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第15話 逃げることも作戦のうちです。

 庭園の小道を歩きながら、ヴァンツァーはちらりとレオノールの横顔を盗み見た。

 彼女は優雅な足取りで歩きながらも、どこか淡々としていて、必要以上に会話をしようとはしない。

(なんだこいつ……婚約者なら、もうちょっと愛想よくするものじゃないのか?)

 妙に落ち着いた態度が気に入らなくて、ヴァンツァーは少し考えた後、口を開いた。

「お前、好きなものはなんだ?」

 ヴァンツァーは何気なく問いかける。

 婚約者なのだから、それくらいは知っておいてもいいだろう。

 しかし、レオノールは少し考える素振りを見せた後、淡々とした声で答えた。

「これといって特にはありませんわ」

「……は?」

 ヴァンツァーは思わず眉をひそめた。

「いや、何かあるだろ? 食べ物とか、遊びとか……そういうの」

「特別に好きなものは思いつきませんわ」

 レオノールはそう言いながら、ふわりと微笑む。

 だが、その笑顔はどこか他人行儀で、親しみのないものだった。

(なんだこいつ……まるで壁と話してるみたいじゃないか)

 ヴァンツァーは、内心で軽く苛立った。

 せっかく話しかけたのに、まるで会話を続ける気がないような態度が気に入らない。

 それなら、と話題を変えてみることにした。

「じゃあ、嫌いなものは?」

「強いて言うなら……無礼な人は苦手ですわ」

 さらりと言われ、ヴァンツァーはむっとする。

「……それは、誰でもそうだろ」

「まあ、そうですわね」

 レオノールは微笑むが、それ以上話を膨らませようとはしない。

(くそ……なんなんだよ、こいつ)

 普通、こういう場では、もっと親しみを込めて話すものじゃないのか?

 婚約者同士なんだから、少しは互いを知ろうとするものじゃないのか?

「……君は、俺のこと、どう思ってるんだ?」

 ぽつりと呟いたヴァンツァーに、レオノールはくすりと微笑んだ。

「そうですわね、私の婚約者ですわ」

「いや、そうじゃなくて!」

 ヴァンツァーは思わず語気を強める。

「婚約者だからってだけじゃなくて、俺のことをどう思ってるかって聞いてるんだ」

 レオノールは、不思議そうに小首を傾げた。

「婚約者以外に何か特別な意味がございますの?」

「……!」

 ヴァンツァーは口を開きかけたが、すぐに言葉を失った。

 なんだ、この妙に大人びた態度は。

 まだ八歳だというのに、まるで何もかも分かっているような顔をしている。

 まるで、大人にからかわれているみたいじゃないか――。

(くそっ……なんでこう、話が弾まないんだ……)

 沈黙が流れる。

 ヴァンツァーは何か言おうとしたが、言葉が出てこない。

 そんな彼の様子など気にした素振りもなく、レオノールは優雅に一礼した。

「殿下、私はそろそろ失礼いたしますわ」

 そう言って踵を返す。

 ヴァンツァーは、彼女の後ろ姿をじっと睨んだ。

 背筋を伸ばし、ゆったりと歩くその姿は、まるで自分よりも年上の貴族のようだった。

「……生意気だ」

 思わず、小さく呟く。

 彼女は振り向かない。

 それがまた、ヴァンツァーの苛立ちを募らせるのだった。




◆      ◆      ◆



 レオノールは優雅に一礼し、くるりと踵を返した。

 そのまま庭園の小道を歩き出し、ヴァンツァーの視線を背中に感じながらも、一度も振り返らない。

 歩調は変えず、あくまで自然に。だが、その手は無意識にぎゅっと握りしめられていた。

(……くそ、やばい……!)

 心の中で焦りの声が響く。

 表向きは余裕のある態度を貫いたが、実際は必死だった。

 ヴァンツァーとの会話は、想像していたよりもはるかに緊張感があり、思った以上に神経をすり減らすものだった。

(あいつ、まだ八歳のくせに、目が鋭すぎる……!)

 王族だからなのか、ヴァンツァーの視線は鋭くて、まるで心の奥まで見透かされるようだった。

 今はなんとかやり過ごしたものの、これがずっと続くとなると、正直きつい。

(なんであんなに質問してくるんだよ!)

 好きなものは? 嫌いなものは?

 そんなの、婚約者同士なら普通の会話なのかもしれないが、レオノールにとっては地雷原も同然だった。

 下手に答えれば、「趣味が合うかもしれない」と勘違いされるかもしれないし、適当に誤魔化せば「もっと知りたい」と思われるかもしれない。

 どちらに転んでも、婚約破棄という目的から遠ざかるだけだ。

(あの場を切り抜けられたのはよかったけど……)

 冷静を装いながらも、レオノールの心臓は速く脈を打っていた。

 歩く足が、つい速くなりそうになるのを抑える。

 急いでいると気づかれれば、ヴァンツァーに「逃げた」と悟られるかもしれない。

 だが―――。

(正直、逃げたい……!!)

 あのまま会話が続いていたら、どこかでボロを出していたかもしれない。

 レオノールは、内心でほっと息をついた。

 このまま早く宮殿の中に戻って、安全圏に逃げ込まなければ。

 その時、背後からふっと声が聞こえた。

「……生意気だ」

 その言葉に、レオノールは思わず背筋を伸ばした。

 まるで静かな風が頬を撫でるような、小さな呟き。

 けれど、その言葉に込められた感情は、明らかに「不快感」だった。

(あー、やっぱりイライラしてる……)

 ある意味では作戦成功ともいえるが、妙な寒気が背中を走る。

 ヴァンツァーは、あの余裕たっぷりの態度からして、そう簡単にカッとなるようなタイプではない。

 なのに、今の呟きは……。

(ちょっと刺激しすぎたか?)

 レオノールは、できるだけ自然に歩調を乱さぬように意識しながら、その場を後にした。

 彼が今後どう出るかは分からないが、一つだけ確実なのは――

(……このままでは、絶対に終わらないな)

 それだけは、背後に残る視線から痛いほどに感じ取れてしまった。


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