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第17話 彼には好きな人がいる


メッセージを送り終えて顔を上げると、美咲が茉莉のスカートを拭いてあげていた。

淳史が横でティッシュを差し出している。


「これはもう着られないわ。使用人にきれいな服を届けさせる」


茉莉は気にした様子もなく手を振った。

「あなたが引き止めなかったら、田中俊彦を社会的に葬るところだったわ!美咲、私が公の場であなたが婚約破棄するって言っちゃったけど、怒らない?」


今でも茉莉は美咲が本当に婚約破棄したいのか確信が持てなかった。

咄嗟の一言で美咲を恥ずかしい立場に追い込んでしまわないかと恐れていたのだ。


「怒らないわ」

美咲はそう言うと、健太の方を見た。

「ヤニス、どうしてここに?」


佐々木家の招待状は簡単には手に入らないと美咲は知っていた。

窓際に立つ健太はビシッと決めたスーツ姿で、整った顔に薄ら怒りを浮かべている。

彼は必死にそれを抑え込み、誰にも悟られないよう淡々とした声で答えた。

「パーティに参加するためだ」


隣の淳史は怪訝そうな目で彼を一瞥し、まるで招待された客のような口ぶりだと思った。

何か言おうと口を開けたが、健太の警告の眼差しに触れて黙り込んだ。


その時茉莉が尋ねた。

「知り合いなの?」

淳史は一瞬たじろいだ。

「……ああ、友人だ」


茉莉は健太と淳史を交互に見た。

「あなたって結構派手な遊びするのね。ホストまで連れてパーティに来るなんて?」


控え室は一瞬にして静まり返り、言いようのない不気味な空気が流れた。

健太の淡々な面持ちについにひびが入った。


もしかして、あの日銀座のクラブでホストに間違われたのか?

紳士としての教養がこの瞬間に崩れ去り、健太は口を開けては閉じ、たった三文字を絞り出した。

「ち・が・う。」


茉莉が「ホスト」という言葉を口にした時、淳史は驚きのあまり思考が停止した。


やっと彼女が言う「ホスト」が佐々木健太だと理解した時、自分の唾でむせて死にそうになった。

「ゴホッ!誰のことをホストって言ってるんだ?」淳史は天地がひっくり返るような冗談を聞いたような表情を浮かべた。

「佐々木健太がホストだなんて、それじゃ東京のホスト業界のレベルってどれほどのものなんだよ!」


今度は茉莉と美咲が呆然とした。

二人は顔を見合わせ、思わず目を見開いた。

美咲が健太を見つめ、緊張で喉を鳴らし、声に明らかな震えを帯びて言った。

「あなたは……佐々木健太さんですか?」


健太は美咲の前ですぐに素性を明かすつもりはなかった。彼女を驚かせるのを恐れていたのだ。

しかし淳史がうっかり口を滑らせてしまい、もう隠し通す意味もなかった。

男の声は低く響いた。

「そうだ」


美咲の眼前に黒い閃光が走ったかと思えば、まるで雷に打たれたような衝撃が走った。


佐々木健太をホストだと思い込み、こっそり「金持ち女に見捨てられた」なんて勘違いしていたなんて……


この世で最大級の社会性死だ!

