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第14話 紅き陽、散りゆく声

 燃え盛る炎が、木製の柱を噛み砕くように包み込む。

 稽古場。かつては子どもたちの声と木刀がぶつかり合う音が鳴り響いていた場所。

 今は、火に炙られ、黒煙と焦げた匂いが満ちる修羅の場となっていた。

「後ろに下がってろ!」

 紅景雅が叫んだ。

 背後にいた三人の教え子――まだ幼さの残る顔に泥と煤をつけた少年たちが、怯えながらも必死に景雅の声に従い、壁際へと身を寄せた。

 その小さな肩が、恐怖でわずかに震えていた。

 景雅の手には、長年使い込んだ木刀――だが、それはすでに数ヶ所に亀裂が入り、血の跡が滲んでいた。

 前方には黒鎧の兵士が三人。動きは荒いが数で押し、殺すことにためらいがない。

 景雅はその刃をかいくぐりながら、木刀を振るう。

 ごうっ、と火が舞い上がる中、一人の兵士の膝裏に木刀が突き刺さる。

「うぐっ……!」

 悲鳴と共に兵士が膝をつく。その隙に、景雅は踏み込み、木刀を横薙ぎに叩き込む。

 骨の砕けるような音と共に、兵士が壁に叩きつけられて動かなくなった。

 しかし――その隙を突かれ、別の兵士の剣が肩をかすめる。

「ぐっ……!」

 痛みが走るが、振り返る暇はない。景雅は歯を食いしばり、なおも教え子の前に立つ。

(こんなところで、倒れられるか……!)

 だが、木刀では限界があった。相手の剣を受け止めるたびに、木が軋み、ひびが広がる。

 そして――ついに。


 パキィンッ!


 乾いた音と共に、景雅の木刀が真っ二つに割れた。

 剣を構えた敵が、止めを刺そうと踏み込んできた――その瞬間。

「へえ……まだ生き残ってる奴がいるんだなぁ」

 焼け焦げる木々の悲鳴を嘲るように、その軽薄な声が炎の中に響いた。

 灰の舞う中、くぐもった足音が一歩、また一歩と近づく。

 まるで舞台に登場する役者のように、炎の隙間から姿を現したのは、青い軽装鎧を纏った、異様に整った顔立ちの男だった。

 軽装とはいえ、その鎧は無駄のない作りだった。

 胴を覆う板金は層のように重なり、動きの邪魔にならぬよう継ぎ目に滑らかな曲線が刻まれている。

 全体に蒼鋼のような艶を持ち、炎の中で浮かび上がるその姿は、まるで地獄から這い出た青き騎士のようだった。

 首元結ばれた細く伸びた髪が獣の尻尾のように揺れた。

 金属光沢を放つ甲冑の腕には、血に濡れた剣。その顔は若く、笑みを浮かべている。

「おまえが紅景雅か?へえ、思ったよりしぶといな」

「……誰だ、貴様……」

 景雅が問いかけるが、男は答えない。

 剣をくるくると回しながら、軽い調子で続けた。

「オレ、こう見えて強い奴と戦うのが大好きでさ。……で、おまえ、ちょっと面白そうだったんでね」

「……っ!」

 景雅が構え直す。折れた木刀、それでも捨てられない。

「無駄だっての」

 次の瞬間――青い鎧の男が飛び込んできた。

 視認できない速さ。景雅の木刀が切り裂かれ、剣が腹を裂いた。

「――が、は……っ」

 血が逆流するような熱が喉を突き上げ、景雅の視界が大きく揺れた。

 足元が崩れ落ちる感覚の中で、残された最後の力で教え子たちの姿を探す。

「へぇ、いい音したなぁ……骨、砕けた?」

 男は剣の先で床をカン、と突き、愉快そうに笑った。

 その笑みは、まるで遊びに興じる子どものように無邪気だった。

 その無邪気さが、何より恐ろしかった。

「せっかく庇ってたのに、これじゃ無駄死にだなぁ」

 青い男は剣を軽く振り払いながら、背後の兵士たちに言った。

「ガキどもも、さっさと掃除してこい。街の人間は全員殺せって命令だからな」

「やめっ……!」

 景雅が叫ぼうとしたが、声にならなかった。

 腹から滴る血が床を赤く染める。

(……誰か……頼む……玲華だけでも……)

