徐慧が去って七日が経った。
寂しさはまだ胸の奥にぽつりと残っている。
だが、それに囚われてはいけないと、玲華は師の言葉を胸に、毎日欠かさず稽古を続けていた。
次兄の景雅が夜にこっそりと稽古場を貸してくれることもあり、昼間の限られた時間では足りない分を補うことができた。
夜の帳が降り、稽古場には薪の火がぱちぱちと爆ぜながら灯り、揺れる橙色の光が床に長い影を落としていた。
乾いた砂の匂いと木剣が擦れる音が、静かな夜に溶け込んでいる。
「さあ、もう一本だ」
景雅はゆっくりと構えを取り、木剣を斜めに傾ける。
まるで、次の動きを予測しているかのような静かな構えだった。
玲華は木剣を握り直し、喉の奥で息を飲み込む。
(……次こそは)
夜の冷えた空気の中で、玲華は息を整えながら木剣を握り直した。
――パァン!
互いの木剣が勢いよくぶつかり合い、乾いた音が響く。
玲華は真っ直ぐに斬りかかったが、景雅は難なく受け流す。
そのまま流れるような動きで反撃を仕掛けてきた。
「っ……!」
玲華はとっさに剣を立て、横薙ぎの一撃を受け止める。
だが、景雅の剣圧は重く、力を込めなければ押し切られそうだった。
「悪くない。でも、まだ甘い」
景雅が一歩踏み込む。
足運びとともに木剣が滑らかに弧を描き、玲華の脇を狙う。
玲華は瞬時に身体を沈め、その攻撃を紙一重でかわした。
すぐさま体勢を立て直し、低い位置から跳ね上げるように木剣を振る。
「ほう」
景雅が僅かに目を見開いた。
玲華の剣は景雅の肩を捉えそうになったが、直前で避けられ、すぐさま剣の腹で玲華の腕を打ち払われた。
「くっ……!」
その衝撃にバランスを崩し、玲華はぐらりと揺れる。
景雅は隙を逃さず、木剣を首元に突きつけた。
「……ここまでだな」
言葉と同時に木剣を下ろし、ほっと息をつく。
稽古場に静寂が訪れ、火の灯りが揺らめいた。
玲華の指先はまだ震えていたが、その感覚を確かめるように拳をぎゅっと握った。
「玲華、お前の剣、徐慧と出会う前より格段に伸びてるな」
景雅の言葉に、玲華は肩で息をしながら小さく頷く。
だが、その胸にはまだ言葉にできない焦燥が残っていた。「けど、なんか力んでたな」
景雅は木剣を背負いながら、玲華の顔を覗き込む。
「いや、焦ってた、っていう方が正しいか?」
「……」
玲華は無言のまま、足元に目を落とした。
確かに、妙な焦りがあった。
頭では冷静になれと言い聞かせているのに、どこか落ち着かなかった。
「お前、最近ちょっと顔が暗いな」
「え?」
思わぬ言葉に、玲華は驚いたように顔を上げた。
「まだ、徐慧と別れたことが気になるのか?」
景雅は、薪の火がちらちらと揺れる中、玲華の顔を探るように覗き込んだ。
「ううん、そうじゃないの」
玲華は軽く首を振る。
「確かに寂しいけど、それは仕方がないってわかってる。そうじゃなくて……凌のことなの」
景雅の眉がわずかに動く。
「凌?」
「うん……ここのところ、凌と話せてないの。話そうとしても、避けられてるみたいで」
握りしめた拳が、ぎゅっと強くなる。
「喧嘩したのか?」
「ううん、してない。ただ、なんか……話ができなくて。部屋に行っても、疲れてるからって入れてももらえなくて」
言葉を口にするたびに、不安がゆっくりと大きくなっていくのを感じる。
「それに……最近、そのおかげでずっと男装してないの」
ふ、と景雅が微かに唇を噛んだ。
「……それなら、俺から聞いてみるか?」
しばし考えた末に提案するが、玲華は即座に首を横に振った。
「ううん、大丈夫。自分で何とかするよ」
「……そうか」
景雅はそれ以上は言わなかったが、どこか複雑な表情を浮かべていた。
◆ ◆ ◆
次の日。
朝食の席には、家族が全員そろっていた。
広々とした食堂には、朝の光が窓から差し込み、白木の床を柔らかく照らしている。
食卓の上には湯気を立てる粥、漬物、干し魚、豆腐の味噌汁が並べられ、香ばしい匂いがほのかに漂っていた。
「今日も暑くなりそうだな」
長兄・烈英が呟きながら茶を啜る。
その隣で次兄の景雅が軽く頷いた。
「暑さで食欲が落ちると困るな」
景雅が箸を置きながら言うと、母・華桜が微笑んだ。
「こういう時こそ、しっかり食べないとね」
「王都からの使者が、また今日来る」
食卓の端で、父・雷怕が低い声で告げた。
その言葉に、一瞬、場が引き締まる。
「もう対応の準備は済んでいるのか?」
烈英が眉を寄せながら問いかけると、雷怕はゆっくりと湯呑みを置いた。
「すでに役人たちには伝えてあるが、今回は王都からの正式な文書を持ってくるとのことだ。余計な混乱が起こらぬよう、早めに向かう」
「そうか……なら、私も警備の配置を見直しておく」
烈英が真剣な表情で頷く。
彼は藍都の防衛を担う要職についており、王都からの使者が来るとなれば、その警備も厳重にしなければならない。
「早めに行くぞ、父上。私も警備のために準備があるので、途中まで一緒に向かおう」
「うむ、それがいい」
雷怕は短く頷き、再び粥に手をつける。
静かに進む食事の時間の中で、凌の様子がどこか落ち着かないように見えた。
