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第12話 焔空の向こうに

 玲華は無我夢中で街を駆け抜けた。

 風が髪を乱し、荒くなる呼吸が喉を焼く。

 だが、それすらも今の彼女にとってはどうでもよかった。

 足を止めるわけにはいかない。ただ、ひたすらに前へ、前へと走り続ける。

 やがて、街外れの訓練場へとたどり着いた。

 あの日、徐慧と剣を交わした場所。

 乾いた土が広がり、風に揺れる草がわずかにざわめく。

 夜の名残がまだ空に残るが、すでに東の空が白み始め、朝の訪れを告げていた。

 玲華は深く息を吸い、手近にあった木剣を掴んだ。

 そして、一切の迷いもなく、剣を振る。


 ――シュッ!


 空を切る音が響く。

 肩の力を抜き、足を開き、もう一度。


 ――シュッ!


 剣の軌道は正確だった。けれど、思いのままに振っているわけではない。

 考えがまとまらず、乱れる心を整えるために、ただ、ひたすらに剣を振る。

「凌……」

 呟いた名が、虚空へと消えた。

 なぜ、凌はあんなにも苦しそうな顔をしていたのか。

 なぜ、あんなにも遠ざけるような目をしていたのか。

 戦えないことが、そんなに辛いのか?

 確かに、男である凌は武官の家に生まれながら武術に秀でていない。

 けれど、それがそんなに大きな問題なのだろうか?

「だったら、私だって……!」

 玲華は歯を食いしばりながら、剣を振り下ろした。

 剣の才に恵まれた。だが、それと引き換えに、女性として求められる教養はからきしだった。

 琴も刺繍も苦手、優雅な振る舞いもできない。

 凌は、それを「玲華は自分にないものを持っている」と言った。

 だが、それは玲華にとっても同じだった。

 凌は学問ができ、字が美しく、兵法にも通じている。

 武術はできなくても、兄たちが舌を巻くほどの知性を持っている。

 それは十分、誇れることではないのか?

 それなのに。

 また剣を振る。

 木剣が空を裂くたび、胸の奥で絡まり合っていた感情がほどけていく。

 私は、どうしてこんなに腹が立っている?

 どうして、あんなにも凌の言葉が胸を締めつける?


 ――それは、凌が自分自身を否定したからだ。


 玲華は、自分の弱さを自覚している。

 でも、だからといって「女だから」「向いていないから」と諦めたくはなかった。

「凌だって……」

 武術ができなくたって、凌にしかできないことがある。

 それなのに、彼はそれを捨てようとしている。

(……違う)

 捨てようとしているのではない。

 最初から、価値がないものとして、自分で否定している。

 玲華は剣を振りながら、ふと気づいた。

 自分は、凌に甘えていたのではないか?

 凌の服を借りて、凌の姿を借りていたからこそ、好きなことができた。

 武術を学ぶことができた。

 できない人間と、やりたいけどやらせてもらえない人間。

 はじめは、凌の「やりたいならやってみればいい」という優しさだった。

 でも、玲華の才能が開花していくにつれて、それは嫉妬へと変化してしまったのかもしれない。

 そんな自分が、凌は嫌だったのだろう。

 剣を振る手が、止まる。

 玲華は、拳をぎゅっと握りしめた。

 もう一度、凌と話そう。

 ちゃんと、ちゃんと話して、それで納得できるようにしよう。

 決意を固めると、玲華は木剣を置き、息を整えた。

 落ち着いた心が、静かに澄んでいく。

(よし、帰ろう)

 そう思い、訓練場を出ようとした、そのときだった。

 遠くの空に、黒い煙が立ち昇っていた。

「……え?」

 目を凝らす。

 あれは、街の方角。

 藍都の上空に、確かに煙が昇っている。

 胸がざわめいた。

 何かが起こっている――!