 その祈りを最後に、紅景雅の瞳が、そっと閉じられた。

 稽古場には、再び燃え盛る炎の音だけが響いていた。


◆    ◆    ◆


 炎が、記憶の中の稽古場を容赦なく飲み込み、赤い舌を揺らしながら木々を焼き尽くしていた。

 屋敷の裏手、焦げた瓦礫が山のように積み重なり、立ち昇る黒煙が視界を曇らせる。

 その向こうには半ば崩れた屋根の影からかつての稽古場が覗いていた。

 柱は炭のように黒く焼け焦げ、壁の一部は溶け落ち、建物はもはや形すら失いかけていた。

 あの場所には、兄――紅景雅がいたはずだった。

 子どもたちに剣を教え、誰よりも熱心に稽古を重ねていた兄。

 その姿が、今はどこにもない。

 玲華は足を止め、焦げた空気の中に目を凝らす。

 胸が締めつけられる。怖かった。

 でも、信じたかった。

(兄さまは、逃げた。教え子たちを連れて、どこかへ……)

 唇を噛み、顔を上げる。

 今は立ち止まってはいけない。今ここで崩れてしまえば、何もかもが終わる。

 父と長兄が、まだどこかで街を守っているかもしれない。

 ならば自分も、生きて、手伝わなければ。

 涙を拭う暇もないまま、焼け落ちかけた屋敷の縁から跳び出す。

 熱気と煙がまとわりつき、咳き込みそうになる。

 空気は油を含んだように重たく淀み、吸い込むたびに喉の奥が焼け付きそうになる。

 足元には、崩れた屋根の破片と、煤で黒く変色した木片が無造作に転がっていた。

 その合間には、熱気に浮かされたように静止した人影。

 まるで眠るようでいて、決して目覚めることのない人々の姿が散らばっていた。

(……前を見て)

 歯を食いしばり、進む。

 どれだけ煙が立ち込めようと、あの日みたいに泣いているだけじゃ、何も守れない。

「きゃああっ!」

 甲高い叫び声が耳を裂いた。

 納屋の方角。とっさにそちらを振り返ると、小さな影が煙の中から転がり出てきた。

 子供――。

 その後ろには、黒鎧の兵士が剣を手に迫っていた。

 玲華の胸が跳ね上がる。

 考えるよりも先に、体が動いていた。

「やめてっ!」

 叫ぶと同時に、玲華は全力で飛び出した。

 反動のまま体当たりをかました玲華に、兵士がよろけて納屋の中へと倒れ込む。

 玲華も地面に転がったが、すぐに身を起こす。

 兵士が剣を振り上げるのが見えた。

「っ……!」

 玲華は地面に落ちていた折れた棒を手にし、咄嗟にその手首を狙って打ち込む。

 兵士の手が一瞬緩み、剣が床に落ちる。

 その瞬間、玲華は飛びついてその剣を握った。

 ずっしりとした鉄の重み。

 木剣とはまるで違う、生々しい武器の存在感。

 その重さに、手が震える。

「はあっ!」

 兵士が唸り声と共に短剣を抜き、玲華へ突進してくる。

 振り下ろす剣。だが、重すぎる。受け止めきれない。

 玲華は身を捻るようにして、なんとか攻撃を逸らす。

 その勢いでバランスを崩しかけた――その隙を兵士が逃さず、突き込んできた。

「くっ!」

 足を踏み込み、玲華は全力で剣を振り抜いた。

 衝撃が腕に伝わる。

 刃が何かを裂く感触と共に、血飛沫が視界を染めた。

 兵士が驚愕に見開いた目のまま、腹に剣を刺したまま、崩れ落ちる。

 そのまま、動かなくなった。

「……あ……」

 手にした剣が、途端に重くなる。

 震える手。膝ががくがくと揺れ、心臓が痛いほど鳴っていた。

 人を……殺した。

 自分の手で。

 歓喜と恐怖。高揚と絶望。

 相反する感情が渦巻き、吐き気すら覚えた。

「おいっ!」

 納屋の扉の隙間から、街の男が顔を覗かせた。

「バカヤロウ! 早く逃げろ!」

 男はさっきの子供を腕に抱え、玲華を一瞥すると背を向ける。

「北門に警備兵がいるって話だ!そこまで行ければ、なんとかなる!早く来い!」

「……!」

 玲華は、落ちた短剣を拾い上げる。

 小さな刃。

 けれど、それが今の自分を支える何よりの武器だった。

 震える膝に力を込め、駆け出す。

(父さま……烈英兄さま……)

 北門。そこに、希望があるかもしれない。

 まだ、あの人たちが、無事でいるかもしれない。

 燃え盛る炎の間を縫うように、玲華はただひたすら走った。

 焼けた石畳が足の裏から熱を伝え、風は煤と灰を巻き込みながら顔を叩く。

 それでも、立ち止まることだけは、許されなかった。

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