食後の余韻を残しつつ、玲華は湯あみへ向かうため、屋敷の長い廊下を歩いていた。
柱の影が月明かりにぼんやりと浮かび、障子越しに入り込む冷たい夜風が、肌を撫でる。
足音を殺すように進むたび、静寂の中に自分の鼓動だけが響くような気がした。
遠くの部屋から微かに聞こえてくる家族の話し声も、次第に遠ざかっていく。
景雅との戦いで得た疲労と緊張が、まだ指先に残っている。
それを感じながら、玲華は廊下を抜け、湯あみの支度が整えられた浴室へと向かった。
襖を開けると、湯気がふわりと漂い、微かに香草の香りが混じっている。
灯りがぼんやりと湯気に揺れ、静かな温もりが辺りを包んでいた。
湯桶に手を入れると、じんわりと温もりが広がり、硬くなっていた指先がほぐれていくのを感じた。
(ああ、気持ちいい……)
湯の中に身を沈めると、全身の緊張が一気に解ける。
「ふぁぁ……」
温かな水が肌を包み、心地よい浮遊感が玲華の身体を優しく支えた。
ふと、湯の表面を指先でなぞると、波紋が静かに広がる。
その揺らぎをぼんやりと眺めていると、不思議と心も緩んでいく気がした。
いつの間にか、思考は自然と今日の出来事へと向かう。
(……師匠)
徐慧との戦闘。
思い返すだけで、ぞくりとする。
彼の剣は、決して無駄がなく、遊びのない刃だった。
まるで流れる水のように形を変えながら、的確に相手を捉え続ける。
隙を見せた瞬間、斬られる――たとえそれが木剣でも、一瞬の油断が敗北につながるのを思い知らされた戦いだった。
(本当に……怖かった)
湯の中で無意識に指を握ると、剣を交えたときの感覚が蘇る。
だが、それと同時に、あの戦いの中で新しい感覚を掴んだ気もする。
ただがむしゃらに剣を振るうだけでは、決して勝てない。
戦いとは、己を知り、相手を知り、その上で先を読んで動くこと。
(……少しは、強くなれたのかな)
湯に浮かびながら、自分の掌を見つめる。
この手は、まだ師匠には届かない。
けれど、今日の景雅との戦いでは、勝てた。
(……ギリギリだったけど)
景雅の剣もまた、正確無比だった。
まるで鋭い刃のように、どこまでも研ぎ澄まされた剣筋。
力任せではなく、冷静さと正確さで相手を追い詰める剣。
(でも……私は、兄上の剣をかわして、一太刀入れた)
それを思うと、じんわりとした誇らしさが胸を満たす。
けれど、その勝利を見届けた人物がいた。
(……凌)
玲華は、そっと湯の中で腕を伸ばし、手のひらをじっと見つめた。
湯の表面に滴が落ち、細かい波紋が広がる。
その波紋はやがて、ゆっくりと消えていく。
けれど、自分の胸のざわめきは、静まることがなかった。
彼は、どんな気持ちであの勝負を見ていたのだろう?
剣を交えた直後に見た、凌の表情。
それは、ほんの一瞬だった。
目が合った瞬間、凌はすぐに視線を逸らした。
だが、その前に――彼の瞳がわずかに揺らいだのを、玲華は確かに見た。
それは、まるで見透かされることを恐れるかのような、曖昧な揺らぎだった。
その一瞬、彼の視線がほんのわずかに伏せられたのを、玲華は確かに見た。
(凌……何を考えていたの?)
ほんのわずかな違い――それでも、玲華には確信があった。
(私が強くなったことが、凌にとって何か意味を持つの?それとも……)
言葉にならない疑問が胸に渦巻く。
そう考えた瞬間、胸の奥がざわりと波立つ。
双子だからこそ、分かることがある。
どんなに表情を取り繕っても、微細な変化を感じ取ることができる。
凌は、確実に何かを思っていた。
(……ちゃんと話してくれるかな)
小さく溜息をつき、玲華は湯から上がることにした。
桶の湯をすくい、肩にかけると、熱が肌に馴染んでいく。
水が肌を伝う感触に、一瞬だけ意識が現実に引き戻される。
軽く髪を拭いながら、風呂場を後にした。
湯から上がると、肌に残った熱がじわじわと広がり、頬がほてる。
手ぬぐいで髪を包みながら、湯あみ場に備え付けられた水桶に手を伸ばし、冷たい水をすくう。
掌に広がる冷たさに、わずかに息をつめる。
(……さっきまで、ずいぶん真剣な顔してたな)
ひと呼吸置いて、そっと水を頬に当てると、じわじわと火照りが引いていく。
それでも、心の中の靄は晴れない。
玲華は、手ぬぐいを肩に掛けたまま、凌の部屋へと向かった。
扉の前に立ち、静かにノックをする。
「凌……起きてる?」
扉越しに呼びかけるが、返事はない。
中の気配を探ろうと耳を澄ませるが、何も聞こえない。
ほんの少しだけ、扉に手を添えた。
それだけで、微かに木の冷たさが指先に伝わる。
それはまるで、凌との距離が、手を伸ばしても届かないものであるかのようだった。
(寝てるのかな……? それとも、部屋にいない?)
なぜか、心がざわつく。
どうするべきか、一瞬迷う。
このまま戸を開けるのは、さすがに気が引けた。
けれど、胸の奥の引っかかりは消えない。
(……今は起こすのも悪いし、また明日でいいか)
玲華は、小さく溜息をついた。
名残惜しさを振り払うように踵を返し、静かに自室へ戻る。
部屋に戻ると、灯りを落とし、寝台へと潜り込んだ。
ひんやりとした布団が肌に触れ、一瞬だけ身を縮める。
やがて、温もりがじわじわと広がると、ようやく少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
目を閉じると、今日の出来事が脳裏に浮かぶ。
(今日は、いろいろあったな……)
師匠との戦闘、景雅との決闘、家族との団欒、そして凌の視線。
どれも大切な時間だった。
だが、一番気にかかるのは、やはり凌のことだった。
(私は、何か見落としてる……?)
胸の奥で、小さな違和感がくすぶり続ける。
ただの心配ではない。
双子だからこそ、玲華には分かった。
凌の中に、言葉にできない何かがある。
それを、玲華は見落としているのではないか。
(……明日、起きたら聞いてみよう)
そう決めたものの、胸のざわつきは消えない。
遠くで風が木々を揺らす音が微かに響く。
障子の向こうから、月の光がぼんやりと差し込んでいた。
(ちゃんと話してくれるかな……でも、もし話してくれなかったら?)
玲華は、小さく拳を握る。
(それでも、私は聞く。凌が何を思っているのか、確かめたいから)
そう思いながら、静かに目を閉じた。
今は、ただ眠りに身を委ねるしかない。
夜は静かに更けていく。