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第9話 湯の波紋、心の揺らぎ

 食後の余韻を残しつつ、玲華は湯あみへ向かうため、屋敷の長い廊下を歩いていた。

 柱の影が月明かりにぼんやりと浮かび、障子越しに入り込む冷たい夜風が、肌を撫でる。

 足音を殺すように進むたび、静寂の中に自分の鼓動だけが響くような気がした。

 遠くの部屋から微かに聞こえてくる家族の話し声も、次第に遠ざかっていく。

 景雅との戦いで得た疲労と緊張が、まだ指先に残っている。

 それを感じながら、玲華は廊下を抜け、湯あみの支度が整えられた浴室へと向かった。

 襖を開けると、湯気がふわりと漂い、微かに香草の香りが混じっている。

 灯りがぼんやりと湯気に揺れ、静かな温もりが辺りを包んでいた。

 湯桶に手を入れると、じんわりと温もりが広がり、硬くなっていた指先がほぐれていくのを感じた。

(ああ、気持ちいい……)

 湯の中に身を沈めると、全身の緊張が一気に解ける。

「ふぁぁ……」

 温かな水が肌を包み、心地よい浮遊感が玲華の身体を優しく支えた。

 ふと、湯の表面を指先でなぞると、波紋が静かに広がる。

 その揺らぎをぼんやりと眺めていると、不思議と心も緩んでいく気がした。

 いつの間にか、思考は自然と今日の出来事へと向かう。

(……師匠)

 徐慧との戦闘。

 思い返すだけで、ぞくりとする。

 彼の剣は、決して無駄がなく、遊びのない刃だった。

 まるで流れる水のように形を変えながら、的確に相手を捉え続ける。

 隙を見せた瞬間、斬られる――たとえそれが木剣でも、一瞬の油断が敗北につながるのを思い知らされた戦いだった。

(本当に……怖かった)

 湯の中で無意識に指を握ると、剣を交えたときの感覚が蘇る。

 だが、それと同時に、あの戦いの中で新しい感覚を掴んだ気もする。

 ただがむしゃらに剣を振るうだけでは、決して勝てない。

 戦いとは、己を知り、相手を知り、その上で先を読んで動くこと。

(……少しは、強くなれたのかな)

 湯に浮かびながら、自分の掌を見つめる。

 この手は、まだ師匠には届かない。

 けれど、今日の景雅との戦いでは、勝てた。

(……ギリギリだったけど)

 景雅の剣もまた、正確無比だった。

 まるで鋭い刃のように、どこまでも研ぎ澄まされた剣筋。

 力任せではなく、冷静さと正確さで相手を追い詰める剣。

(でも……私は、兄上の剣をかわして、一太刀入れた)

 それを思うと、じんわりとした誇らしさが胸を満たす。

 けれど、その勝利を見届けた人物がいた。

(……凌)

 玲華は、そっと湯の中で腕を伸ばし、手のひらをじっと見つめた。

 湯の表面に滴が落ち、細かい波紋が広がる。

 その波紋はやがて、ゆっくりと消えていく。

 けれど、自分の胸のざわめきは、静まることがなかった。

 彼は、どんな気持ちであの勝負を見ていたのだろう?

 剣を交えた直後に見た、凌の表情。

 それは、ほんの一瞬だった。

 目が合った瞬間、凌はすぐに視線を逸らした。

 だが、その前に――彼の瞳がわずかに揺らいだのを、玲華は確かに見た。

 それは、まるで見透かされることを恐れるかのような、曖昧な揺らぎだった。

 その一瞬、彼の視線がほんのわずかに伏せられたのを、玲華は確かに見た。

(凌……何を考えていたの?)

 ほんのわずかな違い――それでも、玲華には確信があった。

(私が強くなったことが、凌にとって何か意味を持つの?それとも……)

 言葉にならない疑問が胸に渦巻く。

 そう考えた瞬間、胸の奥がざわりと波立つ。

 双子だからこそ、分かることがある。

 どんなに表情を取り繕っても、微細な変化を感じ取ることができる。

 凌は、確実に何かを思っていた。

(……ちゃんと話してくれるかな)

 小さく溜息をつき、玲華は湯から上がることにした。

 桶の湯をすくい、肩にかけると、熱が肌に馴染んでいく。

 水が肌を伝う感触に、一瞬だけ意識が現実に引き戻される。

 軽く髪を拭いながら、風呂場を後にした。

 湯から上がると、肌に残った熱がじわじわと広がり、頬がほてる。

 手ぬぐいで髪を包みながら、湯あみ場に備え付けられた水桶に手を伸ばし、冷たい水をすくう。

 掌に広がる冷たさに、わずかに息をつめる。

(……さっきまで、ずいぶん真剣な顔してたな)

 ひと呼吸置いて、そっと水を頬に当てると、じわじわと火照りが引いていく。

 それでも、心の中の靄は晴れない。

 玲華は、手ぬぐいを肩に掛けたまま、凌の部屋へと向かった。

 扉の前に立ち、静かにノックをする。

「凌……起きてる?」

 扉越しに呼びかけるが、返事はない。

 中の気配を探ろうと耳を澄ませるが、何も聞こえない。

 ほんの少しだけ、扉に手を添えた。

 それだけで、微かに木の冷たさが指先に伝わる。

 それはまるで、凌との距離が、手を伸ばしても届かないものであるかのようだった。

(寝てるのかな……? それとも、部屋にいない?)

 なぜか、心がざわつく。

 どうするべきか、一瞬迷う。

 このまま戸を開けるのは、さすがに気が引けた。

 けれど、胸の奥の引っかかりは消えない。

(……今は起こすのも悪いし、また明日でいいか)

 玲華は、小さく溜息をついた。

 名残惜しさを振り払うように踵を返し、静かに自室へ戻る。

 部屋に戻ると、灯りを落とし、寝台へと潜り込んだ。

 ひんやりとした布団が肌に触れ、一瞬だけ身を縮める。

 やがて、温もりがじわじわと広がると、ようやく少しだけ気持ちが落ち着いてきた。

 目を閉じると、今日の出来事が脳裏に浮かぶ。

(今日は、いろいろあったな……)

 師匠との戦闘、景雅との決闘、家族との団欒、そして凌の視線。

 どれも大切な時間だった。

 だが、一番気にかかるのは、やはり凌のことだった。

(私は、何か見落としてる……?)

 胸の奥で、小さな違和感がくすぶり続ける。

 ただの心配ではない。

 双子だからこそ、玲華には分かった。

 凌の中に、言葉にできない何かがある。

 それを、玲華は見落としているのではないか。

(……明日、起きたら聞いてみよう)

 そう決めたものの、胸のざわつきは消えない。

 遠くで風が木々を揺らす音が微かに響く。

 障子の向こうから、月の光がぼんやりと差し込んでいた。

(ちゃんと話してくれるかな……でも、もし話してくれなかったら?)

 玲華は、小さく拳を握る。

(それでも、私は聞く。凌が何を思っているのか、確かめたいから)

 そう思いながら、静かに目を閉じた。

 今は、ただ眠りに身を委ねるしかない。

 夜は静かに更けていく。



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