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第10話 風が変わるとき

「凌、話があるんだけど……」

 静かな食堂に、箸の音が止まる。

 湯気の立つ粥の香りが漂い、窓の外からは朝の静寂を破るように鳥のさえずりが響いていた。

 凌は手を止め、一瞬だけ目を伏せる。

 淡い光が彼の睫毛に影を落とし、その沈黙が玲華の胸に小さな波紋を広げた。

 玲華は、彼が何を考えているのかを探ろうとした。

 けれど、その表情は変わらない。

 やがて、凌は静かに箸を置き、軽く首を振った。

「ごめん、今日は天啓学堂に行くから」

 玲華の心の奥がひやりと冷えた。

 いつも通りのことなのに、今日は違う。

 そう思ってしまうのは、自分の心が揺れているせいなのか。

 それでも、もう一歩だけ踏み込んでみたかった。

「ちょっとだけ、いい?」

 そう言いかけたが、凌はすぐに軽く首を振る。

「悪いけど、そろそろ行かないと遅れる」

 その言葉に、玲華の胸の奥がきゅっと縮こまる。

 今、少しだけでいいから話したかったのに、その機会すらないのか。

 そんな思いが、一瞬だけ喉元に絡みつく。

「……そっか」

 玲華は、わずかに唇を噛んだ。

 それでも、無理に引き止めることはしなかった。

「……無理はするなよ」

 ふいに、向かいに座る兄の紅景雅が声をかけた。

 温かな茶碗を手にしながら、ゆるく眉を寄せる。

「最近、少し疲れてるように見えるからな」

 その言葉に、他の家族も視線を凌に向ける。

 父の紅雷怕は黙って茶を啜っていたが、無言のまま鋭い眼差しを凌へ向けていた。

 母の紅華桜は、手元の湯呑を置きながら、柔らかく微笑んだ。

「無理をしても、いいことはないわ」

 凌は一瞬だけ目を伏せ、それから軽く頷いた。

「大丈夫。心配しないで」

 そう言って、再び箸を取る。

 玲華は、その仕草をじっと見つめていた。

 仕方がない。

 そう自分に言い聞かせながら、玲華も箸を置いた。

 朝食の味も、喉を通る温かさも、今日は何も感じない。

 ならば、今日はとことん普通に過ごそう。

 そう思い直し、玲華も準備をして白蓮書院へと向かった。


◆    ◆    ◆


 教室には、朝の光が窓から差し込み、机に長い影を落としていた。

 窓枠に頬杖をつきながら、玲華はぼんやりと教師の話を聞き流す。

 墨の匂いが微かに漂う教室の中、彼女の意識はどこか上の空だった。

(……凌、何か隠してる?)

 今朝のやり取りが頭から離れない。

 いつもと同じように見えた凌の態度。

 でも、どこか違う気がする。

 以前なら、もう少し話を聞いてくれたのに。

 ふと、教室の隅で小さく話す声が聞こえてきた。

「ねえ、聞いた? 王都から領主のところに使者が来てたんだって」

「知ってる! しかも、すっごくかっこよかったらしいよ!」

 玲華は、ぼんやりと耳を傾ける。

(王都から使者……?)

