修行を終え、玲華は静かに家へ戻った。
夜の冷えた空気が肌を撫で、木々の隙間から薄雲に霞む月が顔を覗かせる。
庭の敷石にはぼんやりとした月明かりが落ち、風に揺れる影が広がっていた。
遠くからは、虫の音と夜鳥の鳴き声が微かに響く。
そのまま屋敷へ入り、家族の待つ食卓へ向かう。
部屋の奥では、すでに夕飯の支度が整っていた。
湯気の立つ料理の香ばしい香りが漂い、心なしか身体がほっと緩む。
「玲華、遅かったな」
長兄・烈英が、食卓の上座で微笑む。
彼の前には豪快に盛られた肉料理があり、すでに箸をつけていた。
「ただいま」
玲華は少し照れくさそうに言いながら席につく。
その隣には、双子の兄・凌の姿もあった。
「おかえり、玲華」
凌は玲華を見るなり、小さく微笑んだ。
彼の前には控えめに盛られた料理が並んでいる。
普段あまり食が進まない凌だが、今日は少し手をつけているようだった。
「今日はお前の好きなものばかり作ったのよ」
母・華桜が優しく言いながら、玲華の器に魚の煮付けを取り分けてくれる。
食卓には山菜の和え物、蒸した包子など、玲華の好物が並んでいた。
「わぁ……!」
玲華は目を輝かせる。
「ほら、冷めないうちに食べなさい」
母が微笑みながら勧めると、玲華は「いただきます!」と元気よく箸を取った。
「最近、帰りが遅いことが多いが、何をしているんだ?」
烈英がふと尋ねる。
「う、うーん……ちょっと色々ね」
玲華は言葉を濁しながら、器に盛られた包子に箸を伸ばす。
剣の修行のことは隠しているため、どう答えるべきか迷う。
「色々?」
三兄・凱が眉をひそめる。
「まさか、またどこかで悪戯でもしているんじゃないだろうな?」
「そんなことしないよ!」
玲華は慌てて否定する。
「じゃあ、何をしてるの?」
長姉・風華がにこやかに尋ねる。
「うーん……ちょっと街を歩いてただけ!」
玲華は笑顔で誤魔化す。
「街? あまり夜に出歩くのはよくないぞ」
父・雷怕が低い声で言う。
「うん、気をつける……」
玲華はこくりと頷いた。
その隣で凌がちらりと玲華を見つめる。
玲華が何かを隠していることに気づいているのか、彼の表情には僅かな不安が滲んでいた。
「まぁ、ほどほどにな」
烈英はそれ以上は追及せず、食事を続ける。
「玲華は相変わらずよく食べるな」
次姉・絢華が微笑ましげに言う。
「だって美味しいんだもん!」
玲華は頬張りながら答える。
「食べるのはいいけど、もう少し行儀よくな」
景雅が静かに言いながら、自分の器をゆっくりと箸でつつく。
「はいはい……」
玲華は口を膨らませるが、どこか楽しそうだった。
「ふふっ、玲華は本当に元気ね」
風華がくすくすと笑う。
「……ちゃんと食べてる?」
ふと、凌が静かに尋ねた。
「え?」
「最近、疲れてるように見えるから……」
凌の声音は、わずかに心配そうだった。
「だ、大丈夫だよ! それより、凌こそちゃんと食べてる?」
玲華は慌てて話題を逸らす。
「……うん。今日は美味しいから」
凌は静かに微笑みながら、包子を一口食べた。
「ほう、それは珍しいな。凌がしっかり食べてるなんて」
凱が冗談めかして言うと、凌は小さく肩をすくめた。
「こういう時もあるよ」
「それは良いことだ」
烈英が満足そうに頷く。
「でも、やっぱり玲華は単純だな。考えるより先に身体を動かす方が得意だろう?」
凱が笑いながら言うと、玲華は「失礼な!」と頬を膨らませる。
「そういうところがまた可愛いのよ」
絢華がくすくすと笑う。
「まぁ、玲華が元気ならいい」
凌が小さく呟く。
玲華は、一瞬だけその言葉に目を見開いた。
普段あまり感情を表に出さない凌が、珍しく安心したような声を出したからだ。
「……うん!」
玲華は笑顔で答え、包子を頬張った。
家族の声が飛び交う温かい食卓。
玲華にとって、それは何よりも心安らぐひとときだった。
食事を終え、玲華は自室へ戻ろうと廊下を歩く。
ふと、後ろから声がかかった。
「玲華」
静かだが、芯のある声。
振り返ると、そこには景雅が立っていた。
先ほどの食卓では、あまり話すことのなかった。
「……兄上?」
景雅は腕を組み、彼女をじっと見つめる。
そして、口を開いた。
「少し、付き合え」
彼の視線には、試すような色があった。
玲華は、無意識に背筋を伸ばす。
「……分かりました」
景雅は無言で歩き出し、玲華もそれに続く。
行き先は、屋敷の中庭。
そこは紅家の子どもたちが幼い頃から剣の稽古を積んできた場所だった。
庭の敷石が夜露に濡れ、月光を受けて鈍く光っている。
冷たい風が二人の間をすり抜けた。
「今日も稽古だったのか?」
景雅がゆっくりと尋ねる。
「……はい」
「なら、一つ勝負しよう」
玲華の心臓が跳ねる。
景雅は紅家の剣術において、最も正確で隙のない剣を持つ。
長兄のような圧倒的な威圧感はない。
だが、その剣はまるで静かに迫る刃のように、一度捕らえた獲物を確実に仕留めるものだった。
「な、何の勝負……?」
「もちろん、剣だ」
景雅は無言で傍の武器棚から木剣を二本取り、一つを玲華へと投げる。
ヒュッ!
