一か月前に正式に婚約を受け入れたレオノールは、公爵夫妻とともに王宮へと招かれた。
それは、第一王子ヴァンツァー・フォン・リズベルトとの婚約を公にするための正式な顔合わせだった。
(……ついに来たか……)
豪奢な馬車に揺られながら、レオノールは密かにため息をついた。
この一か月の間に、婚約者としての立ち居振る舞いや宮廷のマナーを改めて叩き込まれたが、正直、気が重い。
なぜなら、今日から本格的に「婚約者」としての関係が始まってしまうからだ。
(ここからどうやってヴァンツァーに「こんな婚約者、無理!」って思わせるかが勝負……失敗すれば……)
この一か月間、この日の為に婚約破棄作戦をいくつも考えた。
初めのうちは、以前考えた作戦をそのまま実行しようと思っていたが……。
「いや、これ無理じゃね?」
そう、よくよく考えてみれば、どの作戦も欠陥だらけだったのだ。
① 過度な依存作戦 → 無理!!
わざと勉強や運動で失敗してヴァンツァーに頼りまくる計画だったが、そもそも自分の性格的に無理だった。
わざとらしく「殿下ぁ……助けてくださぁい……」なんて言えるわけがない。
それに、そんなことを続けていたら、リオンや家の使用人たちが心配するのは目に見えている。
② 極端な世間知らずアピール作戦 → 公爵家の令嬢としてヤバい。却下。
「王族は食事のたびに詩を詠むんですの?」なんて本気で言ったら、家の教育を疑われる。
なにより、リオンたちが「どうしたんだ!?」とガチで心配する未来が見える。
③ 王子の意見を全肯定しすぎる作戦 → 好感度が上がる可能性大。危険すぎる。
過剰にヴァンツァーを褒めまくり、気持ち悪がらせようと考えていたが、よく考えたら彼は第一王子。
生まれたときから「素晴らしいですね!」とか「お見事です!」とか言われまくってる。
つまり、多少の過剰な称賛では嫌みにすらならず、「いつものこと」とスルーされる可能性が高い。
もしかしたら、「理解のある婚約者」として評価される最悪のパターンもあり得る。
④ 異常に警戒する作戦 → 王家への侮辱に取られるかも。危険。
王子が近づくたびに「ひぃっ! 近寄らないでくださいませ!」と怯える作戦だったが……
冷静に考えて、王族にそんな態度を取ったら「王家を蔑ろにしている」と問題視される。
最悪、公爵家全体の立場が危うくなるかもしれない。
⑤ 周囲の目を気にしすぎる作戦 → 公爵家の立場を考えたら絶対にアウト。
「殿下の隣に立つなんて恐れ多いですわ……!」と過剰に遠慮することで「王妃の器ではない」と思わせる作戦だったが、
貴族社会では堂々とした振る舞いが求められるため、公爵家の令嬢がこれを続けると確実に「サヴィア家、大丈夫か?」と不安視される。
(……こうして見直してみると、まともに使えそうな作戦がほとんどないじゃねぇか……)
結局、一番有効そうなのは③の「過剰な称賛作戦」だが、それすらヴァンツァーには効かない可能性が高い。
じゃあ、どうするか――。
プライドを刺激するのはどうだろうか?
(ヴァンツァーは王族としてのプライドが高い……なら、それを逆撫でしてやればいいんじゃないか?)
ヴァンツァーは幼いながらも、王族としての誇りが非常に高い。
彼は自分を「次期国王」として認識しており、並々ならぬ自負を持っている。
そして、王族である以上、「高潔であり続けること」が求められる。
(つまり、そのプライドを「本当にこいつを婚約者にしていいのか?」ってくらいに揺さぶればいいんだ!)
今までの作戦はどれも「可愛い婚約者」と思われるリスクがあった。
だが、この作戦なら違う。
彼の誇りを徹底的に揺さぶり、「こいつと一緒にいるとイライラする」と思わせることができるはずだ。
「あら、第一王子ともあろう方がそんなことも知らないのですか?」
とか悪役令嬢らしく高慢な態度を取って嫌われるように仕向けられれば、きっとあっちから婚約破棄を申し出てくれるはずだ。
(『男』とバレる前になんとかしねぇと……)
思わず顔を覆いたくなるが、今は公爵夫妻もいるため、気を引き締めるしかない。
(前世の知識をフル活用して悪役令嬢レオフィアにオレはなる!!)
馬車は王宮の門をくぐると、黄金の装飾が施された美しい扉の前に止った。
荘厳な雰囲気に、思わず圧倒されそうになる。
「こちらでございます」
王宮の侍従に案内され、レオノールたちは応接室へと通された。
扉が開くと、そこにはヴァンツァー、そして王と王妃が座していた。
「よく来たな、サヴィア公爵」
王の落ち着いた声が室内に響く。
その威厳に、レオノールの背筋が自然と伸びた。
(うわ、緊張感すご……)
ヴァンツァーはソファに腰掛けながらも、まっすぐにレオノールを見つめていた。
鋭い青の瞳がじっとこちらを捉え、微かに口角を上げる。。
「……久しぶりだな、レオフィア嬢」
金色の髪、鋭い青の瞳、整った顔立ち。
相変わらず隙のない立ち姿は「王族」としての風格を纏っていた。
(あぁ……この余裕たっぷりの態度がまた厄介なんだよな……)
ヴァンツァーは堂々とした態度で、再び言葉を紡ぐ。
「今日から正式に婚約者としての関係になるわけだが、改めてよろしく頼む」
レオノールは愛想笑いを浮かべながらも、頭の中では必死に作戦を巡らせる。
(よし、ここからが本番だ……!)
