「凌、話があるんだけど……」
静かな食堂に、箸の音が止まる。
湯気の立つ粥の香りが漂い、窓の外からは朝の静寂を破るように鳥のさえずりが響いていた。
凌は手を止め、一瞬だけ目を伏せる。
淡い光が彼の睫毛に影を落とし、その沈黙が玲華の胸に小さな波紋を広げた。
玲華は、彼が何を考えているのかを探ろうとした。
けれど、その表情は変わらない。
やがて、凌は静かに箸を置き、軽く首を振った。
「ごめん、今日は天啓学堂に行くから」
玲華の心の奥がひやりと冷えた。
いつも通りのことなのに、今日は違う。
そう思ってしまうのは、自分の心が揺れているせいなのか。
それでも、もう一歩だけ踏み込んでみたかった。
「ちょっとだけ、いい?」
そう言いかけたが、凌はすぐに軽く首を振る。
「悪いけど、そろそろ行かないと遅れる」
その言葉に、玲華の胸の奥がきゅっと縮こまる。
今、少しだけでいいから話したかったのに、その機会すらないのか。
そんな思いが、一瞬だけ喉元に絡みつく。
「……そっか」
玲華は、わずかに唇を噛んだ。
それでも、無理に引き止めることはしなかった。
「……無理はするなよ」
ふいに、向かいに座る兄の紅景雅が声をかけた。
温かな茶碗を手にしながら、ゆるく眉を寄せる。
「最近、少し疲れてるように見えるからな」
その言葉に、他の家族も視線を凌に向ける。
父の紅雷怕は黙って茶を啜っていたが、無言のまま鋭い眼差しを凌へ向けていた。
母の紅華桜は、手元の湯呑を置きながら、柔らかく微笑んだ。
「無理をしても、いいことはないわ」
凌は一瞬だけ目を伏せ、それから軽く頷いた。
「大丈夫。心配しないで」
そう言って、再び箸を取る。
玲華は、その仕草をじっと見つめていた。
仕方がない。
そう自分に言い聞かせながら、玲華も箸を置いた。
朝食の味も、喉を通る温かさも、今日は何も感じない。
ならば、今日はとことん普通に過ごそう。
そう思い直し、玲華も準備をして白蓮書院へと向かった。
◆ ◆ ◆
教室には、朝の光が窓から差し込み、机に長い影を落としていた。
窓枠に頬杖をつきながら、玲華はぼんやりと教師の話を聞き流す。
墨の匂いが微かに漂う教室の中、彼女の意識はどこか上の空だった。
(……凌、何か隠してる?)
今朝のやり取りが頭から離れない。
いつもと同じように見えた凌の態度。
でも、どこか違う気がする。
以前なら、もう少し話を聞いてくれたのに。
ふと、教室の隅で小さく話す声が聞こえてきた。
「ねえ、聞いた? 王都から領主のところに使者が来てたんだって」
「知ってる! しかも、すっごくかっこよかったらしいよ!」
玲華は、ぼんやりと耳を傾ける。
(王都から使者……?)
