目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第11話 近くて遠い、心の距離

 徐慧が去って七日が経った。

 寂しさはまだ胸の奥にぽつりと残っている。

 だが、それに囚われてはいけないと、玲華は師の言葉を胸に、毎日欠かさず稽古を続けていた。

 次兄の景雅が夜にこっそりと稽古場を貸してくれることもあり、昼間の限られた時間では足りない分を補うことができた。

 夜の帳が降り、稽古場には薪の火がぱちぱちと爆ぜながら灯り、揺れる橙色の光が床に長い影を落としていた。

 乾いた砂の匂いと木剣が擦れる音が、静かな夜に溶け込んでいる。

「さあ、もう一本だ」

 景雅はゆっくりと構えを取り、木剣を斜めに傾ける。

 まるで、次の動きを予測しているかのような静かな構えだった。

 玲華は木剣を握り直し、喉の奥で息を飲み込む。

(……次こそは)

 夜の冷えた空気の中で、玲華は息を整えながら木剣を握り直した。


 ――パァン!


 互いの木剣が勢いよくぶつかり合い、乾いた音が響く。

 玲華は真っ直ぐに斬りかかったが、景雅は難なく受け流す。

 そのまま流れるような動きで反撃を仕掛けてきた。

「っ……!」

 玲華はとっさに剣を立て、横薙ぎの一撃を受け止める。

 だが、景雅の剣圧は重く、力を込めなければ押し切られそうだった。

「悪くない。でも、まだ甘い」

 景雅が一歩踏み込む。

 足運びとともに木剣が滑らかに弧を描き、玲華の脇を狙う。

 玲華は瞬時に身体を沈め、その攻撃を紙一重でかわした。

 すぐさま体勢を立て直し、低い位置から跳ね上げるように木剣を振る。

「ほう」

 景雅が僅かに目を見開いた。

 玲華の剣は景雅の肩を捉えそうになったが、直前で避けられ、すぐさま剣の腹で玲華の腕を打ち払われた。

「くっ……!」

 その衝撃にバランスを崩し、玲華はぐらりと揺れる。

 景雅は隙を逃さず、木剣を首元に突きつけた。

「……ここまでだな」

 言葉と同時に木剣を下ろし、ほっと息をつく。

 稽古場に静寂が訪れ、火の灯りが揺らめいた。

 玲華の指先はまだ震えていたが、その感覚を確かめるように拳をぎゅっと握った。

「玲華、お前の剣、徐慧と出会う前より格段に伸びてるな」

 景雅の言葉に、玲華は肩で息をしながら小さく頷く。

 だが、その胸にはまだ言葉にできない焦燥が残っていた。「けど、なんか力んでたな」

 景雅は木剣を背負いながら、玲華の顔を覗き込む。

「いや、焦ってた、っていう方が正しいか?」

「……」

 玲華は無言のまま、足元に目を落とした。

 確かに、妙な焦りがあった。

 頭では冷静になれと言い聞かせているのに、どこか落ち着かなかった。

「お前、最近ちょっと顔が暗いな」

「え?」

 思わぬ言葉に、玲華は驚いたように顔を上げた。

「まだ、徐慧と別れたことが気になるのか?」

 景雅は、薪の火がちらちらと揺れる中、玲華の顔を探るように覗き込んだ。

「ううん、そうじゃないの」

 玲華は軽く首を振る。

「確かに寂しいけど、それは仕方がないってわかってる。そうじゃなくて……凌のことなの」

