
だがそれより驚くべきは、あの政治将校殿が笑ったということだ。
『よくよく馬鹿なことを言ったな。長生きなどと……いいだろう。話している方が気が紛れて良い』
まったくです。私は胸の中でそう答えた。
『いかにも私は首都で生まれ育った。あそこは、都市全体がひとつの収容所のような場所だ。常に隣人同士で監視し合い、盗聴器や隠しカメラに怯えて過ごす。
知っているかね? 党や軍の幹部は、書記長より豪邸をプレゼントされる。有り難い贈り物だ。拒否は絶対にできない。みな、感謝して
そうだな……監獄など生温い。あそこは地獄だ』
私の靴が、床に落ちていた何かの破片を踏み抜いた。パキリ、と骨を潰したような音が、空虚な食堂のなかに響き渡った。
頭の上からは常に鋼鉄の軋む音が聞こえてくる。鉄の鯨の死骸が海水に圧迫されている。いつ鋼材が限界を迎えて、破滅が水の形となって降ってくるか分からない。
「なんだか、自由な感じがしますね」
つい、そんな言葉が口をついて出ていた。
『自由?』
「恐縮ですが、政治将校殿。この艦が生きていた間は、さっきみたいなことは口が裂けても言えなかったのでは?」
『まったくだな』
政治将校殿はあっさり認めた。
『私の父も母も、アパートの廊下で靴音が鳴るたびに、私を挟んで抱き合っていたよ。どの足跡が今生の別れになるか分からないからな……。
幸い、最期まで連行されることはなかった。代わりに母は病気で、父は働き過ぎで死んだよ。お陰で共同墓地に入れてもらえた。反革命罪で死んだら名前も残らん』
「……党を恨みはしなかったのですか?」
『恨んださ』
あっさりと政治将校殿は認めた。
そしてすぐに『だが』と付け加えた。
『私には夢がある。必ず党の、人民連邦の頂点に立ち、この腐りかけた国を建て直す。革命はもともと弱者のためのものだったはずだ。それがいまや、かつての貴族同然に成り下がった党幹部、そして書記長に支配されている。
だから、それを正したかった。そのためにあらゆる屈辱を耐え忍んできたが……』
夢、か。
それこそ、私のような人間にとっては、夢みたいな言葉だ。
『ところで同志リューリク、私にばかり喋らせてどうする。君は一体何者だ? 少しは君自身の個人情報を開示したらどうかね』
「ははっ……迂闊に自分のことを喋らない方が良い。そう言ったのは政治将校殿では?」
『構わないさ。こうなったら無礼講だ。第一、党批判を取り締まりたくても、片手では手錠もかけれんだろ?』
「参りました。自分には、政治将校殿のような崇高なお話はできません」
『君、バカにしているのか?』
「本心です……本当に、お話しできることが無くて恥ずかしい」
『人の命に、恥ずかしいも何もあるものか。この国で今日まで生き延びてきたんだ。それは、並のことではないぞ、同志』
壊れかけの低品質なスピーカー越しではあるが、その声に籠った熱は焼けた石炭のように暖かかった。
私の記憶にあるなかで、唯一安心とともに思い出せるもの。寒さから一家を守ってくれていた、おんぼろストーブの熱を思い出した。
こんな風に喋れる人が政治将校などと、にわかには信じられない。
だが、心のなかに鳥のような自由な部分を残している人だからこそ、高い志を持って生きてこられたのかもしれない。
私はあの日甲板で見た、灰色の鳥のような佇まいを思い出した。
その鳥が、翼から赤い血を流して、狭い潜水艦の一室に蹲っている姿を幻視した。
「……同志イリヤ、貴方は政治将校なんか向いてません。きっとどこかでボロが出てましたよ」
『君のせいだ、同志リューリク。君にはどこか、すいすいと人の想いを吐き出させるところがある。首都で同じやりとりをしてみろ。広場で磔にされて、高射砲で吹っ飛ばされるぞ』
「そりゃあ豪勢な死に方だ!」
私はその光景を想像して、あまりの仰々しさに思わず笑ってしまった。
人ひとり殺すのに高射砲!
そんな大層なものを持ってこなくても、人は簡単に死ぬということを、足元に寝転がった戦友たちが教えてくれている。
「……あまり面白い話はできないかもしれませんが、それでも良ければ」
『早くしてくれ。話しているか、話しかけてもらっていないと、意識が飛びそうだ』
口調は軽いが、むしろ軽口など叩いている場合ではないだろう。
私はあえて話題を逸らした。
「いま、目の前にハッチがあります。開けられますか?」
『どうだ……いや、無理だな。断線している。予備電力は回せるから、何とか線を繋いでくれ』
「了解しました。では、工事をしながらお話ししましょう」
『頼む。同志リューリク、君の酸素は大丈夫だな?』
「戦友たちがたっぷり残してくれてますので」
『ああ。有り難いな』
簡単な仕事だ。沈没時に作業室に詰めていたお陰で、最低限の道具は引っ張ってきている。
まずは壁のプレートをバールで剥がして、その下に血管のように張り巡らされた電線を露出させる。武装やソナーのような重要品ならともかく、ハッチへの通電ぐらいなら私でもできる。
本来ハッチに電力を送り込んでいる回線は、沈没時に絶たれてしまったらしい。
しかし、艦内各所の予備電力は辛うじて生きている。そちらと線を繋いで、ハッチの開閉に回す電力を拝借する。
「同志、聞こえていますか?」
『ああ、聞こえている』
「自分の出自についてですが……極海沿岸の小さな港町です。いや、村と言った方が良いかな。雪と氷のほかには何も無い土地です」
カチャカチャと工具を鳴らしながら、私はふと幼少時のことを思い出した。
真冬に家の外で煙突を直すように言われた。ネジが凍りついていて、まったく緩んでくれなかった。
「両親のほかに兄妹が六人いました。半分は、自分が十歳になる前に凍死しました。上にひとりいた兄も鉱山で死んでいます」
『……辛かったな』
「いえ。田舎の貧乏人なんてそんなものです。そんな、何かを辛いとか嬉しいとか考えられるほど、余裕のある土地ではありませんでした。自分のなかに詰め込めるものといえば、雪とじゃがいもぐらいです。文化的豊かさとはほとほと無縁でしたね」
『教育はどうしていた。何も無ければ原潜には乗れんだろう』
「ええ、水兵になってはじめて教育らしい教育を受けました。楽しかったですよ。初めて自分のなかに、なにか有意義なものを詰め込めた気がしました……同志イリヤ、第七区画の予備電力を三十、いえ二十秒切ってください。その間に繋ぎます」
『了解した。いくぞ』