レオノールは優雅に礼をしながら、ヴァンツァーを観察した。
姿勢、目の動き、声のトーン……すべてが余裕に満ちており、まるでこの婚約が揺るぎないものだと確信しているかのようだった。
(ちっ、完全に『自分が選ばれて当然』って態度だな……これはプライドを揺さぶる価値ありだ)
レオノールは愛想笑いを浮かべながらも、頭の中では次の一手を巡らせていた。
(よし、ここからが本番だ……!)
「お久しぶりでございます、ヴァンツァー殿下」
レオノールは微笑みながら、あえてわずかに間を取る。
その一瞬の沈黙が、ヴァンツァーの注意を引いたのを感じる。
優雅に礼をしながら彼の表情を探ると、ヴァンツァーは特に感情を見せることもなく、淡々と頷いた。
「うむ、元気そうで何よりだ」
「はい、ありがとうございます」
王と王妃がレオノールに視線を向け、穏やかに微笑む。
「レオフィア嬢、こうして正式に顔を合わせるのは初めてですわね」
王妃が穏やかな声で語りかける。レオノールは丁寧に一礼し、淑やかに返答した。
「はい、王妃陛下。お目にかかることが叶い、大変光栄でございます」
王も満足げに頷く。
「サヴィア公爵、お嬢様の立ち居振る舞いは素晴らしいな。幼いながらも、すでに王妃となるにふさわしい気品を備えておられる」
「恐れ入ります、陛下。娘も、この婚約に相応しい振る舞いを心掛けております」
(うわぁ、めちゃくちゃ評価されてるんだけど……オレ、逆に王族として完璧な婚約者ルート突き進んでないか……?)
レオノールは内心で青ざめるが、表情には出さずに笑みを保った。
「さて」
王は穏やかな口調で続ける。
「せっかくの機会だ。レオノール嬢とヴァンツァー、お前たち二人で庭園を散策してきてはどうか?」
その提案に、レオノールの心臓が跳ね上がる。
(えっ、もう二人きり!? ちょっと早すぎじゃない!?)
だが、ここで動揺を見せるわけにはいかない。
「それは素晴らしいご提案ですわ」
レオノールは優雅に微笑み、ヴァンツァーに向き直った。
「殿下、ご一緒していただけますか?」
「……もちろんだ」
ヴァンツァーは軽く頷く。
(うわぁ……これ、もう逃げ場ないじゃん……)
このままでは「理想の婚約者」として扱われてしまう未来が容易に想像できる。
そうなったら最悪だ。
婚約破棄どころか、さらに王族としてのふさわしさを求められるかもしれない。
(……だったら、オレがやるべきことは一つ)
レオノールは微笑みを崩さぬまま、意識を切り替えた。
ヴァンツァーのプライドを微妙に刺激し、不穏な種を蒔く。
そのために、少しずつ慎重に仕掛けていくしかない。
「レオフィア嬢、こちらだ」
ヴァンツァーが手を差し出す。
それは婚約者としての礼儀であり、王族らしい紳士的な振る舞いだった。
(……ここで素直に手を取ったら、『従順な婚約者』にされる)
レオノールはほんの一瞬、考えるふりをしながら微笑みを浮かべた。
だが、迷いはない。
ゆっくりと手を伸ばすように見せかけながら、代わりに王と王妃、公爵夫妻へと優雅に一礼する。
「では、参りましょうか、ヴァンツァー様」
ヴァンツァーの指先が宙を彷徨った。
その瞬間、レオノールは彼の青い瞳がかすかに細まったのを見逃さなかった。
(気づいたか? お前の『婚約者』は、お前の思い通りにはならないってことを)
わずかに、探るような視線を向けられる。
だが、それはほんの一瞬のことで、ヴァンツァーはすぐに表情を整えた。
それが何を意味するのか、まだわからない。
しかし、この小さな違和感の積み重ねが、いずれ大きな亀裂となる。
「……行こう」
彼はそう言って歩を進める。
レオノールもそれに続いた。
王宮の重厚な扉が静かに開かれる。
視界に広がるのは、手入れの行き届いた壮麗な庭園。
色とりどりの花々が風に揺れ、噴水の水音が心地よいリズムを刻んでいる。
(まるで絵画みたいな景色だな)
だが、こんな美しい風景が広がっていても、心が落ち着くことはない。
むしろ、この静けさが、これからの駆け引きを際立たせるようで不安になる。
ヴァンツァーの横に並ぶ瞬間、わずかに間を空ける。
あくまでも自然に、しかし確実に距離を取るように。
ヴァンツァーは何も言わなかった。
気づいていないのか、それとも意図を読んでいるのか――。
(さて、ここからが本番だ)
慎重に、確実に、相手のプライドを揺さぶる。
ヴァンツァーに「こんな婚約者は嫌だ」と思わせるために――。
レオノールは優雅な微笑を浮かべながらも、内心では次の一手を練り始めていた。