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第2話:灰色の鳥

 私が彼の姿を見たのは、『ヴォジャノーイ』が港から出る直前、甲板に整列して高級士官たちを出迎えた時だけだった。潜水艦は狭い乗り物だが、それでも水兵と士官の間には天と地ほどの差がある。


 ましてや、首都から書記長の肝煎りで送り込まれてきたエリートなど、同じ世界の人間とは思えなかった。


 若い将校だった……恐らく私とそう変わらないか、ひとつふたつ下。二十代半ばぐらいだろう。


 その歳で、コートの首元に少佐の階級章をつけていた。海軍のものとは異なる、党と書記長の威光を表す剣とハンマーを交差させたそれは、政治将校が海軍士官よりさらに上位の存在であることを表している。


 叩き上げの海の男にとって、陸の奥からやってきた細面のエリートなど罵倒の対象でしかない。その階級章も、書記長の寝室で立てた「功績」のお陰だろうと、来る前から軽蔑混じりに噂されていた。



 だが、誰もが彼の前に立つと、言葉を失った。



 私はぼんやりしているところがあるので、人の外見にあまり気を取られたことがなかった。


 そんな私でさえ、静かに軍靴を鳴らして歩く彼の姿に思わず息を呑んだ。


 まるで、凍った川の上を歩く灰色の水鳥のようだった。


 長いコートを細身の身体に巻きつけ、軍人らしく短く切った髪を軍帽の下におさめた彼は、士官らしいきびきびとした足取りで甲板を進んでいく。しかし、硬質な軍靴の響きに反して、歩き方にはどこかバレエダンサーを思わせる優雅な柔らかさがあった。足を地面から離す時に、少しふわりと浮き上がるような軽さが宿っているからだろうか。そういうところも、まるで鷺のようだった。


「ありがとう」


 居並ぶ水兵たちに向かって、答礼しながら短く言葉を向ける。硬質だが、その奥にわずかに柔らかさを残した声音だった。


 雪混じりの風が甲板を吹き抜け、私たちの軍帽や肩の上に小さな結晶が張り付いた。それは彼も同じで、ちょうど私の前を通り過ぎる時、灰色の長い睫毛に光の粒がまとわりついた。


 人民連邦軍の軍人は、その程度で歩調を乱したりはしない。エリート中のエリートである政治将校ともなればなおさらだ。書記長の前では瞬きさえ許されないと、我々一兵卒の間ではもっぱらの噂だ。


 ただ、どうやらそれは嘘だったらしいと、その時思った。


 彼は確かに歩調を乱さず、我々水兵に向けて掲げた敬礼の手も微塵も揺らさなかった。


 けれども私は見た。雪の粒が目の近くにまとわりついた瞬間、彼がアイスブルーの瞳を数度しばたたかせたのを。目元に宿った雫が、暗い雲間から差すわずかな斜光を反射させて、つかの間宝石のように煌いた。


 彼が私の前を通り過ぎたのは、ほんの一瞬のことだった。鋭利な横顔と、深く美しい青い瞳を見ていられたのは、わずか二、三秒であろう。


 しかし、そうだ。世界の最果ての、雪と氷に閉ざされた港町で育った私にとってさえ、それはこの上なく印象的なものとして残ったのだった。


 その彼の声が、スピーカーから響いている。


『同志、応答せよ』


 私は我に返った。


 どこで音を拾っているのだろう? と、考えるのはあまりに素朴だ。政治将校がいるところ、盗聴器も共にある。私たち水兵はそれをよく理解している。だから航海の間、誰も行き過ぎた冗談を口にすることはしなかった。代わりにハンドサインで悪口を交わし合ったものだ。それが人民連邦軍で生きるということだった。