 景雅の眉がわずかに動く。

「凌?」

「うん……ここのところ、凌と話せてないの。話そうとしても、避けられてるみたいで」

 握りしめた拳が、ぎゅっと強くなる。

「喧嘩したのか?」

「ううん、してない。ただ、なんか……話ができなくて。部屋に行っても、疲れてるからって入れてももらえなくて」

 言葉を口にするたびに、不安がゆっくりと大きくなっていくのを感じる。

「それに……最近、そのおかげでずっと男装してないの」

 ふ、と景雅が微かに唇を噛んだ。

「……それなら、俺から聞いてみるか?」

 しばし考えた末に提案するが、玲華は即座に首を横に振った。

「ううん、大丈夫。自分で何とかするよ」

「……そうか」

 景雅はそれ以上は言わなかったが、どこか複雑な表情を浮かべていた。


◆     ◆     ◆


 次の日。

 朝食の席には、家族が全員そろっていた。

 広々とした食堂には、朝の光が窓から差し込み、白木の床を柔らかく照らしている。

 食卓の上には湯気を立てる粥、漬物、干し魚、豆腐の味噌汁が並べられ、香ばしい匂いがほのかに漂っていた。

「今日も暑くなりそうだな」

 長兄・烈英が呟きながら茶を啜る。

 その隣で次兄の景雅が軽く頷いた。

「暑さで食欲が落ちると困るな」

 景雅が箸を置きながら言うと、母・華桜が微笑んだ。

「こういう時こそ、しっかり食べないとね」

「王都からの使者が、また今日来る」

 食卓の端で、父・雷怕が低い声で告げた。

 その言葉に、一瞬、場が引き締まる。

「もう対応の準備は済んでいるのか?」

 烈英が眉を寄せながら問いかけると、雷怕はゆっくりと湯呑みを置いた。

「すでに役人たちには伝えてあるが、今回は王都からの正式な文書を持ってくるとのことだ。余計な混乱が起こらぬよう、早めに向かう」

「そうか……なら、私も警備の配置を見直しておく」

 烈英が真剣な表情で頷く。

 彼は藍都の防衛を担う要職についており、王都からの使者が来るとなれば、その警備も厳重にしなければならない。

「早めに行くぞ、父上。私も警備のために準備があるので、途中まで一緒に向かおう」

「うむ、それがいい」

 雷怕は短く頷き、再び粥に手をつける。

 静かに進む食事の時間の中で、凌の様子がどこか落ち着かないように見えた。

 玲華は、その横顔をちらりと盗み見る。

 何か話したいけれど、言葉が出てこない。

 その間にも、凌はいつもより早く箸を置き、そっと茶を飲み干した。

「ごちそうさま」

 短くそう言うと、彼はすっと立ち上がる。

 玲華は、その背を見送った後、すぐに立ち上がる。

 ――今日こそは、絶対に話す。

 給仕たちが食器を片付ける音、兄や姉たちの足音。

 けれど、そんなものは今の玲華の耳には入らなかった。

 食堂を出たところで、ちょうど凌の姿が目に入る。

 迷わず、その腕を掴んだ。

「凌!」

 驚いたように振り向く凌の手をしっかりと握る。

 思わず逃げようとするその動きを逃さず、そのまま引っ張った。

「ちょっ……!」

 抵抗しようとする凌の力を振り切り、自室へと連れて行く。

(ここからは、もう逃がさない)

