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第13話 焔に舞う、紅き決意

 空が、赤く燃えていた。

 爆ぜる火の粉が黒煙の中を舞い、焦げた木材の臭いが鼻を刺す。

 屋根瓦が崩れ落ちる音、誰かの悲鳴、そして剣戟の音。

 それらが混じり合い、街はもはや戦場と化していた。

 あの日見た青空は、どこにもなかった。

 赤く染まった空の下、瓦礫と煙に包まれた街並みが、まるで地獄のように広がっている。

 玲華は、ただひたすらに走った。

 喉の奥に煤が貼りつき、目に映るものすべてが熱に歪んでいた。

 だが、涙を流す余裕もない。

 走らなければ、間に合わない。

 転がる死体を飛び越え、血に染まった石畳を駆け抜ける。

(お願い、間に合って!)

 焦げた空気が喉を焼く。

 火の粉が頬に触れ、熱を帯びた風が目に染みた。

 角を曲がると、前方に黒鎧の兵士が立ち塞がっていた。

 その姿を見た瞬間、足が止まりそうになる。

 しかし玲華は、恐怖よりも先に動いていた。

 倒れた屋台の脇に転がっていた折れた箒の柄を掴む。

 細い手でそれを握りしめ、低く構えた。

 兵士が剣を振るう。

 銀光が目をかすめる。

 玲華は足を踏み込み、体をひねってその軌道をかわす。

 髪が一房、宙を舞った。

 すかさず脇腹に一撃を叩き込む。

「ぐっ……!」

 兵士がよろめいたその隙に、玲華は反動を殺さずもう一歩踏み込み、喉元に棒の先を突き立てた。

 呻き声と共に、男が地に崩れ落ちる。

 呼吸が荒れる。

 肺が熱を持ち、意識が遠のきそうになる。

 それでも、足を止めてはいけなかった。

 通りの先、市場の角。

 幼い頃に遊んだ思い出の場所。

 そこで彼女は、見知った老婆の姿を見つけた。

 果物売りの女将。

 朗らかに笑って桃をくれたあの人。

 だが今、顔の半分を血に染め、動かぬ体となって横たわっていた。

「……あ、ああ……」

 足が止まりそうになる。

 心が張り裂けそうだった。

 それでも玲華は、唇を噛みしめて前を見据える。

(ごめんなさい……っ)

 走る。

 焼け焦げた屋台の脇をすり抜け、転がる壺を跳び越える。

 また一人、倒れていたのは天啓学堂で凌の代わりに出席したときに一緒に学んだ少年。

 名前を呼びたくなる。

 けれど、声に出す余裕もない。

(……ごめん)

 心の中で呟いて、瓦礫の山を踏み越えた。

 見慣れた門が崩れていた。

 赤く染まった庭。白砂にべったりと広がる血の跡。

 草木は焼かれ、灰をまき散らしながら風に揺れている。

「父さま!母さま!」

 声を張り上げるが、返事はない。

 玄関先には侍女が倒れていた。

 片腕が伸ばされ、何かを掴もうとするように宙を彷徨ったまま、すでに動かない。

 喉が詰まる。叫びたくても、声が出なかった。

 玲華は、それでも震える足を無理やり動かし、屋敷の中へと駆け込む。

 廊下は煤に覆われ、倒れた家具と焦げた柱が通路を塞いでいた。

 すすけた壁を手で押しのけ、咳き込みながら前へ進む。

 鼻の奥を焼くような煙と、血の鉄臭さが絡まり合い、目の前が霞む。

 ふと、曲がり角の先――倒れ伏す女の姿があった。

「……母さま……?」

 すすけた着物。焼け焦げた袖。

 その手には、小さな簪が握られていた。

 玲華が幼い頃、贈ったものだ。

 だが、その手はもう、動かない。

「……うそ、でしょ……?」

 喉の奥が詰まり、声が震える。

 だが、その傍らにはさらにもうひとり。

「……風華姉さまっ……!」

 彼女は母の体を庇うように倒れていた。

 腕は焦げ、背には深い刀傷。

 その眼差しは開いたまま、まるでまだ誰かを守ろうとしているようだった。

 玲華の膝が崩れかける。

(やめて……こんなの、嘘だ……)

 だけど、今は泣いている場合じゃない。

 今、探すべき人がいる。

 足を震わせながら立ち上がり、進む。

 奥の部屋――そこに、彼はいた。

 血に染まった布団。

 黒く滲んだ床の上で、凌は静かに横たわっていた。

(お願い、間に合って……!)

