歩行者信号は青色だった。点滅音が雨に混じり、透子の頬を叩いた。透子と剣士は白い横断歩道を手を繋いで駆け出した。信号が赤に変わる直前、一瞬のことだった。
「剣士くん!」
透子が剣士の名を叫んだ瞬間、雨に滲む白いヘッドライトが彼女の視界を埋めた。心が凍りついたその時、剣士が透子の腕を強く引いた。急ブレーキの音が雨音を裂いた。赤い傘が夕暮れの空に高く舞い、傘が落ちる音だけが、雨の静寂に響いた。
全てが暗転し、次に目を開けたとき、彼女は見知らぬ天蓋の下にいた。
一瞬、息が止まり、気がつくと頬に熱い涙が伝っていた。見上げるとビロードの天蓋に、絹のカーテンが揺れている。手はベッドのシーツを握り締め、その興奮で息が上がっていた。
「藤くん!」
椿 透子は、ベッドから勢いよく身を起こすと周囲を見回した。豪華な部屋、立派な調度品。ふと振り向いた鏡に映るプラチナブロンドの女性は涙を流していた。透子は息を呑んだ。これは・・私じゃない!と心が叫び、耳に残る事故の衝撃音が頭を締め付けた。藤 剣士の照れ笑いが脳裏に焼き付いて離れなかった。彼女は恐る恐る頬に手を当て、その温もりを感じた。長い髪を掻き上げると、絹糸のような髪が胸元へサラサラと落ちた。
「ここは、どこ?」
すると、マホガニーの扉をノックして、エプロン姿の女性が礼儀正しくお辞儀をした。赤茶の髪を結い上げた彼女は、椿 透子の姿を見るなり慌てて駆け寄った。
「カメリア様!どうなさったんですか!涙が!」
「ああ、サラ。大丈夫よ・・・夢を見ただけ」
椿 透子は、その女性の名前を自然と口にしていた。どういうことなの!?と椿 透子が頭を抱えていると、彼女は水差しからカップに水を注いだ。カメリア様どうぞ、手渡されたカップは指先に冷たく、これは現実なのだと思い知らされた。
「これは・・・」
胸元に触れる物があった。椿 透子の胸には、椿の花のように赤い貴石のネックレスがあった。彼女がそれを握ると輝きを増し、全身が天に昇るような浮遊感に包まれ、高校三年生だった椿 透子の記憶に、カメリア伯爵令嬢の記憶が流れ込んだ。その時、椿 透子は自分が自分でなくなるような不安を一瞬、覚えた。
(私は、カメリア。伯爵家のカメリアなんだわ)
カメリアに転生した椿 透子は心でそう呟いた。そこで彼女は、一緒に事故に遭った、藤 剣士のことを考えた。
(私がこの世界に来ているのなら!藤くんも来ているはず!)
思わずシーツを握る手に力がこもった。そこでサラがクローゼットを開けると、銀の糸で椿の刺繍を施した深紅のドレスを取り出した。
「カメリア様、そろそろお召し替えを」
「あぁ、そうね。もう時間だわ」
カメリアは今日、ドミニク侯爵と正式に婚約をする。けれど今のカメリアはそれどころではなかった。十歳も年の離れた髭のオヤジと婚約している暇などはない。一日も早く、行方のわからない藤 剣士を探し出して、一緒に2025年の9月に戻らなければならない。
今日のお
(カメリアって、本当に綺麗な顔をしているのね)
プラチナブロンドの髪、光り輝く金の瞳、美しく飾り立てられていく顔を食い入るように見た。ふと、ネックレスの赤い貴石が光を放ち、藤 剣士のいつもそばにいるよ、という声が耳に響いた。その時、鏡に水滴のような波紋が広がり頭に痛みが走った。鏡の中に一人の男性が映し出された。カメリアはサラの制止を振り切って、鏡の中を凝視した。
(藤くんだ!)
その男性は藤 剣士とは似ても似つかなかったが、微笑んだ面差しにはその片鱗が見え隠れした。カメリアは、藤色の髪をしたその男性が彼であると確信した。
(やっぱり藤くんも、この世界に来ていたんだ!)