 玲華は一気に駆け出した。

 街へ向かって走る。足音が砂を蹴り、鼓動が耳を打つ。

 煙は次第に濃くなり、鼻を刺す焦げ臭さが風に乗って漂ってきた。

 やがて、視界に炎が映る。

 建物が燃え、崩れかけた屋根が軋みながら落ちていく。焦げた木材の臭いが鼻を突き、空には黒煙が渦を巻いていた。

 道には倒れた荷車と砕けた陶器が散乱し、地面に伏せる人々の呻き声があちこちから聞こえる。

 悲鳴と怒号が入り混じる中、幼子を抱えた母親が怯えながら身を縮め、震える老人が塀の影に隠れようとしていた。

 逃げ惑う人々の後ろから、黒い鎧を纏った兵士たちが追いかけていた。

「何が……!?」

 玲華が足を止めた、そのとき。

「貴様……何者だ?」

 兵士のひとりが冷たい目を向け、血に濡れた剣の切っ先を玲華へ向ける。

「民の逃亡を助けるとは……反乱者か?」

 その声には嘲りが混じっていた。

 玲華は拳を固く握りしめ、視線を逸らさずに兵士を睨み返す。

「違うっ!私は、この街の人間だ」

「なら、反乱者だっ!!」

 兵士が剣を振りかぶる。

 玲華は瞬時に身を低くし、地面を蹴った。

 間一髪、刃が頭上をかすめる。

「チッ、小賢しい!」

 兵士が次の一撃を繰り出そうとするが、その隙を逃さなかった。

 玲華は素早く踏み込み、持っていた棒を全力で振るう。

「ぐっ……!」

 鈍い音が響き、兵士の顎に直撃した。

 その勢いで兵士の体が仰け反る。

「くそ……貴様……!」

 もう一人の兵士が剣を振り下ろそうとする。

 だが、玲華はすぐさま体勢を低くし、その攻撃を避けた。

 そして、そのまま棒の先端を兵士の膝へ叩き込む。

「ぐあっ!」

 膝をついた兵士の隙を突き、玲華はさらに強く打ち据える。

 その一撃で、兵士は地面に崩れ落ちた。

 息が荒れる。

 だが、まだ終わりではない。

 立ち上がろうとする兵士たちに、最後の一撃を加えた。


 ――ドンッ!


 二人の兵士が動かなくなったのを確認し、玲華は大きく息を吐いた。

 玲華は、わずかに震える指先を見た。

 だが、それでも、兵士を倒したのは自分だ。

(私は――戦える)

 そう確信した瞬間、今の状況を理解しなければならないと頭を切り替える。

「何が起こっているの!?」

 逃げてきた人々に問う。

「わ、わからない! 突然、兵士たちが街に押し入ってきて、家を焼き、襲ってきたんだ!」

 耳を疑った。

 何の前触れもなく、こんなことが?

 しかし、今は理由を考えている場合ではない。

「君、父様や母様はどこ!?」

 玲華が必死に問いかける。

 少年は肩を震わせながら、涙を浮かべて答えた。

「わ、わからない……! 父さんと母さんは、一緒にいたのに……」

 少年は肩を震わせ、唇を噛みしめた。

 言葉を続けようとするが、喉が詰まったように声が出ない。

 玲華がそっと肩に触れると、少年は涙をこぼしながら、絞り出すように叫んだ。

「気づいたら、手を離しちゃって……!」

 絶望がにじんだ声に、玲華の胸が強く締めつけられる。

「おばあちゃんは家にいたけど、火が……火が!!」

 叫ぶように言った少年の声がかすれ、咳き込む。

「みんな、みんな、どこかへ行っちゃった……!」

 玲華の心臓が跳ねる。

 父や母、兄たち、そして凌――。

(みんな無事なの!? 早く、早く行かなきゃ……!)

 心臓が喉まで迫るような感覚。

 熱気が肌を刺す。

 一瞬、足が止まりかける。

「行かなきゃ……!」

 玲華は、迷わず炎の中へと駆け込んだ。。

 みんな、無事なのか!?

 考えるよりも早く、玲華の足は家へと向かっていた。

(行かなきゃ!助けなきゃ!)

 走る。

 炎の中へと、迷わず駆け込んだ。

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