玲華は、その横顔をちらりと盗み見る。
何か話したいけれど、言葉が出てこない。
その間にも、凌はいつもより早く箸を置き、そっと茶を飲み干した。
「ごちそうさま」
短くそう言うと、彼はすっと立ち上がる。
玲華は、その背を見送った後、すぐに立ち上がる。
――今日こそは、絶対に話す。
給仕たちが食器を片付ける音、兄や姉たちの足音。
けれど、そんなものは今の玲華の耳には入らなかった。
食堂を出たところで、ちょうど凌の姿が目に入る。
迷わず、その腕を掴んだ。
「凌!」
驚いたように振り向く凌の手をしっかりと握る。
思わず逃げようとするその動きを逃さず、そのまま引っ張った。
「ちょっ……!」
抵抗しようとする凌の力を振り切り、自室へと連れて行く。
(ここからは、もう逃がさない)
戸を閉め、二人きりになった部屋。
しんとした静寂が降りる。
窓から差し込む朝の光が、部屋の床に長い影を落としていた。
玲華は、真正面から凌と向き合った。
深く息を吸い込む。
「……何で避けてるの?」
玲華の声が、静かな部屋に響いた。
凌は小さく肩を揺らし、視線を落としたまま答えない。
「私、何かした?」
玲華はさらに一歩近づく。
すると、凌は僅かに眉を寄せた。
「別に。何もしてない」
その言葉は、ひどく乾いていた。
「何もしてないなら、何で避けるのよ!」
玲華の声が大きくなる。
その瞬間、凌の肩が跳ねた。
「避けてるつもりは……」
「避けてるっ!!」
声を荒げると、凌はぎゅっと拳を握る。
それを見て、玲華の胸に張り詰めた感情がさらに膨らんだ。
抑えきれず、声が荒くなる。
その瞬間、凌の肩がわずかに揺れた。
朝の光に照らされた彼の横顔が、一層沈んで見える。
凌はゆっくりと息を吸い込み、そして、ぽつりと吐き出した。
「玲華が悪いんじゃない。私が悪いんだ」
玲華は、反射的に言葉をのみ込む。
胸の奥が、ざわりとざわめいた。
「……どういうこと?」
小さく問い返すと、凌は静かに続けた。
「玲華のことが……うらやましくて」
「え……?」
意外な言葉に、玲華は少し目を見開いた。
凌は、どこか遠いものを見るように壁を見つめていた。
朝の光が薄く差し込む部屋の中、彼の横顔には淡い影が落ちている。
その瞳はどこか虚ろで、焦点が合っていないように見えた。
「私は、こうだろ」
ぽつりと呟くように言いながら、凌は自嘲するように笑った。
だが、その笑みはどこか歪んでいて、決して楽しげなものではない。
「男なのに、武術の才がない」
そう言うと、彼の細い指が無意識に膝の上で握られる。
爪が皮膚に食い込むほど強く、けれど、それでも抑えきれない感情が内側から滲み出しているようだった。
玲華は、じっとその様子を見つめた。
そして、静かに口を開く。
「でも、凌は私が持ってないものを持ってるじゃない」
優しく言ったつもりだった。
だが、凌の肩がぴくりと震える。
「……何を?」
かすれた声が漏れた。
「手先が器用で、字も達筆だし、頭もいい。政治や兵法だって得意じゃない」
玲華は、一歩前に出る。
けれど、凌はわずかに顔を背けるように目を伏せた。
「でも……男としては駄目なんだ」
その言葉には、どこか滲むような悲しみがあった。
まるで、自分で自分を否定し続けるような、深い苦しみ。
「戦えないと、駄目なんだよ」
壁を見つめる瞳が、かすかに揺れる。
肩が少しだけ落ち、凌の指がゆっくりと緩んでいく。
だけど、それは決して安堵ではなく、ただ力が抜けてしまっただけのように見えた。
玲華の眉がひそまる。
「そんなこと言うなら、私だって……!」
琴も刺繍も苦手だ。
作法だって、周りの姉たちのように優雅にはできない。
女性らしく振る舞うことも、正直、得意ではない。
思わず言いかけたその言葉。
けれど、凌の声がそれを遮った。
「だから、ごめん」
凌の声は、驚くほど静かだった。
「だから……ごめん」
凌の声は、驚くほど静かだった。
「これは……私の心の問題なんだ」
張り詰めた空気の中で、玲華は息をするのを忘れそうになった。
窓の外から、微かに風の音が聞こえる。
凌の瞳はどこか遠くを見ていて、まるで何かを押し込めるように曇っていた。
しんとした沈黙が流れ、窓の外から風の音が微かに聞こえた。
凌の瞳は、まるで何かを押し込めるように曇っている。
その表情を見て、玲華の胸がぎゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。
「凌……」
玲華が手を伸ばしかけたその瞬間、凌は、ほんのわずかに、けれどはっきりと身を引いた。
「……っ!」
玲華の胸の奥が、ぐしゃりと音を立てた気がした。
拳がぎゅっと固く握られる。
「そんなの……納得できるわけないでしょ!!」
玲華の声が震え、抑えていた感情が一気に溢れた。
「どうしてそんな顔するの!? どうして、そんなふうに言うの……」
涙がこみ上げるのを必死に堪えながら、拳をぎゅっと握る。
だが、凌は答えなかった。ただ、静かに目を伏せるだけだった。
これ以上、言葉を交わしても無駄だ。
そう悟った瞬間、玲華は勢いよく戸を開け、部屋を飛び出した。