彼女は手のひらをギュッと握って平静を装ったが、頭の中は依然混乱していた。

「なぜ港町の家賃八万円の部屋を借りてたの?」


健太は冷静沈着に答えた。

「港町は佐々木グループが開発したマンションだ。住んでいたのは視察のためだ」


話に矛盾点は多かったが、健太の身分を思うと美咲は納得せざるを得なかった。

以前はヤニスを親しみやすい人だと思っていたが、東京の経済の大半を握る人物だと知った今、彼女は圧倒的な威圧感を感じた。


健太と気軽に目を合わせることすら躊躇われるほどだった。

つい先日、この大物に餃子を差し入れし、真夜中にブレーカーを上げてもらうよう頼んだことを思い出すと、美咲の顔が火照った。

控え室は再び静寂に包まれた。


気まずさを紛らわせようと、美咲はへらへら笑った。

「港町の停電問題ってどう解決するんですか?」


健太はやや落ち着きを失い、軽く咳払いした。

「明日、管理会社を解雇する」

「……」


またしても言葉を失った。

すると茉莉が叫んだ。

「私この服着られない!着替えに行くわ!」

彼女は淳史の腕を掴み、この気まずい控え室から逃げ出すように去っていった。


控え室を出るなり茉莉は淳史を睨みつけた。

「なんで彼が健太だって早く言わなかったのよ!」

「お前たちの目が節穴だって分かるわけないだろ?でも佐藤美咲をあそこに置き去りにして、あの二人が気まずくならないか心配しないのか?」


茉莉は深く息を吸い込んだ。

「あの空間にいたら窒息しそうだったわ!あの二人、とっくに知り合いだったし、あの方がわざわざ美咲の隣に引っ越してくるなんて……美咲に気があるんじゃない?」


淳史は振り返って控え室の扉を見た。

「考えすぎだよ。彼には好きな人がいる」


階下のパーティ会場。

四方八方から注がれる視線と抑えきれない嘲笑に田中俊彦の頭皮が痺れた。

公の場で恥をかいた上に、今日持ち込んだ取引はどうあがいても成立しそうになかった。

側にいた小野寺彩乃は彼の怒りを察すると、すぐに唇を尖らせて泣き出した。


「俊彦、私、佐藤さんがなぜ突然叩いてきたのか分からなくて……彼女が自分でテーブルクロスを引っ張ってトラブルを起こしたのに、従妹に見つかると私を叩くなんて」

「今日私が一緒に来なければ、彼女も発狂しなかったのに……」


田中俊彦は徐々に冷静さを取り戻し、慰めるように言った。

「君が悪いわけじゃないと分かっている。美咲が俺の注意を引きたくて騒ぎを起こしたんだ」

「俊彦、今日はこんな大騒動で佐々木家のパーティを台無しにしちゃったし、彼女の評判はあなたと結びついてるから、きっと誤解が解けないと思う」


田中俊彦の瞳が次第に冷たくなった。

東京中の誰もが佐藤美咲が自分の婚約者だと知っている。彼女が引き起こした問題は田中グループの不名誉となる。


もし佐々木家が説明を求めてきたら、美咲を犠牲にするしかない。

「行こう、美咲を探して謝らせるんだ!」

田中俊彦は小野寺彩乃を連れて二階へ上がった。


彼らが到着した時、ちょうど茉莉が控え室から出てくるのが見えた。

田中俊彦は美咲が中にいるに違いないと推測した。

怒りに任せてドアを押し開けると叫んだ。

「佐藤美咲!お前頭おかしくなったのか?彩乃に謝れ!」

「それからお前の親友もだ。婚約破棄だとかほざいて、俺と田中グループを公然と侮辱したのはお前の指示だろ?」


美咲は眉をひそめて彼を横目で睨み、ようやく収まりかけた怒りが再び込み上げてきた。


「田中俊彦、私たちもう別れたの。茉莉の言う通りよ」

「俺は別れるなんて承諾してない!」

田中俊彦が反論した。「機嫌を損ねてるのは分かる。他のことはさておき、彩乃の顔が腫れるほど叩かれたんだぞ?お前に少しの罪悪感もないのか?」


小野寺彩乃は田中俊彦の背後に隠れ、ひ弱そうに彼の袖を引いた。

「私は平気よ。彼女が謝りたくなければそれでもいい。でも佐々木家には謝るべきだと思う。今会場は大混乱だし、佐々木家の方々の表情も険しいわ……」


田中俊彦は小野寺彩乃の手を繋いた。

「佐藤美咲、彩乃はお前にこだわらないと言ってくれてるが、お前は公の場で佐々木家に謝罪するんだ!」


その言葉が終わらないうちに、美咲の背後に立つ男が彼女の脇をすり抜け、田中俊彦の前に立った。


「彼女が佐々木家に謝る必要はない」

俊彦はとっくに部屋にもう一人男がいることに気づいていた。


階下で見かけた時、見覚えがあると思ったが、どこで会ったか思い出せなかった。

美咲が外で知り合ったろくでもない男に違いない。


さっきこの男が公然と美咲を連れ去ったせいで、自分の面目は丸つぶれだ。

田中の不満は頂点に達していた。

彼は佐々木健太を睨みつけて怒鳴った。

「てめえ、いったいどこから出てきたんだ?」



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