カメリアは一刻も早くこの屋敷を飛び出して、藤 剣士を探しに行きたかった。サラは、お髪はもう一度やり直しですね、と大きな溜め息をついた。
「ごめんなさい」
「いいえ、宜しいんですよ。”
「”先見の明”・・・・」
カメリアには生まれつき、過去や未来を見抜く”先見の明”という力が備わっていた。ネックレスの赤い貴石を握ると、その場面は色鮮やかに手に取るように視えた。カメリアは眉をひそめた。貴族の企みを暴いた場面がフラッシュバックし、胸がざわついた。
「これまでご貴族様たちの悪巧みを言い当てたんですから、すごいことですよ!」
「そうかしら・・・」
”先見の明”。その力を欲しがる者は多かったが、カメリアにはドミニク侯爵という許嫁がいた。貴族たちは、この婚約が破談することを願い、手ぐすねを引いて待っていた。しかし、遂に正式な婚約披露の宴が催されることとなった。招待状を手にした貴族たちは肩を落とした。
皆がそう思っていた。
管弦楽団の音色が止み、カメリアが大広間に姿を現すと誰もがその美しさを称賛した。ドレスの裾が大理石の床に擦れる音だけが響いた。カメリアがゆっくりとドミニク侯爵に向き直り、恭しくお辞儀をした。その流れるような所作に貴婦人たちは目を見張った。カメリアがドミニク侯爵の顔を見上げると、その面持ちは醜く歪んでいた。彼は声を張り上げた。
「カメリア!おまえとの婚約は今日をもって破棄する!」
大広間には驚きのどよめきが細波のように広まった。なにより一番驚いたのはカメリアだった。なに言ってんだこいつ?事態が呑み込めないカメリアは、目を見開いた。ドミニク侯爵はその顔を見て勝ち誇ったように続けた。
「おまえはこのロレッタ男爵令嬢に再三、好ましくない態度をとったそうだな!」
なるほど、眉間にシワを寄せた彼の背後には、怯えた顔のロレッタ男爵令嬢がその袖を掴んで震えていた。カメリアは彼女との記憶を辿った。思い当たることといえば、ダンスパーティーでドレスの裾を踏んでワインを溢してしまったあのことだろうか。そもそも、伯爵令嬢が男爵令嬢と関わる機会など数える程しかない。
すると、ロレッタ男爵令嬢がドミニク侯爵の耳元で囁いた。カメリアの力さえなければ、侯爵様の地位は安泰です、と。彼はカメリアを睨んだ。おまえのその薄気味悪い力が邪魔なんだ!と吐き捨てるように言った。
(あー、そういうことね)
ドミニク侯爵に寄り添う彼女の口元はニヤリと歪んで見えた。カメリアとしてみれば、そんなオヤジのどこが良いのかと疑問しか浮かばなかった。多分に、侯爵夫人という座が欲しいのだろう。あまりに下らなすぎて呆れてしまった。
(でも、これってラッキーじゃん!)
藤 剣士を探しに出掛けたいカメリアにとって、この婚約破棄は願ってもない申し出だった。けれどこの一方的な婚約破棄は、カメリアの自尊心が許さなかった。
(このまま引き下がるのは癪ね)
カメリアは、ドミニク侯爵とロレッタ男爵令嬢に置き土産のひとつも差し上げようと考えた。貴族たちの視線が刺さる中、カメリアは深呼吸をした。そして彼女は眉間にシワを寄せ、瞼を閉じた。
「ドミニク様、酷い!私というものがありながら、ロレッタ様と懇意になるなんて!」
大広間がざわめいた。確かに、ロレッタ男爵令嬢はドミニク侯爵に親密そうに寄り添っていた。明らかに男女の仲であることを窺わせ、不貞とも取れる状況だった。彼は、断じてそんなことはない!と声を大にしたが、貴族たちは白い目で見た。
カメリアは大袈裟なほどに泣き崩れ、カメリア様、大丈夫?と隣の公爵夫人に支えられてようやく立ち上がった。
すると彼女はドミニク侯爵を厳しい目で睨みつけ、唇を噛んで大股で歩み寄った。貴族たちの視線が一斉に彼女に集まり、ざわめきが静まり返った。ドミニク侯爵がその勢いに気押されていると、カメリアの右手は大きく振りかぶった。
バシっ!
カメリアの手も痛んだが、ドミニク侯爵はその場で尻餅をついた。貴族たちの中からは驚きの声と失笑が漏れた。
「な、なにをするんだ!」
「ドミニク様!この婚約、私から破棄させて頂きます!ごきげんよう!」
ロレッタ男爵令嬢がドミニク侯爵に駆け寄って肩を支えたが、彼は顔を真っ赤にしてその手を振り払った。カメリアは平然とした顔で大広間を後にし、サラを伴い自室へと戻って行った。これでカメリアは自由の身となった。
「よ・・・宜しいのですか?」
「良いのいいの!スッキリしたわ!」
カメリアはドレスの裾をたくし上げるとハイヒールの音も高らかに廊下を進んだ。
「実は、サラも気分が晴れました」
「でしょ?そうだ!サラにお願いがあるの!」
背後で誰かの視線を感じたが、カメリアには振り返る余裕はなかった。マホガニーの扉が閉まる。白い髭を蓄え痩せ細った男性ががその扉を見つめた。