翌日。
目を覚ましても、都合よく元の世界に戻ることはなかった。
この細くて小さな指、柔らかい肌——どう見ても『レオノール』のままだ。
静かにため息をついたそのとき、扉を叩く控えめなノックの音が響いた。
返事をするとミリーたちが入ってきた。
「おはようございます」
「おはよう」
機械的に挨拶を返すと、メイドたちは心配そうにこちらを見つめた。
「お加減はどうですか?」
「うん、大丈夫。でもミリーたちのことはまだ思い出せなくて」
申し訳なさそうな素振りでそう答える。
というか『レオノール』の記憶もゲームでのキャラ設定も知らない以上、記憶喪失で押し通すしかない。
「いいのですよ。無理に思い出さなくても」
ニコッと微笑まれ、思わずホッとする。
「レオ様。先ほど、連絡がありまして、公爵様と奥様が今日の昼にはお戻りになるということです」
ふと、違和感を覚える。
子供が木から落ちたというのに親である公爵とその妻がまだ見舞いに来ていないことに気づく。
(普通、子供がケガをしたら真っ先に親が来るものだよな。テンパってって気づかんかったわ)
冷静に考えれば、真っ先に駆けつけてきてもいいはずだ。それなのに今になって帰ってくるということは―――。
(ひょっとして、『レオノール』って、あんまり大切にされてない……?)
胸がチクリと痛んだ。
沈んだ表情に気づいたのか、ミリーが慌てて続ける。
「レオ様、公爵様と奥様はお仕事のため、もともと来月まで首都のタウンハウスに滞在予定だったのです。しかし、レオ様の怪我を知り、急遽お戻りになることになりました」
その言葉に思わず、表情が緩んだ。
「本当に?」
「ええ、本当でございますよ。公爵様と奥様はそれはそれはレオ様のことを愛しておられますから」
(よかった……悪役令嬢の家で両親とも不仲なんて、辛すぎる……。せめて家庭は円満であってほしい)
心の底から安堵した。
「さあ、お着替えをしましょうか」
「うん」
「アリー、こちらに持ってきて」
「あ、自分で」
そう言いかけて、ハッとする。
(そうだ、貴族っていうのは自分で着替えないんだったっけか。ゲームでレオフィアがヒロインにそのことで嫌み言ってたし)
正直、女性に着替えを手伝ってもらうっていうのは恥ずかしいが仕方がない。
(まあ、今は子供だし……)
高校生ではなく子供だからと自分に言い聞かせながら、ベッドから降りる。
そのとき、扉の向こうが騒がしくなった。
四人の視線が、音のする方へ向く。
「あら? お昼に戻られると伺っておりましたのに」
ミリーが不思議そうに呟いたその瞬間―――。
バァンッ!!
扉が勢いよく開いた。
「レオノールっっ!!」
プラチナブランドの髪をなびかせて二十代後半くらいの男性が飛び込んできた。
精悍な顔立ち、青く透き通る瞳——美しい男が、真っ直ぐにこちらへ駆け寄る。
「レオノールっ……! 怪我は!? 頭を打ったと聞いたが、大丈夫なのか!?」
強く抱きしめられ、思わず息が詰まる。
(ちょっ……えっ、このイケメンが……まさか、公爵……!?)
圧倒されて言葉を失っていると、柔らかな声が響いた。
「リオン、レオが驚いてしまっていますわ」
「えっ、あっ……すまん」
振り返ると、淡いピンクのドレスを纏ったハニーブロンドの女性が立っていた。
「レオ、木から落ちたと聞きましたけれど……大丈夫?」
心配そうに尋ねられ、思わず頷く。
「……うん、大丈夫」
二人は顔を見合わせ、すぐにミリーへと視線を向けた。
「ミリー」
三歩ほど離れた位置に立っていたミリーに視線を向けた。
「レオの様子がおかしいわ」
「何があった?」
厳しい眼差しに、ミリーは小さく息を呑み、申し訳なさそうに頭を下げた。
「レオ様は、頭を打った衝撃で……記憶を失ってしまわれたようです」
「なんだって?!セインはっ?」
「セイン先生から公爵様へお手紙が送られたのですが」
「私の手元には届いていない。どうやら行き違いになったようだな……」
リオンは深い溜息を吐いた。
「詳しい話はセインから聞くことにしよう」
リオンはレオに視線を戻した。
優しくレオの髪を撫でる。
「レオ、痛むところはあるか?」
レオは首を横に振る。
「そうか。私が誰だかわかるかい?」
「……お父さん?」
その言葉に表情が曇る。
「私のことはわかるかしら?」
「お母さん?」
女性の表情も曇った。
しかし、すぐに二人は微笑み、そっとレオノールを抱きしめる。
「私がレオノールのお父様で」
「私がお母様よ」
その言葉に、ようやく気づく。
(……あ、そういうことか。貴族らしく『お父様』『お母様』って呼ばないとダメなのね)
親なのだから、突然の態度の変化にショックを受けたのだろう。
「ミーシャ……やはり、このまま続けようと思う」
「そうね、私もそうした方がいいと思うわ」
ミーシャは頷き、リオンはレオノールへと微笑んだ。
「レオ、朝食は食べたかい?」
「まだ、です」
「そうか、私たちもまだなんだ。一緒に食べよう」
リオンは立ち上がり、ミリーへと指示を出した。
「ミリー、準備ができたら食堂へ」
「はい。承りました」
「それじゃまたあとでな、レオ」
そう言って、二人は部屋を後にした。
「それではレオ様、お着替えしましょうか」
「うん……」
素直に頷いたものの、アリーが手にしている服を見て動きが止まる。
「アリー、それって……オレの服?」
恐る恐る問いかけると、アリーはにっこりと微笑みながら頷いた。
「はい、レオ様のお気に入りのドレスです」
「……ドレス?オレの?」
思わずもう一度確認してしまう。だが、アリーは何の疑問も抱かず、当然のように「はい」と返した。
(待て待て……男なのにドレス?なんで?どういうことだ?)
疑問符が頭に飛び交うがミリーたちは変だと思っていないようだ。
「さあさあ、早くお召し替えをして、食堂へ参りましょう」
戸惑いを抱いたまま、なす術もなくアリーとミリーの手によって着替えさせられた。
ふわりと肌を包み込む柔らかな生地。
淡い黄色のドレスは、陽光のように優美で、繊細なレースが縁取られている。
仕上げに髪を結われ、白と黄色のリボンが添えられた。
そして、鏡を見た瞬間、息を呑んだ。
そこに映るのは、年齢の違いはあるものの記憶の中の誰かと瓜二つの姿。
(これって……どう見ても、レオフィアじゃねぇかっ)
兄妹だから似ているのかもしれない。
だが、そう考えるにはあまりにも酷似していた。
(もしかして……いや、そんなはずは……)
何かがおかしい。
胸の奥に広がる得体の知れない不安を押し殺し、ただ鏡を見つめ続けることしかできなかった。