 この街、藍都は王都から遠く、貴族の影すら薄い辺境の地。

 そんな場所に、わざわざ王都から使者が派遣されるなんて、何かあったのだろうか。

「へぇ、王都から使者かぁ。珍しいな……。こんな辺鄙なところに、何の用だろう?」

 玲華は、小さく呟く。

 けれど、それを深く考える余裕はなかった。

 だが、その違和感だけが心に残り、じわじわと広がっていくようだった。

 授業はまだ続いているはずなのに、玲華の意識は窓の外へと向かっていた。

 揺れる木々の葉音や、遠くで響く馬車の音が妙に気にかかる。

 心の奥にくすぶる落ち着かなさが、じわじわと広がっていく。

 机に視線を落とすと、指先が無意識に袖を握っていた。

 このままじっと座っていても、気持ちは晴れない。

 むしろ、時間が経つほどに焦燥感が募るばかりだった。

 授業が終わるのを待てず、玲華は昼前には白蓮書院を抜け出し、徐慧の元へ向かった。

 草木の香りが風に乗って流れ、太陽の光が地面を暖かく照らしている。

 そこには、いつものように佇む徐慧の姿があった。

「さて、今日もやるか」

 徐慧は、いつものように気だるげに言った。

 玲華は無言で頷き、木剣を構える。

 鍛錬はいつも通りだった。

 何度も打ち合い、倒され、転がされ、それでも立ち上がる。

 冷えた汗が背中を伝い、呼吸が荒れるたびに、全身が熱を帯びていく。

 だが、玲華は今日だけは、どこか落ち着かない気持ちを抱えていた。

(なんでだろう……いつもと同じはずなのに)

 そんな違和感が、胸の奥でじわじわと広がっていく。

 剣を振るたびに、いつもの鍛錬と変わらないはずの感覚が、妙に遠ざかるような気がした。

 集中しようとするほど、心が逸れていく。

 それでも、目の前の徐慧は何も変わらない。

 鋭い動き、的確な指摘、すべてが今まで通りの稽古のはずだった。

 それなのに、玲華の手のひらには、じっとりと汗が滲んでいた。

 最後の一撃を交えた瞬間、徐慧が木剣を引いた。

「……今日のところは、ここまでだな」

 玲華は肩で息をしながら、少しでもこの時間を引き延ばしたいという思いを押し殺し、木剣を下ろした。

 徐慧は、しばらく無言で玲華を見つめ、それから深い息をついた。

「……玲華」

 その声に、玲華の心臓が跳ねる。

「大事な話がある」

 まさか、と思った。

「……なに?」

「ここを離れることになった」

 玲華の頭の中が真っ白になった。

「……なんで?」

 声が震えていた。

 徐慧は静かに、だがはっきりと答えた。

「もともと、長居するつもりはなかった。お前に会ったから、今までいたんだ。でも、もう行かないといけない」

「――嫌だ!!」

 玲華は叫んだ。

「なんで!? なんで行っちゃうの!? もっと教えてほしいことがある! もっと……」

「玲華」

 その一言に、玲華の言葉が詰まる。

 徐慧の目は、いつもと変わらぬ優しさを宿しながらも、どこか寂しげだった。

「……玲華、お前は俺がいなくても、もう立っていられるさ」

 徐慧はふっと口角を上げ、玲華の肩を軽く叩いた。

 その手には、これまでの厳しい鍛錬とは違う、どこか温かさを感じる重みがあった。

「俺の教えたこと、全部、お前の中に残ってるだろ?」

 そう言いながら、彼は玲華の手をそっと取り、ゆっくりと拳を握らせる。

「ここにな」

 玲華は、無意識のうちにその拳をぎゅっと握りしめた。

 指先に、これまでの鍛錬の感触がじわりと蘇る。

 何度も倒れ、何度も立ち上がった日々。

 打ち込んだ一撃の重み、流した汗の熱、師匠の厳しくも優しい言葉の数々。

 すべてが、確かに自分の中に刻まれているのを感じた。

「……でも、まだ……」

 かすれた声が漏れる。

 拳を握っても、心の奥の寂しさは消えなかった。

 それを見透かしたように、徐慧はほんの少しだけ目を細め、いつものように飄々とした笑みを浮かべる。

「大丈夫だ、お前は強い」

 そう言うと、彼は玲華の頭をぽん、と優しく撫でた。

「俺が教えたことを毎日続けろ。それがお前の力になる」

「……でも」

 玲華は拳を握る。

「嫌だよ……」

 風がそよぎ、草が揺れる。

 玲華の頬に落ちた涙が、地面に染み込んでいく。

「……いつ?」

 それでも、希望を捨てきれずに問う。

「明日の明け方だ」

「早すぎる……」

 玲華の声が震え、涙が溢れた。

「すまんな」

 徐慧は玲華の頭に手を置いた。

「お前は、俺の大事な教え子だ」

 優しい手のひらの温もりが、玲華の頭を撫でた。

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