この街、藍都は王都から遠く、貴族の影すら薄い辺境の地。
そんな場所に、わざわざ王都から使者が派遣されるなんて、何かあったのだろうか。
「へぇ、王都から使者かぁ。珍しいな……。こんな辺鄙なところに、何の用だろう?」
玲華は、小さく呟く。
けれど、それを深く考える余裕はなかった。
だが、その違和感だけが心に残り、じわじわと広がっていくようだった。
授業はまだ続いているはずなのに、玲華の意識は窓の外へと向かっていた。
揺れる木々の葉音や、遠くで響く馬車の音が妙に気にかかる。
心の奥にくすぶる落ち着かなさが、じわじわと広がっていく。
机に視線を落とすと、指先が無意識に袖を握っていた。
このままじっと座っていても、気持ちは晴れない。
むしろ、時間が経つほどに焦燥感が募るばかりだった。
授業が終わるのを待てず、玲華は昼前には白蓮書院を抜け出し、徐慧の元へ向かった。
草木の香りが風に乗って流れ、太陽の光が地面を暖かく照らしている。
そこには、いつものように佇む徐慧の姿があった。
「さて、今日もやるか」
徐慧は、いつものように気だるげに言った。
玲華は無言で頷き、木剣を構える。
鍛錬はいつも通りだった。
何度も打ち合い、倒され、転がされ、それでも立ち上がる。
冷えた汗が背中を伝い、呼吸が荒れるたびに、全身が熱を帯びていく。
だが、玲華は今日だけは、どこか落ち着かない気持ちを抱えていた。
(なんでだろう……いつもと同じはずなのに)
そんな違和感が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
剣を振るたびに、いつもの鍛錬と変わらないはずの感覚が、妙に遠ざかるような気がした。
集中しようとするほど、心が逸れていく。
それでも、目の前の徐慧は何も変わらない。
鋭い動き、的確な指摘、すべてが今まで通りの稽古のはずだった。
それなのに、玲華の手のひらには、じっとりと汗が滲んでいた。
最後の一撃を交えた瞬間、徐慧が木剣を引いた。
「……今日のところは、ここまでだな」
玲華は肩で息をしながら、少しでもこの時間を引き延ばしたいという思いを押し殺し、木剣を下ろした。
徐慧は、しばらく無言で玲華を見つめ、それから深い息をついた。
「……玲華」
その声に、玲華の心臓が跳ねる。
「大事な話がある」
まさか、と思った。
「……なに?」
「ここを離れることになった」
玲華の頭の中が真っ白になった。
「……なんで?」
声が震えていた。
徐慧は静かに、だがはっきりと答えた。
「もともと、長居するつもりはなかった。お前に会ったから、今までいたんだ。でも、もう行かないといけない」
「――嫌だ!!」
玲華は叫んだ。
「なんで!? なんで行っちゃうの!? もっと教えてほしいことがある! もっと……」
「玲華」
その一言に、玲華の言葉が詰まる。
徐慧の目は、いつもと変わらぬ優しさを宿しながらも、どこか寂しげだった。
「……玲華、お前は俺がいなくても、もう立っていられるさ」
徐慧はふっと口角を上げ、玲華の肩を軽く叩いた。
その手には、これまでの厳しい鍛錬とは違う、どこか温かさを感じる重みがあった。
「俺の教えたこと、全部、お前の中に残ってるだろ?」
そう言いながら、彼は玲華の手をそっと取り、ゆっくりと拳を握らせる。
「ここにな」
玲華は、無意識のうちにその拳をぎゅっと握りしめた。
指先に、これまでの鍛錬の感触がじわりと蘇る。
何度も倒れ、何度も立ち上がった日々。
打ち込んだ一撃の重み、流した汗の熱、師匠の厳しくも優しい言葉の数々。
すべてが、確かに自分の中に刻まれているのを感じた。
「……でも、まだ……」
かすれた声が漏れる。
拳を握っても、心の奥の寂しさは消えなかった。
それを見透かしたように、徐慧はほんの少しだけ目を細め、いつものように飄々とした笑みを浮かべる。
「大丈夫だ、お前は強い」
そう言うと、彼は玲華の頭をぽん、と優しく撫でた。
「俺が教えたことを毎日続けろ。それがお前の力になる」
「……でも」
玲華は拳を握る。
「嫌だよ……」
風がそよぎ、草が揺れる。
玲華の頬に落ちた涙が、地面に染み込んでいく。
「……いつ?」
それでも、希望を捨てきれずに問う。
「明日の明け方だ」
「早すぎる……」
玲華の声が震え、涙が溢れた。
「すまんな」
徐慧は玲華の頭に手を置いた。
「お前は、俺の大事な教え子だ」
優しい手のひらの温もりが、玲華の頭を撫でた。