 戸を閉め、二人きりになった部屋。

 しんとした静寂が降りる。

 窓から差し込む朝の光が、部屋の床に長い影を落としていた。

 玲華は、真正面から凌と向き合った。

 深く息を吸い込む。

「……何で避けてるの?」

 玲華の声が、静かな部屋に響いた。

 凌は小さく肩を揺らし、視線を落としたまま答えない。

「私、何かした?」

 玲華はさらに一歩近づく。

 すると、凌は僅かに眉を寄せた。

「別に。何もしてない」

 その言葉は、ひどく乾いていた。

「何もしてないなら、何で避けるのよ!」

 玲華の声が大きくなる。

 その瞬間、凌の肩が跳ねた。

「避けてるつもりは……」

「避けてるっ!!」

 声を荒げると、凌はぎゅっと拳を握る。

 それを見て、玲華の胸に張り詰めた感情がさらに膨らんだ。

 抑えきれず、声が荒くなる。

 その瞬間、凌の肩がわずかに揺れた。

 朝の光に照らされた彼の横顔が、一層沈んで見える。

 凌はゆっくりと息を吸い込み、そして、ぽつりと吐き出した。

「玲華が悪いんじゃない。私が悪いんだ」

 玲華は、反射的に言葉をのみ込む。

 胸の奥が、ざわりとざわめいた。

「……どういうこと?」

 小さく問い返すと、凌は静かに続けた。

「玲華のことが……うらやましくて」

「え……?」

 意外な言葉に、玲華は少し目を見開いた。

 凌は、どこか遠いものを見るように壁を見つめていた。

 朝の光が薄く差し込む部屋の中、彼の横顔には淡い影が落ちている。

 その瞳はどこか虚ろで、焦点が合っていないように見えた。

「私は、こうだろ」

 ぽつりと呟くように言いながら、凌は自嘲するように笑った。

 だが、その笑みはどこか歪んでいて、決して楽しげなものではない。

「男なのに、武術の才がない」

 そう言うと、彼の細い指が無意識に膝の上で握られる。

 爪が皮膚に食い込むほど強く、けれど、それでも抑えきれない感情が内側から滲み出しているようだった。

 玲華は、じっとその様子を見つめた。

 そして、静かに口を開く。

「でも、凌は私が持ってないものを持ってるじゃない」

 優しく言ったつもりだった。

 だが、凌の肩がぴくりと震える。

「……何を?」

 かすれた声が漏れた。

「手先が器用で、字も達筆だし、頭もいい。政治や兵法だって得意じゃない」

 玲華は、一歩前に出る。

 けれど、凌はわずかに顔を背けるように目を伏せた。

「でも……男としては駄目なんだ」

 その言葉には、どこか滲むような悲しみがあった。

 まるで、自分で自分を否定し続けるような、深い苦しみ。

「戦えないと、駄目なんだよ」

 壁を見つめる瞳が、かすかに揺れる。

 肩が少しだけ落ち、凌の指がゆっくりと緩んでいく。

 だけど、それは決して安堵ではなく、ただ力が抜けてしまっただけのように見えた。

 玲華の眉がひそまる。

「そんなこと言うなら、私だって……!」

 琴も刺繍も苦手だ。

 作法だって、周りの姉たちのように優雅にはできない。

 女性らしく振る舞うことも、正直、得意ではない。

 思わず言いかけたその言葉。

 けれど、凌の声がそれを遮った。

「だから、ごめん」

 凌の声は、驚くほど静かだった。

「だから……ごめん」

 凌の声は、驚くほど静かだった。

「これは……私の心の問題なんだ」

 張り詰めた空気の中で、玲華は息をするのを忘れそうになった。

 窓の外から、微かに風の音が聞こえる。

 凌の瞳はどこか遠くを見ていて、まるで何かを押し込めるように曇っていた。

 しんとした沈黙が流れ、窓の外から風の音が微かに聞こえた。

 凌の瞳は、まるで何かを押し込めるように曇っている。

 その表情を見て、玲華の胸がぎゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。

「凌……」

 玲華が手を伸ばしかけたその瞬間、凌は、ほんのわずかに、けれどはっきりと身を引いた。

「……っ!」

 玲華の胸の奥が、ぐしゃりと音を立てた気がした。

 拳がぎゅっと固く握られる。

「そんなの……納得できるわけないでしょ!!」

 玲華の声が震え、抑えていた感情が一気に溢れた。

「どうしてそんな顔するの!? どうして、そんなふうに言うの……」

 涙がこみ上げるのを必死に堪えながら、拳をぎゅっと握る。

 だが、凌は答えなかった。ただ、静かに目を伏せるだけだった。

 これ以上、言葉を交わしても無駄だ。

 そう悟った瞬間、玲華は勢いよく戸を開け、部屋を飛び出した。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?