 玲華の悲鳴は、轟く炎の音にかき消されていった。

 襖を乱暴に開け放つ。

 そこは――幼い頃、凌と一緒に本を読んだり、琴を弾く真似をして遊んだ部屋だった。

 しかし今、その中心には、もう二度と動かないかもしれない人影が横たわっていた。

「りょ、凌……?」

 赤く染まった床。深紅に濡れた衣。

 視界がにじむ。自分の声が震えて聞こえない。けれど、玲華はその名を何度も口にしていた。

 倒れた凌の胸は、かすかに上下している。

 だが、それが生きている証だとは、信じられなかった。あまりにも静かで、穏やかすぎた。

「凌っ……っ!」

 玲華は叫び、膝を突くようにして彼のもとへ駆け寄った。

 焦げた床が薄く湿った冷たさを伝える中、震える手で凌の身体を抱き起こす。

 途端に鼻を突いたのは、血と鉄の混じった生臭い匂い。

 思わず息を詰めるも、すぐに顔を歪めながらも意識を集中させた。

「お願い……止まって、血、止まって……っ」

 玲華は自分の袖を力任せに裂き、赤黒く染まった胸元へ押し当てる。

 布はたちまち鮮やかな赤に染まり、その温もりが絶望の重さを物語っていた。

 そのとき、わずかにまぶたが震えた。

「……れい、か……?」

 弱々しい声に、玲華の心臓が大きく跳ねる。

「うん、そう! 私だよ! 大丈夫、今、手当てするから……! だから、意識、失わないでっ……!」

 震える声で必死に明るく振る舞おうとするが、目元は涙で滲んでいた。

 それでも、彼を安心させたくて、懸命に笑おうとする玲華。

 しかし凌は、首をかすかに横に振った。

「逃げて……」

 その一言は、まるで命の重さを超えた決意のように響いた。

「いやだ! 置いていけるわけない……っ! 私、一人で逃げるなんて……そんなの、絶対無理だよ!!」

「ダメだ……お前は……生き、て……」

 その眼差しは、死を悟りながらも玲華を突き放す強さを宿していた。

 玲華はその強さに打たれ、涙を浮かべながら唇を噛む。

「でも……でもっ……こんなの、嫌だよ……っ!」

 凌の手を両手で握る。指先が冷たくなっていく。

 そして、かすかに感じていた鼓動も、もう感じられなかった。

「……うそ……ねえ、凌……?」

 震える声で呼びかけても、凌は静かに目を閉じたまま、まるで眠るように動かない。

 玲華の喉から、押し殺した嗚咽が洩れる。

 煙と熱に満ちた部屋の中、崩れ落ちるようにその場に座り込む玲華。

 それでも、凌の身体を抱きしめる腕を離すことはなかった。

 そのとき――。

「……ダメだ」

 かすかな声が、炎の轟音の中から浮かび上がった。

 玲華が顔を上げると、凌の瞳が再び開かれていた。

「れい、かは、生きて。……だから、私にな、って」

「……え?」

 玲華は言葉の意味が理解できず、目を見開く。

「服を……貸してくれ。玲華が……私の服を、着て」

「どうして……? そんな……」

 問いかける玲華に、紅凌は薄く笑った。

「今から……お前が紅凌だ」

 涙で潤む目を細めながら、彼は続けた。

「女で、にげるの、は……たいへ、ん……でも、男なら……」

 断続的に途切れる言葉が、炎と血に包まれた世界の中に、ひどく静かに落ちた。

「……嫌だ、そんなの……!」

 玲華は首を振る。涙に濡れた頬がすすで汚れ、赤く腫れた目が、懇願するように兄を見つめる。

 だけど、その視線に応えるように、紅凌は微笑んだ。

「玲、華……お願いだ」

 冷たくなりつつある手が、ゆっくりと玲華の頬に触れる。

 その手は、昔、転んで泣いたときに頭を撫でてくれた、あの優しい手のままだった。

 けれど、その温もりは確実に、指先から失われていく。

 それが、玲華には何よりも怖かった。

「……にげ、て」

 わずかに力の抜けた声。それでも、凌の瞳はまっすぐに玲華を見つめていた。

「ムリだよ……私ひとりでなんて……!」

 玲華の肩が震える。喉が詰まり、息が浅くなる。

 胸の奥が、ぎゅうっと潰れるように痛い。怖い。怖くて仕方ない。兄がいなくなるなんて、考えたくもない。

「……できるよ。玲華なら」

 微笑みすら見せて、凌はそう言った。

 その声はもう震えていて、いつ止まってもおかしくなかったのに、優しさだけは変わらなかった。

「ムリ、ムリ、ムリっ!! 凌がいないと……私、何もできないよっ!!」

 玲華は泣きじゃくりながら、兄の胸元にしがみつく。

 震える体を押しつけて、どうにかこの現実を否定しようとした。

「……生きて、私の、分まで……それが……私の……ねが、いだから」

 かすれた声。苦しげな息の合間に紡がれた、兄の最後の願い。

「凌っ……!!」

 玲華の声が裏返る。必死に呼びかけたその瞬間、凌の腕から力が抜けた。

「凌っっ!!!!!」

 叫んで、叫んで、玲華は震える手で彼の頬を両手で包み込んだ。

 まだ、温かい。それなのに、その瞳はもう二度と開くことはなかった。

「いやだ……いやだぁぁぁぁぁ!!!」

 床に崩れ落ちる。

 拳が床を打つたびに、痛みが身体に広がる。

 けれど、心の痛みのほうが、何倍も何倍も辛かった。

「なんで……なんで、なんでっ!!」

 割れた爪から血が滲む。握りしめた拳の中で、皮膚が裂ける。

 それでも、涙と叫びは止まらない。

「母さまを……姉さまを……凌を……みんなを返せよおおお……!」

 すすけた頬を伝う涙は、床に吸い込まれていく。

 外ではなおも炎が唸り、赤い煙が空を覆っていた。

 玲華は、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、涙を超えた強い光が宿っていた。

 熱に焼かれながらも、その決意だけは凍ることなく燃え続けている。

「……殺してやる」

 その呟きは、静かだった。

 静かで、深く、そして底知れぬほど冷たい怒りと悲しみに満ちていた。

 家族を奪った者たち。

 この街を焼いた者たち。

 何もかもを踏みにじった者たち。

(……すべて、殺してやる)

 玲華は、血と煤にまみれた自分の服を脱ぎ棄てた。

 箪笥を開け、凌の服を手に取る。

 まだ兄の匂いが残るそれに顔を埋め、ひとつ息を吸ってから、着替え始める。

「借りるね……凌」

 その言葉は、優しい別れのようでもあり、決意の印でもあった。

 身に纏ったのは、亡き兄の想い。

 その姿はもう、紅玲華ではなかった。

 ――その日、私は紅凌になった。

 復讐を誓った少女は、血に染まる風となり、戦場へと歩み始める。

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