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第2話

「あなた、本当に吸血鬼を……?」

 荷物を宿の二階へ運ぶと、部屋を出る前にナタリアがそう問うてきた。リベルトは「はい」と短く答える。

「ご存じかとは思いますが、あの森にすむ吸血鬼は魔性の男。その美しさで男女問わず誘惑して、気に入った相手の血を啜り、殺してしまう恐ろしい化け物です。あの、その……リベルト様のお姿は恐らく吸血鬼の好む『美しい男』に当てはまるかと」

 言い淀むナタリアの方を見て、リベルトは足を一度止めた。

「……まるで、吸血鬼を知っているような口ぶりですね」

 見透かすように見つめられて、ナタリアは視線を泳がせる。リベルトは安心させるように笑った。

「それに、私が美しい男だなんて、ご冗談を」

「お気に障ったならごめんなさい。でも、本当に彼は……」

 やはり、ナタリアは何かを知っている。リベルトはそう直感して、ナタリアの顔を覗き込んだ。そこでナタリアも観念したのか、口を割った。


「会ったことが、あります」

「……」

 リベルトは責めるでもなく、ナタリアの言葉の続きを待った。周囲に人の気配がないことを確認すると、ナタリアはリベルトに取りすがる。

「私は裁かれるべきなのでしょう、どうぞ、一思いにこの胸を刺し貫いてください」

「それは、つまり……」

 必死に乞うてくるナタリアの、エプロンスカートのその下、白いスタンドカラーのブラウスに、リベルトは右手の指をかけた。ナタリアが拒まないのを確認し、「失礼」と短く声をかけるとその左首すじに視線を落とす。

「……なるほど」

「お願いします、もう引き返せないんです、私は」

 あの方の眷属になるしかないのです。

 ナタリアはそう言いながら、その場にへたり込んで泣き出してしまった。

「落ち着いて、『なるしかない』ということは、まだあなたは眷属ではないのでしょう」

「はい……けれど、このままずっとあの方と交わっていればそのうち私も吸血鬼になり果てる」

 リベルトは、この娘が宿までの案内を買って出た理由がわかって小さくため息をついた。

「それでも、あの方を殺さないでほしいのです、私は、あの方を」

 その言葉の続きを、リベルトはナタリアの唇に人差し指を当てて塞いだ。

「誰に聞かれているかわかりませんよ。魔女裁判にかけられるかもしれない。もう、多くを語るのはおやめなさい」

 この娘は、このままでは自分が吸血鬼の眷属に墜ちてしまうことを知っている。それでも、こっそり夜抜け出して吸血鬼に会いに行くことをやめられないというのだ。この娘が吸血鬼の好みかどうかはわからない。けれど、若く張りのある白い滑らかな肌、地味ではあるが整った顔立ち、自分が吸血鬼ならば、血をいただくには良いターゲットだと思った。

 あの方を愛している。そう言おうとしたナタリアを止めたのは、口に出してしまえば本当に引き返せなくなるからだ。ナタリアの口ぶりからして、この娘はもう何度か吸血鬼と交わっているのだろう。その情交の度、血液を提供していると考えて間違いなさそうだ。ナタリアは鏡を見るたび、ため息をついていた。村の者たちはまだ気づいていないが、彼女の瞳は吸血鬼と交わるたびに少しずつ赤みを帯びていっている。

「殺さないで、か」

 リベルトは、未成熟な娘の恋心に小さく笑った。

「良いでしょう、あなたがもう吸血鬼に会わないと約束してくれるのならば」

 ナタリアの瞳が絶望に落ちる。

「あの方は人間の生き血を飲まないと弱ってしまう」

「なるほど、私が殺さずとも、放っておけば死んでしまうんですね」

 吸血鬼についての伝承は本当なのですね、とリベルトはナタリアの手を取り立たせた。ナタリアは、どちらにせよこの男は吸血鬼を殺してしまうつもりなのだと思い、それならばと手近にあった花瓶を持ち上げる。

「何をするおつもりで」

「あ、あなたが、ヴァル様を殺すのならばその前に私が……!」

 完全に錯乱している。リベルトはナタリアが振り下ろす花瓶を紙一重で避けると、バランスを崩してたたらを踏むナタリアの腕を掴んで引き上げた。

「物騒なことはおやめなさい。私だって手荒なことはしたくない」

「放して! 行かせない! ヴァル様の元へは行かせないから!!」

 騒ぎを聞きつけ、階下から宿屋の女将がバタバタと上がってくる音が聞こえる。リベルトは少しほっとして、ドアの方を見た。三回、荒めにドンドンドンとドアを叩かれ、リベルトは返事をする。

「リベルトさん!? すごい物音がしたけど大丈夫ですか」

 宿の女将はすらりとした白髪交じりの女性だった。花瓶を持ったままリベルトに腕を掴まれているナタリアを見て、顔を真っ青にする。

「ナタリア!? あんたなんで花瓶なんて」

 ナタリアは何も言えずに黙ってしまった。花瓶の水は朝替える。彼女が花瓶を持ち上げる理由など、この時間には存在しないのだ。考えられることは、ナタリアがリベルトに暴行を加えようとしたか、リベルトに何かされて抵抗したナタリアが花瓶を振り上げたかの二択。しかし、女将は二人の表情からどちらに非があるのかを瞬時に見抜いてしまった。

「こっちへ来なさいナタリア」

 ナタリアに花瓶を置くよう指示して、女将はナタリアを引っ張ってドアの外へ出してしまった。

「申し訳ありませんリベルトさん、お怪我はありませんか?」

「ええ、……」

「この頃あの子、様子がおかしいんです。日中でもぼーっとして眠そうな時があったり、急に顔を真っ青にして蹲ったり……今だってなんで神父様に」

 言いかけて、女将は眉を寄せた。気づきかけているのだろう。リベルトは小さく首を横に振ると、女将の言葉を遮った。

「思春期特有の心の病かもしれません、少しそっとしておいてあげましょう」

「……神父様」

 女将はすがるような目でリベルトを見つめ、手を祈りの形に組んだ。

 この小さな村は、皆が家族のようなものだという。血のつながりは無くても、女将はナタリアを幼いころからよく知っていた。おとなしい性格のため、他の子のように外を走り回って遊ぶような快活なタイプではなかった。けれど、きつい顔立ちに反して、村のこどもたちの誰よりも思慮深く、優しい性格だという。

「あの子を、どうかお救いください」

「必ず」

 リベルトははっきりとそう答え、女将が出て行ったあと部屋のドアのカギを内側から閉めた。

 部屋の中の会話が聞こえていたのだろう、ドアの外ではナタリアが泣く声が聞こえる。

 リベルトは、自分が吸血鬼と通じていることを女将に話さなかった。花瓶で殴り掛かろうとしたことさえ、許している。それは、逆に吸血鬼に非があるとして彼を調伏せんという意思の表れなのだろう、と彼女は涙を流した。


「ヴァル様、ね」

 ナタリアが叫んだその名を呟き、リベルトは唇の端をわずかに吊り上げると、荷物の整理を始めた。


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