春。四月。新生活のはじまり。学校、職場、環境、様々なものが変化する季節。
俺、こと
曾祖父が創始者で、グループの歴史としてはそこまで古くはなく、生まれた時からこういう世界だったためもはや普通が良くわからないというのが心情だ。大学卒業後、社会勉強としてグループが経営するいつくかの企業を経験させてもらったわけだが、歳の離れた兄たちとは違い、俺は基本的に自由な立場。両親も特になにか言うわけでもなく、好きなようにしていいとまで言ってくれている。
裏を返せば、お前には特に期待していないと言われているようなものだろう。祖父は幼い頃からそんな俺を気にかけてくれており、唯一腹を割って話せる家族でもある。そんな中、つい先日祖父に呼び出されたのだが····。
それは三月中旬のある日のこと。祖父が贔屓にしている和食の店で、酒を飲みながら最近の出来事を各々話していた時のことだ。
「蒼士、お前さんにひとつ頼みたいことがあってな。俺もそろそろ引退してもいい歳だろう? 今の事業の後継者を事業ごとに引き継ぐ段階になってきたと思っている。経営やら細かいことはすでに
俺はこの時点で嫌な予感を覚えた。確かに父さんや兄たちはそっちにはあまり興味がないらしく、なんなら信頼できる外部の人間に委託しようと考えているようだった。しかし祖父は昔からそっちの方に力を入れていて、いつまでも話し合いは平行線という感じだった。
実際、子どもも昔と違って少なくなっていて、クラスの数も小中高とそれぞれ減っている状況。幼稚園はそれらと違って選択できる数がそもそも少ないので、今のところは問題ないのだが、先が見えないのは同じだ。
祖父は理事長として名前を貸しているだけでなく、時間があれば足を運んで話を聞いていたりしているようだった。
「そこで、だ。お前には俺の代理として動いてもらいたいと思っているんだが····どうだ? 試しにやってみないか? お前は上の兄たちと違って人当たりもいいし、誰にでも分け隔てなく接することができる。要領もいい。一見適当なようでいて、実は真面目で、責任感もある。すぐにとは言わん。あくまで代理として、俺のやってることを引き継いでもらいたいんだ」
あくまで代理。そう強調する祖父だったが、どう考えても俺にそれを託したいという気持ちが見え隠れ······というか、そうとしか思えない。嫌とか面倒とかそういう気持ちはなく、そもそもやりたいことがない俺は断る権利もないのだ。
「わかった、けど。代理って言ったって、なにをしたらいいの? じいちゃんみたいに顔が利くわけでもないし、俺なんかが急に行ったとてって感じなんだけど」
「そこで、だ。お前にはひとまず幼稚園で一年間、相談係として潜り込んでもらう。園長には話を通しておくが、そこで働いている先生方や保護者さんたちには三鷹の者とはわからないようにして、それとなく仲良くなって話を聞くという任務だ」
任務って? 潜入捜査的なやつ?
「そういうの得意だろう?」
つまりは中で職員として働きながら現状を探って報告しろってこと?
「幼稚園で上手くやれたら、段階を踏んで小中高と潜り込んでもらおうと思っている。後々、実はあの時の····みたいな、ドッキリも楽しいだろう?」
いや、楽しくはないな。
というか、海外の番組とかでそういうの観たことあるような····。大企業の社長が新人アルバイトとして潜り込んで働き、従業員たちの話を聞いて後日ネタばらしするってやつ。あれをリアルでやろうとしてるってことでしょ?
「お前に色々な資格を取らせたのもそいういう理由があってだからな。ということで、明日からよろしく頼む」
すでに決定事項か····。最初から退路は断たれていたようだ。強引でありながらもやんわりとした口調のため、気付けばいつもの流れである。祖父には逆らえないというのもあるが、恩もある。俺に断る権利などないのだ。
「わかったよ。俺なりにやってみる」
「よし、決まりだな」
こうして、俺は明日から新しい職に就くこととなったのだ。
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卒園式の数日後、俺は職員として八葉幼稚園で働くこととなった。子どもたちのいない静かな園は想像以上に新鮮で、何の気なくあたりを見回しながら園長の後ろをついて行く。
平屋建ての園は少し前に改装したようで、外観も内装も明るく綺麗な印象を受けた。今日は職員の顔合わせと、入園式の段取りやら園児の詳細やらを確認する目的で集まっているらしい。
途中、背の低い机や小さな椅子が目に入り、なんだか不思議な感覚だった。
(まあ、表立って子どもの相手をするわけじゃないし、どちらかといえば大人相手に相談にのったり、経理とか事務仕事がメインだからな)
とはいっても、幼稚園の職員のひとりとして行事やらなにかしらには関わらざるを得ないはず。女性職員が多いらしいから、彼女たちが苦手な部分を補ってあげる必要もあるだろう。事務仕事だけとはいかないことは自分でも理解していた。
現に、スーツではなく普段外で着るようなラフでカジュアルな格好が求められていた。なんなら家にいる時の格好といってもいい。しかしこれはこれで新鮮で、とにかくやってみないことには始まらないというやつだ。
職員室の手前で賑やかそうな声が聞こえてきた。職員同士の仲は悪くないのだろう。女性だけの職場だと、色々と確執とかありそうな勝手なイメージがあるけど、ここがどういう雰囲気の職場かはその内わかるだろう。
事前に手に入れた資料を読んだが、女性が九割で、男性はふたりだけ。ひとりは先生(四月から二年目の二十三歳)、ひとりは用務員(週三勤務の六十歳)。事務員の俺が入ってもたった三人。
(女性職員さんはほとんどが既婚者で子持ち。独身はふたりか。あんまり親しくすると後々面倒なことになりそうな気もするし、大人しくしてるのが正解かな)
社会勉強として色々な企業に身を置いたが、行く先々で女性トラブルに見舞われた。まあ、俺がぜんぶ悪いってことになってるけど、あっちだって楽しんでたわけだし。本気で恋愛しようなんてそもそも思ってないし。期間限定のセフレくらいに思っていたのは確かだ。
思わせぶりな態度というやつは、時に相手を怒らせてしまうようで。そもそも相手の方から付き合って欲しいって言っておきながら、なんか違ったって言われて無駄にフラれる俺の身にもなって欲しい。
トラブルに関しては俺が、というよりも周りの女性たちが勝手にトラブって俺を巻き込んで、という流れがほとんどだった。そいう意味では新しい職場というのは憂鬱でもある。
「みなさんと一緒に働く、新しい職員の方を紹介します。
職員室に入ってすぐ、職員たちの前で園長が簡単な紹介をしてくれた。ちなみに"三鷹"ではなく"水瀬"になっているのは仕様で、水瀬は祖母の旧姓である。履歴書はちゃんと本名で出していて詐称はないのでご心配なく。
「水瀬です。できることは限られていますが、精一杯やらせていただければと思っています。少しずつみなさんのことを知りたいと思っていますので、本日よりよろしくお願いします」
お決まりの挨拶をし、こうして職場潜入一日目が始まるのだった。