 ともかく、私の声は彼に聞こえる。今、彼の声が私に届いているように。


 スピーカーの向こうにいるであろう、灰色の髪と青い瞳の士官に向けて、私は応答した。


「はい……はい、こちら艦首魚雷発射管室所属、リューリク一等水兵であります。そちらは、政治将校殿でありますか?」

 スピーカーの向こうから、一瞬「ふぅ」と息を吐く音が聞こえた。あの怜悧な青年でさえ、こういう時には安堵の溜息をするのか。意外だった。

『イリヤだ。イリヤ・ゾロトフ。同志リューリク、生き残っているのは君だけか?』

「はい、仲間は全滅しました。有毒ガスの漏出です。通路は死体で溢れています」

『上官はいないのか。最後に受けた命令は?』

「全員戦死しました。命令は……魚雷のスクリュー部の点検でしたが」

『君は今から私の指揮下に入れ。事前に受けた命令は全て解除する』

「了解しました、政治将校殿」

『よろしい……同志リューリク、現状を報告せよ』


 私は見えている範囲のことを、思いついた言葉で喋っていった。


 自分の身体のこと、艦内の様子、残留酸素、放射能濃度……。


 政治将校殿はわずかに相槌を打ちながらそれを聞いていたが、時折わずかに呻くような声を発していた。それが気になり、つい口に出ていた。


「政治将校殿、いまどちらにおられますか? ご健在ですか?」


 平時ならば、政治将校殿に自分から話しかけるなど正気の沙汰ではない。


 本当か嘘かは分からないが、ある政治将校に対して「偉大なる書記長の還暦に祝福を!」と気安く言った市民が、なぜ重要機密である書記長の年齢を知っているのかと問い詰められ、そのまま収容所に叩きこまれたという話がある。


 嘘か真かは重要ではない。政治将校と口をきくとは、つまりそういうことだ。


 彼らの耳には市民の話す全ての言葉が反革命的に聞こえる。目に見える全ての営みが陰謀として映る。


 そうやって何人もの無実の人間が、生きては還れない灰色の壁のなかに送り込まれた。


 ところが今の私も彼も、鈍色の水の下にいる。牢獄どころの騒ぎではない。だから私の方から声をかけることができた。


『……今さら取り繕っても仕方がないか。同志リューリク、私は第二制御室にいる』

「第二制御室?」


 聞いたことのない区画だった。


『本艦の第二のメインブリッジだ。もっとも、入れるのは書記長より権限を預かった者、つまり私だけということさ。ここから、ヴォジャノーイの全ての機能にアクセスできる』

「では、通信機能も生きているのでありますか?」

『残念ながら、アンテナは全滅だ。希望を持たせるのも悪いからあえて言っておこう。生存に役立つ機能は無い』

「了解しました、政治将校殿」

『……落胆しないのか?』


 スピーカーの向こうから、意外そうな声が聞こえてきた。


 正直、私もどうしてこんなにあっさりと返事ができたのか不思議だった。


 たしかに自分の命に対する執着は薄い。楽しみの少ない人生だった。惜しいと思えるものなど何もおかに残していない。


 もちろん進んで死にたいとは思わない。苦しかったり、痛いのも嫌だ。


 だが、水深500mの海底に着底した以上、死は不可避だ。


「政治将校殿、お気遣いいただきありがとうございます。ですが、自分は書記長と人民連邦に忠誠を誓っております。今さらできることなど無いかもしれませんが、ご命令は全力で達成します」


 よくもまあ、こんなに模範的な回答がすらすらと出たものだ。


 一体、私の頭のどこに書きつけてあったのだろう?


 政治将校殿はしばらく沈黙していたが、やがてぽつりと呟いた。


『よろしい。では同志リューリク、君にひとつ頼みがある』

「はい」


 どんな命令でも聞こうと思った。どうせ死ぬまで他にやることはないのだから。


 ところが、政治将校殿の出した命令は、私の想像を少しばかり上回っていた。


『後部弾道弾発射室に向かえ。本艦の最期の仕事として、共和国に陽子反応弾を落とす』

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