ようやく、静かになった。
数時間前まで報道陣の波に飲まれていた首都研のロビーには、今や人の気配もまばらだ。
受付前の椅子に腰を下ろし、香奈がふぅっと大きく息を吐いた。
「なんか、すごいことになっちゃったね……」
俺は隣で缶コーヒーを開けながら、無言でうなずいた。
神カメラマン。
SNSでの大バズリ。
現場は、見事なまでにとんでもない騒ぎになった。
「でも、やっぱりさ……配信って、すごいね」
香奈が小さくつぶやく。
俺は何も答えず、苦いコーヒーを飲み下した。
「先輩~~~っ!!」
元気すぎる声とともに、駆け足でこちらに向かってくる人影があった。
茶髪の、ひょろっとした体格の青年。
「安藤……」
彼は息を切らしながら駆け寄ってくる。
片手にはスマホ。
画面には、さっきの会見の様子がニュースで流れていた。
「見ましたよ見ましたよ! もう今、ネットでもテレビでも全部それっす!
“神カメラマン、研究員だった!”とか“AI開発者は超人!?”とか……。
もはやヒーロー扱いじゃないっすか!」
「見事なまでに盛られてるな……俺はただの研究員だよ」
うんざりしながら言うと、安藤はニヤニヤしながら前のめりになってくる。
「いやいやいや、あれはもう、ただの研究員なんてもんじゃないっす!
カメラ、完全に先回りしてモンスターの動き捉えてたっすよね!?
普通は追いかけるだけで精いっぱいなんすよ。それが先輩は――」
彼は大げさなジェスチャーを交えて、言った。
「
その言葉に、缶を持つ指が一瞬だけ止まった。
「……読んでた、か」
「そうっす! 敵の挙動を予測して、一瞬早くカメラを向けてた。
動きも位置も展開も、全部! あんなの偶然でできるもんじゃない。
毎日毎日、戦闘ログに向き合ってた先輩だからできたことっすよ!」
俺は言葉を返さず、ただ黙って考えていた。
昨日の戦闘。
敵がどう避けるか、どのタイミングで技を使うか、味方の誰が狙われるか。
それら全てを理解し、思考するよりも早く、まるで脊髄反射のように体が動いていた。
あれは偶然じゃなかった。
五年間、毎日十五時間。
AIDAのために記録させた膨大な戦闘ログを、寝食削って解析し続けた日々。
その蓄積が、意識しないうちに、俺の中で
「んで、それはまあ、わかるんすけど」
安藤が口元をにやけさせたまま、続ける。
「カメラの操作も、やたら上手かったっすよね。
配信嫌いとか言ってたのに、実はけっこう観てたりして……?」
俺は静かに、缶コーヒーを置いた。
「見るかバカ」
それでも安藤は、悪びれずに笑った。
「またまたぁ、照れちゃってぇ~!」
横でそのやりとりを聞いていた香奈が、視線を落とした。
「……配信、嫌い……なの?」
ぽつりと呟く。
その声には驚きと、少しの戸惑いが混ざっていた。
俺は軽く頷いた。
「ああ。アレが世に出てきだした時から、ずっとな」
言葉を切ると、香奈が小さく肩を震わせる。
だが、それでも彼女は俺をまっすぐ見つめてきた。
「でも……お願い。中級ダンジョン、零士くんと一緒に行きたい」
「断る」
即答した俺の声に、香奈が目を見開く。
「――理由はニつ。一つは言った通り、俺は配信が嫌いだ。バズるのが悪いとは言わないが、命のやり取りをウケる・映えるで判断するのは、どうしても好きになれない」
香奈はうつむいたまま、黙って聞いていた。
「そしてもう一つ。お前たちのパーティに、中級ダンジョンはまだ早い」
「…………うん」
しばらくの沈黙。
やがて、香奈が小さく口を開いた。
「実はね。前にも、一回だけ中級ダンジョンに挑んだことがあるんだ。
そしたら、途中で全滅しかけて、怖くなって逃げ帰って……」
震える声で続ける。
「だから、怖いよ。ほんとは……すっごく怖い。中級にもう一回行くことも、失敗することも。
……それに、零士くんのことを巻き込むのも。ボクのせいで、何かあったらって思うと、怖くてたまらない」
肩が、膝が、わずかに震えていた。
だがその瞳は、光を失わずまっすぐこちらを見据える。
「でも、それでもやりたいんだ。ボクには、やらなきゃいけない
だから、お願い……もう一度だけ、ボクにチャンスをちょうだい……!」
ロビーの空気が、しんと静まり返った。
エアコンの風が淡く髪を揺らす。
誰も口を挟まない。
俺も、何も言えなかった。
前回のボス討伐後、彼女は配信を始めてまだ半年程度だと言っていた。
元々格闘技の心得があったり、軍隊に所属していたり、
何かしら戦闘経験を積んだ者ならまだしも、
そこらの大学生が半年そこそこで中級なんてありえない。
目の前にいるのは無茶なストリーマー。
泣き言を言いながら、それでも前に進もうとしている、ただの若者だ。
ここで否定をしてやるのが、大人の役目。
俺は視線を遠くに逸らした。
「やれやれ、青春っていいねぇ」
ふらっと現れたのは、所長・滝沢美帆。
缶ジュース片手に、のほほんと笑いながら近づいてきた。