玲華は無我夢中で街を駆け抜けた。
風が髪を乱し、荒くなる呼吸が喉を焼く。
だが、それすらも今の彼女にとってはどうでもよかった。
足を止めるわけにはいかない。ただ、ひたすらに前へ、前へと走り続ける。
やがて、街外れの訓練場へとたどり着いた。
あの日、徐慧と剣を交わした場所。
乾いた土が広がり、風に揺れる草がわずかにざわめく。
夜の名残がまだ空に残るが、すでに東の空が白み始め、朝の訪れを告げていた。
玲華は深く息を吸い、手近にあった木剣を掴んだ。
そして、一切の迷いもなく、剣を振る。
――シュッ!
空を切る音が響く。
肩の力を抜き、足を開き、もう一度。
――シュッ!
剣の軌道は正確だった。けれど、思いのままに振っているわけではない。
考えがまとまらず、乱れる心を整えるために、ただ、ひたすらに剣を振る。
「凌……」
呟いた名が、虚空へと消えた。
なぜ、凌はあんなにも苦しそうな顔をしていたのか。
なぜ、あんなにも遠ざけるような目をしていたのか。
戦えないことが、そんなに辛いのか?
確かに、男である凌は武官の家に生まれながら武術に秀でていない。
けれど、それがそんなに大きな問題なのだろうか?
「だったら、私だって……!」
玲華は歯を食いしばりながら、剣を振り下ろした。
剣の才に恵まれた。だが、それと引き換えに、女性として求められる教養はからきしだった。
琴も刺繍も苦手、優雅な振る舞いもできない。
凌は、それを「玲華は自分にないものを持っている」と言った。
だが、それは玲華にとっても同じだった。
凌は学問ができ、字が美しく、兵法にも通じている。
武術はできなくても、兄たちが舌を巻くほどの知性を持っている。
それは十分、誇れることではないのか?
それなのに。
また剣を振る。
木剣が空を裂くたび、胸の奥で絡まり合っていた感情がほどけていく。
私は、どうしてこんなに腹が立っている?
どうして、あんなにも凌の言葉が胸を締めつける?
――それは、凌が自分自身を否定したからだ。
玲華は、自分の弱さを自覚している。
でも、だからといって「女だから」「向いていないから」と諦めたくはなかった。
「凌だって……」
武術ができなくたって、凌にしかできないことがある。
それなのに、彼はそれを捨てようとしている。
(……違う)
捨てようとしているのではない。
最初から、価値がないものとして、自分で否定している。
玲華は剣を振りながら、ふと気づいた。
自分は、凌に甘えていたのではないか?
凌の服を借りて、凌の姿を借りていたからこそ、好きなことができた。
武術を学ぶことができた。
できない人間と、やりたいけどやらせてもらえない人間。
はじめは、凌の「やりたいならやってみればいい」という優しさだった。
でも、玲華の才能が開花していくにつれて、それは嫉妬へと変化してしまったのかもしれない。
そんな自分が、凌は嫌だったのだろう。
剣を振る手が、止まる。
玲華は、拳をぎゅっと握りしめた。
もう一度、凌と話そう。
ちゃんと、ちゃんと話して、それで納得できるようにしよう。
決意を固めると、玲華は木剣を置き、息を整えた。
落ち着いた心が、静かに澄んでいく。
(よし、帰ろう)
そう思い、訓練場を出ようとした、そのときだった。
遠くの空に、黒い煙が立ち昇っていた。
「……え?」
目を凝らす。
あれは、街の方角。
藍都の上空に、確かに煙が昇っている。
胸がざわめいた。
何かが起こっている――!
玲華は一気に駆け出した。
街へ向かって走る。足音が砂を蹴り、鼓動が耳を打つ。
煙は次第に濃くなり、鼻を刺す焦げ臭さが風に乗って漂ってきた。
やがて、視界に炎が映る。
建物が燃え、崩れかけた屋根が軋みながら落ちていく。焦げた木材の臭いが鼻を突き、空には黒煙が渦を巻いていた。
道には倒れた荷車と砕けた陶器が散乱し、地面に伏せる人々の呻き声があちこちから聞こえる。
悲鳴と怒号が入り混じる中、幼子を抱えた母親が怯えながら身を縮め、震える老人が塀の影に隠れようとしていた。
逃げ惑う人々の後ろから、黒い鎧を纏った兵士たちが追いかけていた。
「何が……!?」
玲華が足を止めた、そのとき。
「貴様……何者だ?」
兵士のひとりが冷たい目を向け、血に濡れた剣の切っ先を玲華へ向ける。
「民の逃亡を助けるとは……反乱者か?」
その声には嘲りが混じっていた。
玲華は拳を固く握りしめ、視線を逸らさずに兵士を睨み返す。
「違うっ!私は、この街の人間だ」
「なら、反乱者だっ!!」
兵士が剣を振りかぶる。
玲華は瞬時に身を低くし、地面を蹴った。
間一髪、刃が頭上をかすめる。
「チッ、小賢しい!」
兵士が次の一撃を繰り出そうとするが、その隙を逃さなかった。
玲華は素早く踏み込み、持っていた棒を全力で振るう。
「ぐっ……!」
鈍い音が響き、兵士の顎に直撃した。
その勢いで兵士の体が仰け反る。
「くそ……貴様……!」
もう一人の兵士が剣を振り下ろそうとする。
だが、玲華はすぐさま体勢を低くし、その攻撃を避けた。
そして、そのまま棒の先端を兵士の膝へ叩き込む。
「ぐあっ!」
膝をついた兵士の隙を突き、玲華はさらに強く打ち据える。
その一撃で、兵士は地面に崩れ落ちた。
息が荒れる。
だが、まだ終わりではない。
立ち上がろうとする兵士たちに、最後の一撃を加えた。
――ドンッ!
二人の兵士が動かなくなったのを確認し、玲華は大きく息を吐いた。
玲華は、わずかに震える指先を見た。
だが、それでも、兵士を倒したのは自分だ。
(私は――戦える)
そう確信した瞬間、今の状況を理解しなければならないと頭を切り替える。
「何が起こっているの!?」
逃げてきた人々に問う。
「わ、わからない! 突然、兵士たちが街に押し入ってきて、家を焼き、襲ってきたんだ!」
耳を疑った。
何の前触れもなく、こんなことが?
しかし、今は理由を考えている場合ではない。
「君、父様や母様はどこ!?」
玲華が必死に問いかける。
少年は肩を震わせながら、涙を浮かべて答えた。
「わ、わからない……! 父さんと母さんは、一緒にいたのに……」
少年は肩を震わせ、唇を噛みしめた。
言葉を続けようとするが、喉が詰まったように声が出ない。
玲華がそっと肩に触れると、少年は涙をこぼしながら、絞り出すように叫んだ。
「気づいたら、手を離しちゃって……!」
絶望がにじんだ声に、玲華の胸が強く締めつけられる。
「おばあちゃんは家にいたけど、火が……火が!!」
叫ぶように言った少年の声がかすれ、咳き込む。
「みんな、みんな、どこかへ行っちゃった……!」
玲華の心臓が跳ねる。
父や母、兄たち、そして凌――。
(みんな無事なの!? 早く、早く行かなきゃ……!)
心臓が喉まで迫るような感覚。
熱気が肌を刺す。
一瞬、足が止まりかける。
「行かなきゃ……!」
玲華は、迷わず炎の中へと駆け込んだ。。
みんな、無事なのか!?
考えるよりも早く、玲華の足は家へと向かっていた。
(行かなきゃ!助けなきゃ!)
走る。
炎の中へと、迷わず駆け込んだ。