玲華は反射的にそれを掴んだ。
指先がしっかりと木剣の柄を握った瞬間、息を飲む。
(兄上と剣を交えるなんて……)
数年前なら、まるで勝負にならなかった相手。
だが、今の自分なら――。
「お前の成長、確かめてやる」
景雅の静かな声に、鋭い気配が滲む。
庭の一角、二人は向かい合う。
夜の闇が空を包み、冷たい風が肌を撫でる。
木々の間を抜ける月明かりが、二人の影を長く伸ばしていた。
どこか遠くで、夜鳥が一声鳴いた。
「いくぞ」
景雅の足が静かに動く。
その動きは無駄なく、洗練されている。
一瞬の揺らぎもなく、剣と体が一体化しているようだった。
その気迫が、距離を取るはずの玲華の動きを僅かに鈍らせた。
(は、速い……!)
玲華はすぐさま後方へ跳び、間合いを取る。
だが、景雅の目が静かに鋭さを増す。
「ほう、反応が早くなったな」
景雅はわずかに目を細めた。
次の瞬間、空気が切り裂かれるような音とともに、地を蹴る音が響く。
シュンッ!!
鋭い一撃。
迷いのない、流れるような斬撃。
風圧が頬を掠め、喉元に突き刺さるような緊張感が走る。
(速すぎる――でも、止まれない!)
反射的に体を捻る。
刃の気配が髪をかすめるのを感じた瞬間、背筋が凍りついた。
すれ違いざまに、木剣を振るう。
ヒュンッ!
しかし、景雅はわずかに身を沈め、それを回避。
すぐさま袈裟斬りを繰り出した。
「くっ……!」
玲華は剣を構え直し、景雅の攻撃を受け流す。
だが、その剣の重さに腕が痺れる。
(兄上の剣筋は正確……下手に受け続けると押し切られる!)
なら――
玲華は、一気に踏み込んだ。
「……!」
景雅の目がわずかに揺れる。
玲華は、修行で鍛えた速さを最大限に活かし、体を回転させるように剣を振るう。
「はっ!」
踏み込みと同時に、風刃を繰り出す!
風を斬るような速度で、玲華の剣が景雅へ向かう。
「甘い!」
しかし、景雅は一瞬の隙を見抜き、木剣を打ち下ろす。
(やばいっ!)
玲華は瞬時に重心をずらし、横へ回避。
そのまま、体を捻りながら剣を振るう。
ピタッ。
次の瞬間、玲華の木剣が景雅の肩に当たった。
「……!」
一瞬の沈黙。
景雅は静かに剣を下ろし、肩に触れる。
「……ギリギリ、だな」
玲華は息を切らしながら、木剣を握りしめた。
(勝った……!)
とはいえ、勝負は本当に紙一重だった。
景雅がわずかに動きを見誤ったからこそ、勝機をつかめた。
「お前……本当に強くなったな」
景雅は、ふっと笑った。
「もう、妹相手に手加減するのも難しくなってきたか」
その言葉に、玲華の胸が熱くなる。
(兄上が……認めてくれた?)
ふと、視線を感じる。
屋敷の陰に、小さな影があった。
玲華は目を細める。
――凌だ。
双子の兄が、こっそり物陰からこちらを見ていた。
勝負の一部始終を、静かに見守っていたのだ。
(凌……)
しかし、玲華と目が合った瞬間、凌は驚いたように身を引くと、
音もなくその場を去っていった。
「……」
玲華は、そっと拳を握る。
何かを思いながら。
「さて、もう遅い。母上に見つかる前に戻るぞ」
「……はい」
景雅と共に、玲華は屋敷へと戻っていく。
だが、凌の瞳に宿っていたどこか寂しげな光が玲華の胸をざわつかせた。